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「と」から「の」の関係に変われば世界はもっとよくなる

先日、とある雑誌で、日本を代表する禅学者「鈴木大拙」の特集が組まれていたので読んだところ、思いがけずとってもステキな考え方を見つけました。

それは

より多くの人が「と」から「の」の関係に変わっていけば、世界はより良くなる。

という考えです。

どうですか?ステキですよね!

・・・ってなると思うので、順を追って説明します。

そもそも鈴木大拙って誰?

鈴木大拙(本名:鈴木 貞太郎) 1870-1966

歴史上の日本人の中で、海外に最も大きな思想的影響を与えたのは間違いなくこの鈴木大拙です。

何をした人なのか?を一言でいうなら

「禅を世界に広めた人」

と言えると思います。

いま禅(ZEN)が世界的にブームですが、この鈴木大拙の存在なくして今日の世界的禅ブームはありえないと言ってよいです。それほど禅の海外普及に貢献した方です。現在のように西洋の人々が仏教や禅に興味を抱き、そこに新たな可能性を見出そうとするきっかけを作ったのは、大拙が「東洋の思想」である仏教や禅がいったいどういうものなのか西洋人でも理解できるように類まれなる言語力で翻訳し、かつ現地で長年にわたって普及活動をし続けたからに他なりません。

大拙は明治維新後の1870年の生まれで、同時代に活躍した福沢諭吉や伊藤博文らと比べると日本での知名度はあまり高くないように思います。しかし海外での知名度は同時代のどの日本人よりも高いです。それほど大拙が伝えた仏教や禅の思想は、西洋の人達にはあまりに衝撃的でそして魅力的に映ったということです。

ちなみに、故スティーブジョブズの禅の師である鈴木俊隆老師もアメリカでは有名な日本人ですが、俊隆老師と大拙と直接の面識はなく、俊隆老師がアメリカで活躍したのは大拙がいた時代から60年ほど後のことです。奇しくも二人とも鈴木姓だったので、アメリカでは「2人の鈴木」として今も仰がれているそうです。

話を戻しますと、鈴木大拙が広めて世界に衝撃を与えた禅の思想の一つとして「不二」があります。

不二」の世界観をざっくり言うと「二元論になる前の渾然一体となった状態に注目する」という考え方です。

・・・。

ハイ、イマイチ何言ってるのかよく分かりませんよね。

そこでまず「二元論」とは何なのかを改めて理解(おさらい)しておきます。

二元論とはなにか

私たち現代人は、この世界にある森羅万象すべてのものを判断(分類)することによって「世界がどうなっているのか」理解しようとします。当たり前過ぎて無意識レベルでやってることなので、改めてこんなこと言われてもピンと来ないかもしれませんが。

例えば、道を歩いていてこんな光景↓に出くわしたとき

私たちは、これまでに得た「知識」を活用して、例えばこんな判断(分類)をします。

こんな判断(分類)もあるかもしれません。

(実際に日常生活でこんな判断を意識してやる人はいないでしょうけど笑)

「動物/非動物」「食べれる/食べれない」以外にも判断の軸は無数にあると思いますが、私がここで言いたいのは

私たちはこの世のあらゆる「対象」について、それが「A」なのか、それとも「非A」なのかを無意識のうちに判断(分類)している。

ということです。

よく「そろそろシロクロはっきりつけようじゃないか!」なんてセリフがありますが、これがまさに二元論の世界観です。

二元論とは「シロクロはっきりつけちゃう」ってことです。

この二元論という世界観は、近代西洋思想の根底にもなっています。

近代西洋思想では「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトが主張したように、この世のあらゆる事物はどんな大きなものであっても1つ1つ細かく分類して判断していくことを繰り返していけば、いずれ「この世の全て」が理解できると考えていました。

実際、自然科学分野が一気に発展したことで世界はめっちゃ豊かで便利になりました。

二元論の限界

この「二元論で世界を全て理解しちゃおうぜ」という流れは、ある時点まで世界を覆いつくす共通理解であり、日本も例外ではありません。まぁ、西洋に追いつけ追い越せで発展してきた国なので当たり前と言えば当たり前なんですが。「科学こそが万能!シロクロはっきりつけないなんてナンセンス!論理は正義!曖昧は悪!」といった固定的な価値観が蔓延しました。(一部で今でも根強く残ってますけど)

でも、21世紀に生きる私たちにはとっくに分かっていることですが「二元論」で世界を把握しようなんてそもそも無理な話です。ムリムリです。

だって、世界ってそんなに単純じゃないからです。

例えばコイツ↓

カモノハシ

カモノハシは哺乳類に分類されるのですが、なぜか鳥類のように卵を産みます。完全に二元論の分類体系から逸脱しちゃってます。でも自然界にこんな例はたくさんあります。○○なのにxxとか。たいてい”コイツはイレギュラー”というレッテルを貼られて終わりですが。

人間にだってあります。

例えば、最近よくメディアで見かける「台湾の天才IT大臣」ことオードリー・タン氏。彼女はトランスジェンダーであることを公表しています。生得的な身体こそ男性のそれでしたが、オードリー氏の精神は女性だったのです。これは非常に複雑な問題で、単純に「男か、さもなければ女か」の二択で片付けられるものではありません。

オードリー氏のように身体と精神が一致していないという人はいつの時代にも一定割合で必ずいたはずですが、平成の終わり頃までは「イレギュラー」として扱われていたため社会には見えていませんでした。LGBTというワードが注目され始めたのはここ数年ですよね。そもそも「LGBTはイレギュラーである」というレッテル自体が二元論的価値観だと思います。

二元論は対立と差別を生む

「二元論」がもはや限界である理由はもう1つあります。

それは、「二元論」は「対立や差別」を生むからです。

例えば、この写真は、イラン革命の指導者であるルーホッラー・ホメイニー氏のものです。(Wikipediaから引用)

この写真を見て、どう思いましたか?

(ホメイニー氏は故人ですが)もし自宅の近くでこんな方に遭遇したら、日本人だと咄嗟に「ちょっと怖い…」と感じ、警戒してしまうと思います。

でも危険で過激なイスラム教徒は全体の内ほんの僅かであって、しかも日本にいるイスラム教徒の99.9%は善良な人(のはず)です。なのに私たちは無意識のうちに「イスラム教徒=怖い」と差別をしてしまいます。

この差別の根底にあるのがアメリカとイスラム教圏の二元論的対立から起きた9.11世界同時多発テロにあることは疑いようがありません。「イスラム教=悪」という二元論的レッテルは宗教も絡むので実に根深いものがあります。

このような二元論による対立は今この瞬間にも世界中のあちこちで起きてます。チベット/香港と中国、アメリカとロシア、ヨーロッパとアフリカ、北部と南部、etc...あげたらキリがありません。

日本国内でもコロナ禍で「都市部」と「非都市部」の対立・差別が激化しています。

対立を乗り越えるには「の」の関係になれ

二元論」は自然科学の目覚ましい発展という恩恵をもたらした一方、対立と差別を生み出す源泉にもなりました。

では、禅が「二元論」を乗り越えるために説く「不二」の思想とは一体何でしょうか。

大拙の著書のひとつ「東洋的な見方」にはこう書いてあります。

西洋の人々は、物が二つに分かれてからの世界に腰をすえて、それから物事を考える。東洋は大体これに反して、物のまだ二分しないところから、考えはじめる。

東洋では物事が二つに分けられる「前」の状態から考えると言っています。つまり、二つのものが渾然一体となって融け合い、どちらがどちらとも区別がつかない状態を考えるということです。

大拙はこの状態を「自他非分離」と呼んでいます。

自他非分離とはすなわち「Aでもあるけど、非Aでもある」もしくは「Aでもなければ、非Aでもない」。そんな状態を受け入れるということです。

ちなみに東洋では、自他非分離の状態をうまーく表現する図柄が昔からあります。太極図というやつです。↓

(厳密にいうと太極図は禅(仏教)ではなくて儒教のものですけど)

「自他非分離?そんなの論理的に矛盾してるだろ!ありえない!!」

と突っ込みたくなった人は、二元論的な世界観に相当毒されていると思ってください笑。そもそも「論理的」という表現が「二元論」そのものです。

世の中には「Aでもあるけど、非Aでもある」なんてことはザラにあります。

これこそが「不二」という世界観です。

では、この「不二」がなぜ「対立」を乗り越えることに繋がるのか?

それは、「不二」の世界観ではすべてが「自分ゴト」になるからです。

●二元論(=自他分離)の世界では、関係性はこうなります。

「あなた」と「私」
「夫」と「妻」
「部下」と「上司」
「生徒」と「先生」
「自然」と「人間」
「世界」と「日本」

これが、

●不二(=自他非分離)の世界では、関係性はこうなります。

「あなた」の「私」 
「夫」の「妻」
「部下」の「上司」
「生徒」の「先生」
「自然」の「人間」
「世界」の「日本」

」から「」に変えただけですが、これだけで自分と他者との間にあった「境界」がなくなります。どちらも一緒。同じ。お互い様。渾然一体。

だから

「夫」と「妻」を区別して、「夫のくせに!」とか「妻としてあるべき姿は…」なんてぶつけ合ってる場合じゃないんです。お互いが「夫の妻」であり「妻の夫」なんです。

「部下」と「上司」も、そんな硬直した関係性じゃなくていいんです。「自分は部下ではあるが上司的な視点も持って上司と接しよう」と思うべきだし、上司も「自分が部下だった頃」を棚に上げて部下に接するべきではありません。

最近は「自国ファースト」に熱心な国が多くて、何かにつけて「自国と他国」という対立軸で考えている国家元首が多いように見えますが、それじゃいつまで経っても世界はバラバラのまま。宇宙人からみればみんな同じ地球の上にいるのだから「世界にとっての自国」を考えないとダメだと思うんです。

こうしてみると、二元論(つまり論理)によって世界の構造を次々と解き明かしイケイケだった西洋の国々が「あれ?二元論だけじゃこの先もう無理くない?」と気づき始めた頃、大拙博士から禅の世界観を聞いてどれほど衝撃を受けたことか。と思わずにはいられません。

でも、日本人にとって自他非分離の世界観というのは

「うん、まぁ言いたいことは何となくわかる」

という人も多いんじゃないでしょうか。明治5年から続く近代西洋式の教育制度ですっかり二元論的世界観に染められた私たち日本人も、太古の時代から自然と人間を一体化させた精神性・文化の中で暮らしてきた時間が圧倒的に長いので、禅が説く「不二」の世界観は感覚的に理解できるんじゃないかなと思います。

おしまい。

おまけ①

自他非分離の中で紹介した「太極図」は、禅や仏教ではなく儒教の「陰陽論」に由来するものです。「陰陽論」もめちゃくちゃ面白い世界観なので、よかったらコチラもよかったら覗いてみてください↓。

おまけ②

禅が世界的ブームなのは分かったけど、禅はあくまで仏教の一派でしかありません。そもそも仏教の発祥地はインドであって、それが中国に渡り朝鮮を通って日本に輸入されただけです。だからオリジナルを求めるなら本来インドや中国に行くべきなのに、なぜか禅を求める外国人は日本にやって来ます。それはなぜか?その理由は「禅は今やもう日本にしかないから」っていう話をそのうち書くかも。

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