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【小説】見てはいけない日記

 なぜ人は、或いは神は、見てはいけないものを見てしまうのか。
 見てはいけないという禁忌は、世界各地の神話で良く描かれてきた。古事記ではイザナギが黄泉の国に行ったイザナミを、ギリシャ神話ではパンドラがゼウスから受け取った箱の中を、旧約聖書ではロトの妻がソドムから逃げる際に禁じられた背後を、見てしまう。その結果、いずれも不幸になることは、もはや人類の教訓だと言える。子どもの頃から似たような話は読み聞かせてもらった。鶴の恩返しや浦島太郎などである。見てはいけない、開けてはいけないと。

 そのような禁忌は、暗黙の了解を含めれば、現代のどの夫婦にもあることだろう。僕の場合は、こう釘を刺されている。
「私の日記だけは、ぜっったいに見ないでね」
 毎度、絶対という言葉に力が籠もり、そしてにこっと笑う。何度言われたか記憶にないが、初めては結婚して間もない頃で、正直いささか恐怖を覚えた。一体何を書いているのか。毎晩凡そ十分くらいである。そもそも今時、紙のノートに日記を書くこと自体が珍しい。小学四年生の頃から続けているというその習慣も、見られたくないのであれば、アナログからデジタルへ移行して、何かしらロックをかければ良いのだ。
「日記はテレビじゃないの」
 デジタル放送に移行して、地デジ地デジと世間が騒いでいたのは、ひと昔前の話だが、妻はあの時、したり顔をしていたから、きっと上手いことを言ったつもりだったのだろう。
 まあ、別に構わない。妻が日記を何で書こうと。僕は決して覗き見をしない。保管場所は、化粧台の引き出しだと知っているが。ばれずに見たところで、幸福な気持ちになる可能性は限りなくゼロに近い。僕への感謝や愛情を書き綴った上での照れ隠しだと推測するのは、あまりにも間抜けである。すべてではないにしろ、一部僕への不満が吐き出されていると考えておくべきだ。世界一有名な日記だって・・・そう、アンネの日記である。ちょうど思春期だったアンネは、日記を友達に見立てて、まるで愚痴を聞いてもらうかのように、隠れ家生活での不満も書き残した。その中の一節に、“紙は人より辛抱強い”という言葉がある。僕はそれを読んだ時、たしか高校生だったが、ああそうだなあと心打たれた。聞いてくれる人がいない、或いは人に言えないから紙に、もしかすると神に、語るのだ。

 これも同じである。密やかな独り語りとして筆を進めている今、妻は家にいない。昨日から三日間の予定で新幹線を使い実家に帰った。しばらく県を跨いでの移動が制限されていた上に、ウイルスの流行が次にいつやってくるのか分からないので、今のうちに顔を見せに帰っておこうと、そんな理由である。驚くべきは、化粧台の上に一冊のノートが置き忘れられていたことだ。水彩画風の表紙は紫に青、そぼ濡れた紫陽花である。持っていくのを忘れたのか。引き出しにしまい忘れたのか。いずれにしても初めてのことで、ひねくれた見方をすると、意図的に置いてあるような気がする。慌てて出ていく様子はなかったし、妻は忘れ物などめったにしない。読むように仕向けられているとしたら、予想される内容は、僕へのおべっかである。口には出さないが感謝しているなどと、書いてあるだろう。たった三日間の帰省を、僕は別に悪く思ってなどいないが、何かしら後ろめたい思いがあるのかもしれない。
 いや、まさか。考えすぎである。しまいには、読んだら分かるような仕掛けがしてあるなどと、勘ぐってしまいそうだ。或いは浮気かもと。・・・そう、紫陽花の花言葉である。正しいか調べたところ、移り気、変節もある。さすがは七変化の異名を持つ紫陽花であるが、それを疑って何になる。浮気だと暗示して出て行ったと言うのか。別れを持ちかけようと言うのか。有り得ない。心当たりはない。だから日記を見よと?
 何やら見る口実を拵えているような気がする。そんなに見たければ見ればいいのだ。日記だと知らずに見たで、十分な口実である。置きっぱなしにする妻が悪い。ただ、開いて“みた”後も、じっくり読んでしまったら・・・恐らく妻とは別れることになるだろう。浮気だと知るからではなく、見てはいけないという禁忌は、やはり決して破ってはならないのだ。
 よって、僕は裏表紙と、続くもう一枚を開いた。何も書かれていない最後の三ページに、あくまでも独り語りという体で、今これを書いている。このノートが実は日記ではないことも想定している。怒られることも覚悟している。何か面白い展開になるだろうか。妻はいつ気づくだろうか。開く様子を後ろから覗き見るだろう僕は、この三ページしか開いていない。神に誓ってそう宣言する。

 くだんの神話を振り返ると、軽い気持ちというか、興味本位で見てしまっている。禁じた側と、禁じられた側で、その重みに大きな差がある。要するに、たかが日記と侮ってはいけない。そもそも、繰り返し言っておくと、妻の日記の内容に僕が期待すべき点はない。知らぬが仏の代表格である。日記は内面を映し出す鏡に違いないが、例えるなら小さな手鏡である。書いた日の或る一つの感情というか、内面のすべてではない。特に見られることを想定していなければ、怒りやら悲しみやらに任せて書きなぐることもあるだろう。誰でも汚い一面がある。アイドルもトイレに行くのだ。
 ふと顔を上げると、目の前の化粧鏡に自分が映った。改めて前髪の生え際が気になった。どうやら紙と違って、髪は辛抱強くないようだ。そんな一面を持つ僕であるが、妻はこれからも愛してくれると信じて、この筆を擱く。

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