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育つこと。育てること。成長すること。

私が20代だった頃、30代~50代はとても大人に見えました。そして、そんな大人の方々にとても「育ててもらった」という感覚があります。

当時はそれなりに年功序列が残っていたことや、学生時代のクラブ等の影響で「年長者を敬う」ことは当たり前の感覚でしたし、「自分より長く生きてる分、(社会情勢等含め)いろいろなことを経験しているだろうから、そういった人たちの言葉に耳を傾ける」ことも当然だと思っていました。

もちろん、中には耳の痛い話もありました。今の常識からすると「はぁ?(  ゚Д゚)」ということも多々あったと思います。でも当時の私は受け入れるしかなく、至らないのは自分のせいで・・・とかなんとかかんとかあって、辛い思いもしましたが、そういったお蔭でいろいろな考え方ができるようになり、腹立たしかったことも含め「全てに感謝」という境地に至った時期があったのも嘘ではありません。

なので、自分が「大人」になった時は、自分が育ててもらったように「若い(年下の)人達に伝えてゆきたい。その時相手に響かなくても、いつかその人が「あぁ、あの人が前にこんなこと言ってたな」って思い出してくれたらいいな、と思いながら接していた時期もありまし「た」。

え。美談的なのに。
「今こそその大人の年代」になったのに過去形かよ、って感じですが。

えぇ。少し前まではこの「美談的な想い」が通用したこともあったと思います。でもインターネットが限りなく発達している今、本当に年齢や上っ面の経験は意味を成さなくなってきていると感じます。いくらでも情報は拾えるし、いくらでもコミュニケーションできるんです。興味・好奇心に従って「取り入れよう」と思えばいくらでも得ることができるのです。

「育ててあげたい」と思っていた若者たちは、もう勝手に育ってるんです。年長者が口をすっぱくして何かを言わなくても、勝手に自分で考えて勝手に行動しているんです。
「年長者」が手を出さなくても「できる若者」は本当にできるし、逆に年長者こそが教わらなければいけない、というような場面もあります。そしてそういった場合の多くは、こっちが恥ずかしくなるようなこともあったりするのです。(noteを見てても、若い方の考察とか洞察力とかすごいなぁ、って思ったりします)

というか、もしかしたらこの感覚こそが「本当に」年長者になりつつある感覚なのかもしれませんが。。

とにかく「年長者たるものは」とか「若者に教えてあげなければ」なんていうのはもう時代遅れで、そういった考えは過去の栄光にしがみつく古臭いオッサンでしかありません。

人はある程度歳を重ねてしまうと、成長を止めてしまうような気がします。私もその一人です。というか、むしろ私がそうです。成長しきってしまったら(ある程度世の中が見えてしまったと「思い込んで」しまったら)そこで打ち切り。後は惰性。そして諦め。

まだまだ知らないことがあっても自分の「感覚」で「どうせそんなもんでしょ?」と勝手に想像して勝手に完結させてしまう。

でも、そうじゃないんですよ。「アコガレの大人がいない」とか「周りは若者ばっかだし」って、「上の偉い人」から何かを得ようとするような時代は終わってしまったんです。しょうもない年長者はしょうもないですし、デキる若者は本当にデキるんです。

「年齢じゃなくて個人だし、人によるよ」って当たり前の話かもしれませんが、それを本当に受け入れられる人ってどれくらいいるのだろうと思います。
自分が苦労してきたことを飛び越えて成長している若い人達を認めることは、悔しさを伴うかもしれません。でも、そこで立ち止まっているとどんどん時代遅れのオッサン(オバハン)になっていくような気がします。そっちの方が恥ずかしいし、それ以上に自分の成長を止めてしまうことの方がヤバいような気がします。

大人なんか偉くないです。歳取って固まるだけです。時代の流れに対する柔軟性を持ち続けていたいと思います。


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