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いずれ血となり肉となった

インテリアの学校も佳境に入りつつ、仕事を辞めた今は心おきなく課題に取り組むことができ、その環境はとてもありがたいと思います。そして自分は勉強したかったんだなぁ、なんてことも感じたりしてます。勉強したかった・・というか、多分、いろんなことを知って、いろいろ考えて考えて考え抜きたい、みたいな欲求があるようです。

そしてそんな私の性質と学校の性質が合うようで(業界と合うのかはまだわかりませんが)、場所を間違えると「面倒くせぇよ」と言われる(た)私は、「深く掘り下げる人」と周りから結構イイ感じに受け取っていただけています。

「何でそんな深いの?」「どうしてそんなに考えられるの?」

どうしてって・・・多分それは20代の頃から文章を書いていたからなんだと思います。

などと言いつつ(書きつつ)、私が書いていたものは、別に仕事でも何でもなく日々の雑感ばかりでしたが「文章を書く。そしてそれをwebで公開する」ということはそれなりに責任が伴うし、言葉を知らないと恥ずかしい思いをするワケです。なので言葉の選択にはそれなりに気を遣っていたし、ノリで出てきた言葉はちゃんと意味を調べたりしてました。あとはオチがない文章は面白くない、と思い、何を書きたいのかを最後には明確にしたい・・そんな気持ちがあったような気がします。当時は。(え。今は?)

それがやっと・・いえ、久々に日の目を見ることができたのかなぁ、なんて思います。本当にここ数年は、今まで培ってきたモノが全て否定・・とまではいかないけど、理解される機会がほとんどなかったような気がします。それまでは「これだけ頑張ってきたんだから」どこへ行ってもなんとかなるという自負があったにも関わらず・・。

というような経験や想いは、それなりに年数を重ねてこれば誰でも通ったり、感じることはあると思います。でも、それを言葉にしたり表現をする、となると、やっぱりある程度の訓練的なものは必要なのかな、なんて「深い人」の称号を与えられた私は思うワケです。

というか、noteとか書いてる人ならある程度哲学的だったり、クリエイター気質だったりするだろうから、きっとここにいる人達はみんな「深い人」じゃね?とか思ったりします。

ということで、無理やり今日のオチ(?)をつけるとすれば「文章を書けば考えるようになる」だろうし「性質と環境を合わせることは大事だよ」ってことかな、なんて思います。

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