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「天皇」&「日本」のスタート地点

来週の火曜日(10月22日)は「即位礼正殿の儀」ですね。国民の祝日です。

巷では、先日猛威をふるった台風19号について「天皇陛下がまだ即位してないから被害が大きかった」という説も出てるようです。(結界!?)

結界の真偽はさておき、日本という国は本当に「天皇」という存在が根本にある国なんだなーと感じさせられます。そういえば日本国憲法の第一条にも、以下のように書いてありますしね。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の在する日本国民の総意に基づく」


でもよくよく考えると、「天皇」っていう呼び方は一体いつから始まったんでしょうか?海外だと、国のトップの呼び方は「国王」とか「皇帝」が多いですよね。アウグストゥス帝とかナポレオンとか。「天皇」って呼ぶのは日本だけな気がします。

同様に、「日本」という国号も一体いつから始まったんでしょうか?大昔は「邪馬台国」と言ってたわけですし。何時代から「日本」なんでしょう。

そんなわけで色々調べてみたら、「天皇」と「日本」という呼び方は、ある時期に、ある目的のためにセットで始まったものだったことがわかりました。

っていうのが今回のお話です。

キーマンは「天武&持統」の天皇夫婦

天皇」と「日本」のスタート時期についてはいくつか説があるらしいのですが、中でも有力なのが「天武天皇・持統天皇」の時期から始まったという説です。

いきなり天武天皇とか持統天皇とかいわれても、多くの方は「えっと、歴史の教科書に出てきたっけ・・・?」ぐらいの認識だと思います。私も全然記憶にございませんでした。

なんせあの時代(聖徳太子の頃)って、天智天皇だとか推古天皇とかがいて、それで中大兄皇子が何トカで、中臣鎌足が何トカで、大化の改新が645年でー・・・みたいに「なんだか色々と変化があった時代」ぐらいの認識でしたので(適当)。

今回は、その辺の細かい事情は知らなくてもOKです。「天皇」と「日本」のスタートという点に関していえば、この「天武持統」というW天皇だけ覚えておけばよいからです。この2人が「天皇&日本」のキーマンです。

ちなみにこの2人は夫婦です。持統天皇は天武天皇の妻、つまり皇后です。天武天皇が亡くなった後、自分も天皇になったわけです。女帝ですね。


前フリは聖徳太子の手紙

天武天皇は、その腕っぷしの強さとカリスマ性を武器に熾烈な権力争いを勝ち抜いて倭の国のトップに登り詰めた豪の者です。もちろん最初から自分のことを「天皇」と名乗っていたわけではなく、最初は当時のトップの称号である「大王(おおきみ)」を名乗っていました。それがある時期から自らを「天皇」と名乗りはじめます。これが「天皇」誕生のスタートです。

天武天皇が「天皇」という称号を名乗るようになった裏には、極めて戦略的な意図がありました。その前フリは、天武天皇の即位(673年)から遡ること約70年前、あの聖徳太子が中国(隋)の皇帝に送った手紙の中にあります。

「聖徳太子が中国の皇帝に送った手紙」といえば「日出ずる処の天子なんたら…」という煽り文で皇帝が激怒したというエピソードが有名ですが、この手紙はその後もやりとりが続いていました。聖徳太子はその後、中国の皇帝に次のような手紙を送っていました。

「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」
(ウチのトップである”天皇”が、そちらの”皇帝”様に申し上げます)

古代中国では 天皇大帝(てんこうたいてい) という、この宇宙を支配する絶対的な存在が信仰されており、「皇帝」という称号は天皇大帝から地上を支配するために遣わされたリーダーに与えられるものでした。聖徳太子はその事情をよーく知った上で、自分たちのトップの称号を敢えて天皇大帝から二文字とって「天皇」と表現することで、暗に

「お宅のトップよりウチのトップの方が格が上ですけど?」

と言い含めたわけです。凄まじい対中戦略です。現代の日本の政権ではまず無理でしょう。中国(隋)からすれば、当時の日本なんて所詮「倭国」という名前のザコ属国の1つという認識だったはずで、さぞかしビックリしたはずです。なんせ、中国では畏れ多くて人間ごときが名乗れるはずもない「天皇」という名称を、聖徳太子は自国のトップの称号に使って国書として送りつけたことで、大国・中国に先制パンチを食らわせたわけですから。

天武・持統ペアが仕上げた

この聖徳太子の前フリを継承し、対中戦略を完璧に仕上げたのが冒頭の天武・持統ペアです。どう仕上げたのかというと「古事記」「日本書紀」という自国の記録書を作り、そこに「天皇」という存在を既成事実かのごとく入れ込んだわけです。あたかも

ウチの国はずっと「天皇」でやってきましたよ

と言わんばかりに。

「古事記」と「日本書紀」はともに我が国初の歴史書として作られたものですが、両者は明らかに想定読者が違います。「古事記」は国内向け、「日本書紀」は海外(実質中国)向けです。古事記は日本語(仮名遣い)で書かれ、日本書紀は漢文で書かれていることからもよくわかります。「日本書紀」を通して、日本という国が古来より「天皇」を中心に成り立ってきたということを公式に伝えたわけです。天皇って名乗り始めたのはつい最近なのに。

このえげつない対中戦略を描いたのは、おそらく天武天皇ではなく、妻の持統天皇ではないでしょうか。持統天皇は古代中国の書物(四書五経)に精通し、とくに「易経」のエキスパートだったそうです。国威を守るため、学んだ知見をフルに活かしながら「天皇」という存在を確固たるものにしようとしたのではないでしょうか。さすが女帝。


「天皇」という言葉の矛盾

さて、トップの称号を「天皇」と称することで、中国に対して堂々たる国威を示せるようになったのは良いのですが、1つ問題がありました。

それは、天皇の元ネタである「天皇大帝」が、実は北極星のことを指していたからです。「それの何が問題なの?」と思うかもしれませんが、だって日本は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の国、つまり「太陽信仰」の国だからです。「太陽」と「北極星」は真逆です。

「太陽信仰の国のトップが、北極星信仰のシンボルを名乗る」

という自己矛盾状態が起きてしまったわけです。かといって今更「天皇」を別の名前に変えるわけにもいきません。聖徳太子の前フリもあるわけですから。

で、どうしたかというと

「よっしゃ、こうなったら国号を太陽信仰っぽいのに変えたろ!」

こうして、「倭ノ国」だったのを「日ノ本(ひのもと)の国」と改めました。『トップは「天皇」だけど、ここは天照大御神の国ですよ』と、矛盾を両立させたわけです。これが「日本」のスタートです。

まとめ

日本」も「天皇」も、約1,400年前の私たちの祖先が、中国という大国に飲み込まれないようにするための防衛策として生み出したものでした。今現在も、相変わらず周りの国々を飲み込もうとしている中国の様を見ると、1,400年経ってもやることは変わってないんですね。

最近はインバウンド需要で外国の方がたくさん日本に来ていますが、世界でも類を見ない1,000年以上続いている国号を持つ私たち日本人としては、自分たちのルーツくらいは語って自慢してやりたいもんです。だってアメリカやヨーロッパの国は近代成立した国家ばかりなので、建国200~300年ぐらいでしょうか。アジアの国々はほぼ100年未満です。(中国は今年建国70周年)。そう考えると日本がぶっちりぎで長いわけですから「歴史が古い国」と胸を張って言えるわけで、それだけでも海外の人と渡り合う上で大きなアドバンテージになると思います。

おしまい。

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