2018年6月に本を読んで考えたこと

現実世界では色々なことに右往左往しているのに、何か踊り場のような、でも気分は悪くない、楽観的で不安定な閉塞感のようなムードが心の中間層にあった。(心の底は何か感動のようなものがずっとある。)これは単に季節のせいかもしれないし、季節なんてそんな1年スパンじゃないもっと大きな流れのせいかもしれない。前者だとすると、梅雨という点でもそうだし、僕は10年以上日記をつけているのだけれど、その日記を後からぼんやり眺めると、たいてい5月には大なり小なりの挫折感があり、6月はそれにどう立ち向かうかをぼんやりと決めかねているような雰囲気があるので、その雰囲気が今年も来ているのかもしれない。ちなみに、その日記は5年日記で、例えば縦に6/6の日記が5つ並ぶ作りになっている。1日1日の書くスペースはそれほど多くないが、横串で同じ日の心持ちや出来事を見られるおもしろさがあり、そこには一定の傾向があったりして興味深い。後者だとすると、色々な生と死に関するイベントが今年の前半半年にはあったので、そういう文脈の中での立ち位置としてのムードがあったのかもしれない。でも、折り目の正しい節目というのには、どうにもしっくり来ない。だらだら書いたけど、やっぱり単なる季節のせいかな、これは。
それにしても産まれる/産むっていうのは、どういうことなんだろうか。

さよなら未来(若林恵)
5月に読んだのに、大切な本過ぎて先月のnoteに書き忘れた。
思いが溢れ過ぎて、書いては消し書いては消しして結局消した意気地のない僕にも、未来への展望なんかじゃなくて勇気が足りない。

空海の夢(松岡正剛)
相変わらず松岡正剛の奔放な情報の濁流で、読みおわったあとには、果たして空海の情報がインプットされたのか、それとももっと得体のしれない何かか。
この人の編集というのは、ひとまずは情報と情報の出合わせに真価があると僕は思う。出合いは物語となり、点を線、線を面にしていく。例え半ば強引に感じても、気がつくとその情報接続の平面の中に立たされてしまう。だから空海というものの磁力に引き寄せられた情報たちが、どこか片足は空海の接着していながらも、空海を媒体(磁力)の源とはしながらも、それら同士であたなかも完結するような物語の面を作って、気がつくと足場としてこつ然と地平を作っていることに気がついて、あとは本を読んでいる間はその地平の中にいて、気がつくと空海のことも忘れてしまったりもする。
その平面の1つを。文字が輸入されたときの話で、「三輪山には古来よりオオモノヌシとよばれる神がいた。これを漢字で意訳してみると大物主と大霊主のふたつの該当漢字があてはまる。モノという古代概念には物と霊というまるで相反するようなイメージが含まれて下さいたためである。」という下りがある。
音韻世界としての日本をあらためて考えるとそうした曖昧な意味性が文字として明確化され、記録されないことで、ムラシャカイ的に流通できていた、非常に曖昧でやわらかい社会が浮かぶ。内輪的なのか?いや、今よりもノンバーバルな以心伝心に長けていたんじゃないか。我々が言葉に執心している間に失われたコミュニケーションがあったのではないか。これは別に日本に限った話ではないのかもしれない。しかし、日本は漢字とかなとカナを併存させることでその曖昧なムラシャカイ性を比較的保って今日に至っている可能性はあるのかもしれない。あるいは絵文字やスタンプ(LINE)の文化。あるいはもっと閉じたもので言うならば俳句。そして、地理的な意味でもハイコンテクストを保つことができた。結局は「中空構造」ということに接続する。

植物は〈未来〉を知っている(ステファノ・マンクーゾ)
植物の知能も分散的だと言う。動物のように脳の中央集権的管理体制ではなく、身体の部位が機能としての知能を持っている。これは近年では動物でもそうではないかと言われていることだが、植物はもっとわかりやすくそうだったということか。それにしてもまた分散の話だ。どこもかしこも非中央集権的管理の話ばかりだ。
松かさのかさが死んだ組織なのに、気候に合わせて動くということも機能である、機能を持つ有機的(サステナブルな)存在ということは広義の知能と言えるかもしれない。そう考えると、植物にとって受粉を手伝う動物たちもある意味で自身の機能の延長線であり、非常に広義な知能の一部と言い換えても良い気すらする。そして機能と臓器は対にはなっている(でもそれすら怪しくなってる)が、それを人間に還元すると、何かスピリチュアルというか、とても大乗仏教的な世界観に行き着く。世界が自分の存在の機能であり知能であり、自分が世界の機能であり知能である。結局やっぱり本当に非中央集権的な話になるし、東洋思想に接続していく。近頃は何読んでもそんな感じだ。人間は60兆個の命の乗り物というけど、個体としての生命ってなんなんだろ。物理的に接続した固まりのことか?それがそんなに大事なんだろうか。一群の蟻にも個別の生命を感じるが、同時にその群れ自体がひとかたまりの生命のようでもないか。筆者はその昆虫の群れを題材に植物の根のコロニー性を説明していたが、裏を返せば群れが(我々の認識する類の)個体と言えるという話になる。そして大きく見れば、我々人間も同じではないか。人間社会コロニーという一つの個体的な生命であるとも言えるんじゃないか。
ミツバチと脳のニューロンと古代アテネの民会が共同体の集団的知性として語られていたりもしていて、この本はあくまでも植物が主役の本だが、僕は上記のような生命や知能への重層性という考えが頭にこびりついて離れなかった。

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである(宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より)

どうしても、すぐに仏教や芸術の思想世界に接続したくなるけど、踏ん張ったほうが良いのだろうか。

あと妊娠していた妻にメッセージを送るときに「身体の具合はどう?」ではなくて「身体の様子はどう?」と聞くほうがだんだんしっくりしてきた。言わずもがなだが、お腹に別の命があるからだ。でも一方で、そもそも僕らはいつでも「身体の様子はどう?」という距離で、意識できる外部として点検するような気持ちで、身体と関わったほうがいいのかとしれない。これからも積極的に使おう。「身体の様子はどうですか?」あ、22日に第二子が産まれました。

それにしても、話題の新刊を読むと、その内容自体にではなくとも、やっぱりそれなりにフィードバックがあるんだなあと思った。

僕らのネクロマンシー(佐々木大輔)
なんだか、僕のために書いてくれたのかと思うタイプの物語で。いや、なんだかゲームっぽいバトル的な話とか個人的に違和感があるし、全体に決して物語や文章が上手いわけじゃないのに(失礼)、特別素敵に思える話だった。文学が好きで、しかし2000年台に(ネット)ビジネスに身を落としはじめ、そのバランスの中にある虚しさを抱きしめるだけの夜を過ごした、ある全てのオジサンとオバサンへ、とか思っちゃった。
販売の仕方含めて、作者の決意の方が、本自体よりも隠された多くのナラティブを持つように想像したし、直接的に書かれていない表現の中に、その箱庭療法的な決意の物語が潜んでいるのではと思う。

河合隼雄著作集9 仏教と夢
どうしてこの本を図書館から借りようとしたかは、はっきり覚えていない。いきなり予約をしていた。ただ、とても勘の良い選択だった。何かに引き寄せられているように。
まず「何かにつけ、日本人は「外圧」によって行動を起こすものだ、などと考えると少し残念にも思えるが、この受動性こそが仏教的とも言えそうである。」といきなり序説の最後の文言に膝を打つような言葉が出てくる。これは、河合隼雄氏の仏教への見立てのきっかけが、アメリカの大学の講義のタイトルを大学側からいきなり「buddhist phychotheraphy」と提案された時に起きたことを指して語っている。流石、古事記の研究からいきなり「中空構造」という日本的本質へ飛躍的なアイデアを飛ばした氏である。(詳しくは以前のnote)関連する情報から突然にさも当然のように軽やかに本質に辿りくその飛躍力と的中力は、ユング研究所に入った最初の日本人として人の深層心理について思いを巡らせ続けていた彼ならではのものだったんだろうか。凄まじい。凄まじい何か突発的な勘のようで勘とは思えない深層的明晰さがある。共時性に従って生きていくと本当にこういう導きと飛躍の中で生きていけるのかもしれない。

収録されている「明恵 夢を生きる」は本当に名著だ。
恥ずかしながら、明恵という時の総理大臣の妻と同じ名前(漢字は違う?)から、てっきり女の子の夢診断の話だと思っていて、仏教と夢の中に入っているってことは何かその明恵ちゃんの夢から仏教的世界観に接続して、河合隼雄氏もろとも飲み込まれてしまったスペクタルなのかと思ってしまっていた。ぜんぜん違う。
明恵上人はあの白洲正子も本に書いている鎌倉時代前期の華厳宗の僧だ。彼は12世紀の日本にあって、自分の夢を40年ほど記録を続けたという非常に稀有な人物であり、そして非常に高潔な精神性を持った聖人だったようだ。河合隼雄氏いわく、自分の夢を記録するというのは、心理療法の最中とかでないのならば、(大きな意味で)どこか精神に異常性があるという。夢日記というのは確かに続けるのが難しい。明恵は自分の精神性をその夢の中に投影し、ある意味で夢を自分の指針ともするような意識の高さを持って生涯を過ごしたようだ。
夢診断的な文脈だけではなく、単に仏教についてとの話としても、例え「不婬戒」に対する親鸞と明恵という同時代の二人の方向性の違いなど、仏教そのものへの興味にも答えてくれる本だった。

「仏陀が弟子たちと山を登ったとき、向こう側で山火事が起きた。そのとき仏陀は「君たちは山が燃えているとのみ思うのか、燃えているのは山だけではない、君たちのそれを見る眼も、萌えている。一切が燃えている。見られる者も見る者も、聞かれる物も聞く者も、、」と語ったという。武内義範はこの仏陀の言葉を解説して、「そのように「一切が燃える」といとき、世界と私とは、その燃えるというあり方で、はじめて主観と客観との対立以前の、根源的な在り方で、一切である一切として問題にされる。(中略)それとともき主客の対立という分別も、本来はこの無常相の主客一体感から生じる(この一体感の世界に、錯倒した仕切りをその上に立てるところから生じる、すなわち無常感かわ理性の水面に自己自身を映すとき、その顛倒した自覚の仕方によって主客対立以前の世界が成立してくる)ことを知るべきである」と述べている」
なんてワクワクする逸話だろうか。もっと仏教のことを学びたい。

村上春樹、河合隼雄に会いに行く
何か筆休め的な意味でも軽い本が読みたくて。
かれこれ20年前の本だが、我々はそこから何が変わったんだろうか。あるいは何が変わっていないんだろうか。オウム事件を指して、彼らが共有していた「稚拙な物語」と幼稚なテクノロジーとの安易な組み合わせについて語られているけれど、今はその稚拙な物語とテクノロジーとの組み合わせが安易に容易く無数に氾濫できる時代になっている。いやこの稚拙というのは、必ずしも否定的な意味ではなく、河合隼雄氏は「稚拙」というより「素朴」という意味でその重要性を語ってもいる。僕自身はどちらかと言うと、その「安易さ」ということが、どうしても気になる。
また、日本的な個人、西洋的な個人ということを考えていった先に僕はどうしても「再現性」ということを考えてしまった。それはちょうど妻の出産を目前になかなか産まれない(陣痛が続かない)日々を繰り返し、本当に計画通りになんてどうしてもいかない(促進剤でも飲めば別だけど、本来的にはという点で。助産所出産だったので)ということに感じ入っていたこととも重なるだろう。
また、日本人的な個人をつきつめると、どうしても歴史の縦軸になり、それが今同時に起こっているということなのではないか、という話(「ねじまき鳥クロニクル」のノモンハン事件の話を引きながら)にはどうしてもピンと来なかったのは、僕自身が北海道という日本人的には歴史の浅い土地の出身で、ある意味でアメリカ的な歴史の浅さと(農民的には無自覚な)侵略の過去を持っているからなのかもしれない。

それにしても久しぶりに読み進めやすい本を手に取ると、無防備に読書っていいなと思える。これまでの読書で蓄積されたものが、ポンポン出てくる感じもあって、本というものがいかに自分にとって特別な経験をくれるのかということに感じ入ってしまう。

こうやって振り返ると結構本が読めた月だった。電車が主な読書場なので、本当に集中の持ち方1つという感じがするし、それこそ自分の中の物語がそこに響き合って、響き合う本ならば読み進められるとか、そういうこともあるのかもしれない。
来月は吉本ばななが読みたいようなムードがある。
何か、家族が面白いし、もっと家族が面白くあるようなあり方が、一番面白くなるんじゃないかと思ったりする。最後に最近大事にしている言葉を。

「哲学の仕事は、だれもが仄かに感知しているのにまだよく掴めていない、そういう時代の構造の変化に、概念的な結晶作用を起こさせることにあるはずだ。未知の概念をそこに挿入することで、その変化にある立体的なかたちを付与するものであるはずだ。」(鷲田清一「わかりやすいはわかりにくい?」

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