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会社の帰り、スーパーで蟹を見つけた。ズワイガニで、555円だった。店内の右奥、鮮魚コーナーのさらに一番端にあるケースには、くらげだの亀の手だの、他の店(上野吉池を除く)で見かけないものばかりがいつも並んでいる。三日に一遍はこの店に来るが、そのたびこのコーナーの顔ぶれは変わっている。鮮魚ガチャ、そう心の中で呼んでいる。「もしかして今日はSSレアの日なんじゃないか」と、そう思ったが、俺はスマホゲームを全然しないので、この喩えが俺におけるズワイガニのレア度を的確に言い得ているのかはわからない。だからお前らにもわからない。ぐるぐるに巻かれたラップのため、蟹の光沢と突き破りそうなトゲとが強調されて目に映る。

カゴの中に蟹がいる。このうらはら・・・・の緊張感と幸福感は、どうだ。俺は北海道に5年住んでいたが、蟹を持ち歩いたことはついぞなかった。仮にも北海道に住民票があった身として、蟹不所持であったことはもしや俺に暗い影を落としはしなかっただろうか。そう内省するのも、すべてはカゴの中の蟹のせいにちがいない。

リュックの中に蟹がいる。555円で俺に買われたかにだ。正確には597円(税込.エコポイント2円引き)で買われた。蟹に意識の操縦桿を操られる思いの俺は、レジを通った途端にラップを剥がしパックを外し甲羅を剥がし、みそをすすり自らを開放しても良かったはずだが、そうすると軽減税率の対象外となり610円の蟹になってしまうのでやめた。俺に買える蟹は500円台でなければいけない。「その場で食べれば~、お持ち帰りすれば~」と税率のネタではしゃいでいた人たちは10月が終わる前にみんな死んだ。彼らを弔うがため、ハロウィンが日本にも根付いたという。まとめサイトにはそう書かれている。

蟹と共に都営三田線に乗り込む。8分間の乗車ののち、帰宅。蟹を取り出す。泡をふいている。泡をふいて、蟹は俺を見ている。俺も泡をふいた蟹を見ている。俺は通販サイトに掲載された蟹の茹で方も見ている(『ぜひ一度、本物の蟹を食べてみてください!』)。かならず一度沸騰させたお湯に、蟹をひっくり返して入れて茹でねばならぬ(さもないと、蟹みそがすべて出てしまう)。10分から15分は最低でも茹でる。それが弔いだという。通販サイトにはそう書かれている。

茹であがったズワイガニが食卓に並んだ。俺はシャワーを浴びてさっぱりした。まずは脚から食べる。身がある。懐かしい味がする。手はべたべたになった。俺はもともと会社を出てから一言も喋っていないがいっそう無口になった気がする。黙々と食べる。黙々と食べる。黙々と食べる。


ところで、これは嘘である。第一に、500円で買える蟹はこんなに黙々と食べられるほど身が詰まってない。第二に、会社を出てからどころか、会社にいる間も俺は一言も喋っていない。だからこれは嘘である。真っ赤な真っ赤な……。

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