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【小説】退紅 -ARAZOME-


 康明は疲れ果てた。新鮮味のない日常をただ生きることに。
 見栄えの良い会社に就職して、安定的な収入と妻子を得たことで、この先の人生を凡そ予測していた。無論、それは思い込みに過ぎず、明日一体何が起こるか誰も知り得ないが、彼の考えによると、不測の事態とは、主に不運や不幸などである。要するに、今後の人生とは、予測した未来の減点方式であり、仮に思いもよらない幸運があったとしても、積み重ねた減点分を相殺するに至らない。
 解決の“未知”は、手に入れたすべてを捨て去ることで開かれる。
 だが、現代社会で糞真面目に生きてきた彼にとって、それは自死するよりも難しい。意識は絶えず過去の延長線上にある。打算的に導き出した頼りない未来は、無様な自演の時を待っている。


 康明が家を出たのは、四月中旬のことである。ちょっと出掛けてくる、と妻に言い残し、遠い山間部までやってきた。
 したたる緑の中に、瓦屋根の民家が点在している。
 古ぼけた電車を降りると、まさに桃源郷の景色が広がった。蒼天と向かい合う桃の花が、小さな谷間からこぼれんばかりに咲き揃い、色は桃、白、紅と、個性豊かである。風に泳ぐ鯉のぼりと、元気に飛び回る子どもたちの姿も見られた。
 だが、康明にとって新鮮な感動はなかった。冷めた視線の基にあるのは、過去の似たような経験である。

 康明は偶然見つけた客のいない茶屋に入り、丸い座布団に腰を落とした。手が自然と伸びた先は、携帯型の電子機器である。彼らしく会社にはきちんと有休申請を出してあったが―――
 仕事が気になる自分を諫め、すぐにその電源を落とした。結局、休もうとしても心が休まらない。現状維持の幸せが崩れることを恐れている。ゆっくり日本茶をすすり、傍目には羽を伸ばしているように見えるが、実は予め行程を決めてあり、常に時間を気にしている。贅沢な時間をけち臭く味わい、猶更疲れようとしている。


 しとやかな暮色が迫る頃、康明は目当ての洋食屋で期待外れの食事を済ませた。
 そして、予約していた宿を訪れ、受付で名前を告げると、男性の従業員が大変申し訳なさそうに謝った。手違いがあり、宿を変わってほしいとのこと。
 こういう場合、用意される部屋の等級は総じて上がる。無論、別料金は取られない。
「そうですか。大丈夫ですよ」
 康明は深掘りせず、紳士的に承諾した。
「少し離れた場所にありまして、当方の車でお送りいたします。明朝もお迎えに上がりますので、ご安心くださいませ」

 時は春宵である。花の香が舞い、闇はそこはかとなく紅色を孕んでいる。
 男性の運転手に送り届けられた宿は、ガス灯の明かりが切妻屋根の木造建築を照らしていた。大きな窓々、白塗りの壁、黒光りした柱―――。遠い昔の、大正浪漫の面影を留めている。
「えらい立派な宿ですね」
「ええ、この辺りで一番の宿ですよ。とりわけ温泉が有名でしてね」
 通り雨が降り始め、康明は玄関先で車を降りると、袴を着たうら若い女性に出迎えられた。和傘を手に、さながら海老茶式部の装いである。
「ようこそお越しくださいました」
 立ち入った宿の中は、ほどよい暗さと木のぬくもりに包まれていた。趣向を凝らした調度品は、和洋折衷である。冷めた康明ですら、一瞬タイムスリップしたような心持ちになり、広間の隅々まで見回した。
「本日は最上級のお部屋をご用意いたしました。大浴場はこの通路の先、別館でございまして、チェックアウトのお時間まで、いつでもご利用いただけます」
 加えて、朝食のこと、館内禁煙であることなど、康明は一通りの説明を受けると、先の若い女性に三階の部屋まで案内された。
「こちらになります」
 康明は失笑を漏らした。感嘆の声であるべきその部屋は、最上級の形容に恥じない。広さは少なく見積もって四人分あり、和室と洋室に分かれている。それを隔てる細やかな組子障子は、間接照明にも用いられている。部屋全体に洗練された華やかさがあり、いやしい絢爛豪華とは異なる。
「何かお飲み物はいかがでしょうか」
「いや・・・」
 そう断ろうとした時、康明は彼女の背景を想像した。ここで働くことになった道筋である。
「熱燗を一合お願いできますか」
「はい。すぐにお持ちいたします」
 康明の哀れを誘った顔は、頬を赤らめ嬉しそうに笑うと、猶更幼く見える。
 しばらくして―――
 彼女は酒を運び込んだ後、無粋にもたついた。康明は一緒にどうだい、などと引き止めず、ありがとうと言った。

 徳利とお猪口は備前焼の黒である。湯気と香りがほのかに立ちのぼった。
 窓辺の椅子に座り、片田舎の湿った夜景を眺め、ちびりちびりとやる一人きりの晩酌は、やたらと眠気を誘った。元来、康明は酒に弱い。暖房が静かに効いているせいもある。お猪口三杯ほどで目がとろんと据わり―――
 目を覚ますと、窓から淡い月影がさしていた。よろけながら移動した先は、和室の布団である。寝支度をする気にならなかった。


 再び目覚めたのは、丑三つ時である。康明は冷えた残りの酒を一口だけ飲み、風呂に行こうと思い立った。
 浴衣に着替え―――
 酒気と眠気が抜けきらない顔で暖簾をくぐると、木造りのロッカーが整然と並ぶ脱衣所には誰もいなかった。直前までいた気配もなく、籐材の床が綺麗に乾いていた。三つある洗面台も清潔感があった。頭上でそよそよと回る扇風機は、首を左右に振っていた。
 湯けむりの立ち込める浴場は、出入り口付近の右手にサウナ室がある。左手に洗い場があり、康明はその一角で体を流してから奥に進んだ。
 先客はいない。御影石の大きな湯船は、さながら貸し切りの様相である。たっぷり張られた湯の上に、提灯を模した電灯の明かりが揺蕩っている。たおやかに流れる三味線の音色は、録音されたものとはいえ、古風な風情を醸し出す。
 康明は湯加減を確かめ、右足から入り、ゆっくり肩まで浸かった。吐息を漏らし、湯船の縁にもたれ掛かり、両足を伸ばした。
 次第に意識が遠くなり、ゆらゆらと踊る体が湯の中に融けてしまいそうで―――
 極楽浄土。そんな言葉が思い浮かんだ。このまま死ねたら幸せだと思った。彼の精神は、やはり疲れ果てていた。
 どれほど未来予測を重ねても、死に際は不測の極みである。

 湯船に顔が沈み、はっと意識を取り戻した康明は、辺りを見回した。相変わらず他に人影はなかった。脱衣所に続く引き戸は湯けむりに隠れ、出口が遠く感じられた。背後にもう一つある引き戸は、ふいに立ち現れたように―――
「あれ」 
 ようやく気付き、思わず声を上げた。
 湯船から上がると、のぼせてくらっとしつつ、未知の戸を開けた。心地よい冷気がなだれ込んできた。そして、手ぬぐいだけを携え、ほの暗い通路をぺたぺたと進んだ。女性の笑い声が微かに聞こえた。一瞬たじろいだが、その先の戸に手を掛けた。
「あら」
 目が合ったのは、黒髪を一つに束ねた艶っぽい女性である。露天風呂の岩肌に腰を掛け、色白の上半身を露わにしていた。照らす明かりは潤んでいる。無数の花弁を浮かべた湯の中にはあと二人、どちらも麗しき妙齢である。驚きも恥じらいも敵意もない。ただ怪しげに微笑んでいる。
 信じがたい光景を前に、康明は死の匂いを感じた。甘い闇に飲まれ、楽に死ねる気がして、慌てて引き返す気にならなかった。
 康明が歩み寄ると、岩肌に出ていた女性も湯の中に入った。その際は、桃の実のような下の膨らみを覗かせた。
「お兄さんもご遠慮なく」
 火照った体の康明は、脇にある檜の椅子に腰を掛けた。ゆるやかな夜風に吹かれた。ふと見上げると、瞬く星々が、或いは極楽浄土が、とても近く感じられた。
「どちらからいらしたんですか」
 女性たちは気兼ねなく声を掛けてきた。浮世離れした物腰である。
「しがない現実ですよ。もう帰りたくないですね」
「あらまあ。けれどお兄さんには、待っている人があるでしょう」
 なぜ分かるのか訊こうとした口をつぐみ、生意気になった一人息子の顔を思い出した。そして、自分と同等、或いはそれ以上の立派な仕事を持つ妻の顔―――
「私がいなくても十分なんです」
 女性たちはふふっと三人同じように笑った。
「なあに捻くれてるんですかあ。しっかりしてください」
 まだ引き返せると、康明は直感的に思った。死ぬか生きるか、最後の選択に迷った。
「とは言っても、自由ですから。落ちぶれてしまえば、楽なものです。さあお兄さん、一緒に温まりましょう」
 死の誘惑と性の誘惑が重なったことで、康明は死後の世界に現実を見出した。死んでも似たような世界が現れる気がした。
「やはり、私は帰ろうと思います。ここで皆さんに会えて良かったです」
「残念。真面目な人ね」
 康明は立ち上がり、誘惑に背を向けると、現実に戻る戸を開けた。
 ふいに死が恐ろしくなり、一度も振り返らず、脱衣所まで一気に通過した。全身をささっとバスタオルで拭き、てきぱきと浴衣を纏った。
 そして―――
 無事に脱衣所の外に出た。髪は濡れたままである。ふうっと大きな息を吐くと、隣の戸に掛かる紺色の暖簾に気付いた。康明がくぐったのは、“女”と白く印字された紅色である。
 退いた男は、真の現実を知り、別の意味で一命を取り留めた。

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