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Twitterという暴力装置の話

メンタルが、絶不調である。
先週一週間、精神の調子が荒れ狂っていた。体感は、昔の東映の映画のオープニングみたいな感じ。静かな空間の背後から、波が現れて、岩にぶつかり、「東映」の白い文字が迫ってくる、あれ。ざっぱーん、どしゃーん、ぐわあ。これがエンドレスに繰り返される。適応障害になってこのかた、ぐるぐる回っている、という表現をよく使うのだけど、それよりずっとひどかった。極め付けに、金曜日の夜から体調を崩した。人生と同じで、「おや、おかしいぞ?」と思った時にはだいたい時すでに遅い。土曜日曜は発熱で死んでいた。ベッドの上で、お気に入りの無印良品のパジャマをローテーションさせて、本を読んだり動画を見たりして過ごした。

療養中、どうしようもない焦燥感に駆られていた。この時間も刻一刻と老いている。若い時間を失っている。自分の汗がしみこんだパジャマのまま一歩も動かないこの瞬間も、イケてる友達の田中くんは有意義な土日を過ごしているのかもしれない。失恋が冷めやらぬ元カノの佐藤さんは、新しい伴侶と出会っているのかもしれない。私が、私ひとりだけが、遠い遠い、寂しくて冷たくて価値がなくて、他人から指をさされて笑われてしまうような場所に、ポツンと残されているような、そんな感覚があった。

とは言っても、平熱より1度くらい熱が出ているだけで、人間というのはまるで動きが鈍くなってしまう。(書いていて思ったのだが、発熱しても動きが鈍くならない変異をした人類がいたら、無理して療養できずに動いて免疫を十分発揮できず絶滅してしまうに違いないから、これはこれでいいのだ。)ベッドにいるしか無くなってしまった私は、本にも映像にも集中できなくなった後、Twitterを眺めていた。

Twitterは、恐ろしい場所だ。
Instagramはキラキラして着飾った日常をアップしあって、どちらが上かを競うような雰囲気があって怖い、と言われていた時期があった。「インスタ映え」という言葉が、流行感度の遅いテレビ番組に取り上げられる少し前くらいのことだ。それと対比して、Twitterは生(き)の言葉で綴られているし、恥ずかしい日常もあけっぴろげに書ける、飾らないSNSだ、というふうに称揚されていたと覚えている。

だが、私はTwitterをそのようには見られなくなってしまったことに、気づいた。生(き)の言葉で綴られている、というのは決して良いことではない。Twitter上での表現の過激性は、他のメディアで見ることができないくらい過激になっているように想う。左右問わず政治主張を徹底して繰り広げるアカウント、誰々とセックスしたことを赤裸々に語るアカウント、仕事ができない職場の誰々さんの悪口を言うアカウント、パートナーの悪口を書くアカウント、主義主張に沿わない勢力を作り出して「ネトウヨ」「パヨク」と攻撃を繰り返すアカウント、飲酒量を誇るアカウント、炎上した芸能人を追い回して叩くアカウント。顔や名前を晒しては決して言えないような、扇情的な言葉が氾濫している場所だと思う。

私は、自分が自分で正しいと思っていた。(正しいと思う立ち位置が変わったから過去形にしたけれど、今は今で別の形で自分のことを正しいとも思っている。)例えば私は、政治主張においてはリベラルだし、人種差別はしない、公正公平な人間を心がけていた。それは社会の想定する「正しい」人の在り方であると思っていた。

でも、ひとたび「ネトウヨ」的な言説を見るとそれを攻撃したくなるし、芸能人の炎上には義侠心から断罪の手を緩められなくなってしまう。西で財務大臣が周辺諸国の人民を馬鹿にするような言説をすれば叩き、東で芸能人のセクハラ問題が起これば便乗して叩く。そうして、他人に向けて、圧倒的な自分の正しさを、鋭利な刀剣として振るっていく。Twitter上では、自分と合致する意見も、合致しない意見もどんどん過激になる方向にあるから、私の言葉も過激に、言葉の切れ味はさらに凶暴になっていく。

例えば、極めて露悪的な行動を取っていた前安倍政権について、私は徹底的に叩いたことがある。批判の矛先は、特定秘密保護法や安保法案、森友加計桜を見る会、黒川問題などの各論に対する批判にとどまらず、元総理大臣やその妻などへの個人攻撃のツイートを「いいね」「リツイート」するに至った。安倍前総理は信じられない極悪人だと思っていたから、血統主義がまかり通る政治の世界で、安倍昭恵氏に子供が生まれないことをよかったことだと揶揄するツイートに関しては、「うまいこと言ってくれた」とほめそやし、似たようなことを思っていた。

他にもTwitter上では、不倫をした芸能人の生殖機能を取っ払ってしまったほうがいいとか、不祥事を起こすような奴らは死んだほうがいいとか、仕事ができない人間は働く価値がないとか、事件を起こした人間は死刑になって地獄に落ちろとか、介入してくる姑がいつ死ぬかをずっと待っているとか、とにかくいろいろ書かれている。非常に暴力的な言説が、Twitter上では溢れている。さながら、痛覚が麻痺してしまったかのように。

ベッドの上で、私が前総理夫人に思っていたことを書いていたリベラル系アカウントが、ハンセン病に関する過去の政府対応を同じように強烈に批判しているのを目撃した。かつて「らい病」と呼ばれたハンセン病患者は、差別に苦しみ、収容所に入れられ、「らい予防法」のもと生殖能力を手術によって奪われた。劣等な病気・形質を遺伝させることを「予防」するため、というのがその根拠だ。

このとんでもない差別を批判する口で、「日本の憲政を大きく破壊した極悪人・安倍前総理の遺伝を残さずに済んでよかった」とか「不祥事を起こす芸能人の排卵は止めた方がいい」「交通事故で家族を奪った上に反省もない上級国民の老害は、家族丸ごと不幸になるべきだ」などと言っているアカウントがある。極めて暴力的な発言を方々で発信することには、明らかなダブルスタンダードがあると思うが、意見それぞれは「いいね」を稼ぎ、賞賛を得ている。恐ろしい状況であるが、私もそれに加担していた。人間の元々持っていた性質や後天的に行った(悪い)行動によって、その人間性までを徹底的に攻撃するのは、ラマ人や精神障害者の生殖機能を奪った初期ナチスに熱狂したドイツ帝国の国民と同じだし、姦通罪の罪人を市中引き回しのエンターテイメントとして消費していた室町時代の市井の人々と同じだ。

Twitter上で溢れる攻撃性は、人間が持っている攻撃性を無制限に強大化させているように思う。匿名の服をまとった生(き)の言葉は、「言葉」というそもそもの本質として暴力になりうるもののポテンシャルを最大限に発揮する装置と化している。その装置の中にどっぷりと浸かっていると、その暴力性になかなか気づけない。

私は、高等教育を受け、良識を得た人間として、なるべく社会を良い方向へと進めるために戦っていくべきだ、という考え方を持っている。だから、Twitter上できちんと意見を表明することを重要だと思ってきた。でも、「正しい」言葉の暴力性の強さに、耐えがたい。メンタルを壊した今の状態では、特に。

そんなことを思ったので、少しTwitterから離れてみようと思う。新しいSNSや自分の正義との付き合い方を見つけていけたらいいな。

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