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【小説】冷や柿


 日当たりのない窓際で見上げた天井は、僕の脳内を映し出したように白くのっぺりとしている。埋め込まれた空調は、節電のためにまだ稼働していない。外は清々しく晴れているというのに、薄ら寒い空気がだだっ広い室内を覆っている。古今東西の膨大な本と、紙を閉じた青いファイルが整然と並んでいる。ここは僕の左遷先、北側にしか窓がない研究資料室である。
 数冊積み上げた本のてっぺんに、朝貰った光沢のある柿を逆さに一つ置いてみた。深緑の平たい蔕が底になり、ほっとする太陽のような暖色であるが、その子供染みた振る舞いに対する同僚の視線は冷たい。
「爆弾ですか?」
 珍しく声をかけてきた中林鈴子は、丸眼鏡の似合う文学オタクである。長い黒髪をほっそりとした指でいじる癖がある。社内でマスクをあまり付けようとしないが、始業前の検温には応じている。本好きが高じて、どうやら自らの希望でこの部署に所属しているようだ。
「それは檸檬でしょう」
「あ、伝わったんですね」
 彼女の顔つきがぱっと明るくなった。
「しかし、こうしてじっと見てみると・・・絵具をチューブから搾り出して固めたような色、でしたっけ?」
「檸檬。その通りです」
「この柿もそうですよね。オレンジの絵の具を固めたような色。だから爆弾に見えなくもないというか、偽物っぽいですよね」
「食べてみますか?」
 僕はふふっと笑い、首を横に振った。この部屋は飲食禁止になっている。
「そういう時に限って、上司様がやって来るんです」
 そんなに面白いことを言ったつもりはないのだが、中林鈴子はくくっと笑いを堪え、赤らんだ顔を伏せた。笑いの壺が浅いというより少しずれている。しばらくして表を上げると、偽物っぽい柿に手を伸ばした。
「柿の実の熟れたる汁にぬれそぼつ、指の先より冬は来にけり」
 得意そうに和歌を諳んじた彼女に、誰の歌ですか?と訊いた。――谷崎潤一郎。へえ、和歌も詠んだのか。そう思ったが、口にすると恐ろしく長くなりそうなので、あまり興味がないふりをした。警告音のように鳴った電話は、上司の名前を表示している。
 返してもらった柿の手触りは、言うまでもなく、この現実を爆破できるものではない。食べると体が冷えるそうだ。朝飯代わりは冷や飯と言うべきか。今の自分にぴったりだと自嘲的に笑った。

 仕事は重要な資料の電子化である。紙の時代が終わろうとしていることを実感しながら、ひどく地味な作業を数人で行っている。今でもレコードで音楽を聴く者がいるように、紙の本は今後も世の中に流通し続けるだろうが、その役割は一部の愛好者向けの媒体に変わりつつある。現代社会の物の価値を掌握している紙幣ですら、最早それを直接用いる機会は減っている。ぴぴっと電子決済で手早く買えてしまう。
 十年一昔というか、僕自身もそうである。四十近くになり、今の立場に追いやられるとは夢にも思わなかった。年収で凡そ百万も減り、妻子がいなくて良かったと言える。空前の不景気となっている昨今、僕に限ったことではないし、仕事があるだけ増しであるが、過去を思い返すと悲しくなる。心ないことを言う者もいる。この部署での仕事はラストチャンスなどと。わざわざクビになる寸前だと忠告してくれた、或いは自分がチャンスを与えていると言いたかった・・・
 いずれにしても、それは左遷された者に言うべきではない。新たに直属の上司になったのなら尚更である。後がないと伝え、やる気になるとでも思っているのか。萎縮するか、投げやりになるか、良い効果はまず期待できない。当事者のみならず、負の感情は周囲に波及する。人の卑しい部分が顔を出しかねない。生き残りをかけ、胡麻擂りや蹴落としが露骨に始まれば、四分五裂たる組織の衰退を招く。
 十年後、この会社は存続しているだろうか。順調に昇格した社員たちも、なにやら以前より目の輝きに乏しい。気のせいかもしれないが、先々への不安が滲んでいる。

「おお先輩、ちょうどいいところに。聞いてくださいよぉ」
 加藤正和は、昼休みに落葉の散らばった道端で出くわすなり、日頃の愚痴を語った。ぐちぐちとせず、ぽんぽんと明るい調子なので、聞いていて嫌な気持ちがしない。かつての部下にあたる彼も、理不尽な境遇に置かれている。高い能力を持て余している。妥当に評価されているとは言い難い。空気の読めない発言も一因にあるだろうが、このマスク付きでも分かる整いすぎた顔立ちが、冴えない者たちにとって、やはり癪に障るのかもしれない。いい年した男が妬んでいるとしたら、恥を知るべきである。
「今夜久しぶりに飯でもどうですか?」
 立ち話では足りない様子である。
「たまにはいいね。誰か誘おうか?」
「いや、先輩と二人で行きましょう」
 別に嫌ではなかったが、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「そういう感情はないので大丈夫ですよ」
 マスクを顎に下げ、爽やかな笑みを向けられた。びしっと綺麗な歯並びである。
「まさか恋愛感情のこと?」
「他にありますか?」
「ないね。ないなら良かった」
 僕は苦笑して、男二人での食事に同意した。

 就業後、加藤正和の車で向かった先は、なんと店仕舞いをしていた。記憶に残る琥珀色の灯りが消え、洋風の外観は暗闇に飲まれているような佇まいである。駐車場はがらんと一台も停まっていない。
「ええ!凄いショック」
「去年は良く来たのにな」
「半年のうちに世相は変わりました」
「堕落論だね」
 加藤正和は目をぱちくりさせた。
「先輩って意外に読書家ですよね」
「だからって今の処遇に納得はしていないよ」
「ああぁぁ、それですよ。良く分かります。痛いほどに」
 そして、昼間の続きが始まった。上司の横暴を笑い話に変える技術は大したものである。ひどい悪口も言っているのだが、その怒りが声色に乗っていない。辛かった経験を咀嚼して、熟成させた上で吐き出しているのだろうか。

 仕方なく入った味気ないファミレスでは、ウイルス感染防止対策という名目により、斜向かいに座らされた。効果があるとは全く思えない。そこでも僕はほぼ聞き手になり、時折声を上げて笑った。客は数えるほどしかいないので、こちらを気にする様子の者はいない。店内に流れるしっとりした音楽は、仄かな哀愁を誘う。
「ところで先輩、一つ相談していいですか?」
「なんなりと」
「会社の同僚を好きになったら、告白するべきだと思いますか?」
 彼は少し身を乗り出した。
「それは悩むな。振られたらその後気まずいからね」
「そうなんですよ」
「誰が好きなんだい?ちなみに、水野さんは止めた方がいいよ。男癖悪いから」
「いえ、実はですね、ある女性社員から、そのような相談を受けていまして」
「女性社員が君に相談?」
 頷く色男に向かって、僕は欧米人のように肩をすくめて見せた。
「加藤くん、君はまだ女性を知らない」
「え?知っていますけど」
「いや、知らないんだ。なぜ君に相談をしたのか、良く考えてみなよ」
「うーん・・・話しやすいから、ですかね。たまに話す仲なので」
「違うよ。好きなのは君、ということだよ」
「ええ!?そんな馬鹿な。中林さんですよ?」
 直後、彼はしまったという顔をした。少しわざとらしいが、名前を出すつもりはなかったと言いたげである。
「それは驚きだな。彼女は本にしか興味がないと思っていたよ」
 まさかの中林鈴子である。ぽつんと内気そうに読書をする後ろ姿が思い浮かんだ。
「でも小説にがっつり嵌まる人って、実は激しい気がします」
「ということは、胸を焦がすほどの恋かな。この色男」
「ああ・・・中林さんかぁ」
「だいぶ変わっているが、いい子だと思うよ。君とは趣味も合いそうだ」
 加藤正和はまんざらでもない様子である。彼がはっきりしない態度を取り、中林鈴子を傷つけてはいけないと思った。
「君から好きだと言ってみたらどうだい?恐らくそれを待っているんだよ」
「ええ!?無理ですよ」
「女性から言わせるのは酷だろう」
「いやぁ・・・男女平等ですよ」
 へたれた色男である。軽くひっぱたいてやる代わりに、せめてこう言ってあげるべきだという助言を授けた。
「自信をもって告白すればいい、君なら大丈夫、そのように背中を押してあげてだね」
「告白されたら驚けばいいですか?」
「わざとらしくならないようにね」
 へたれた色男は、上手に驚く練習を始めた。僕が中林鈴子役をやらされ、伏し目がちに声色を変えると大笑いされた。おずおずと注意してきた女性店員は、今だけ貸してほしいような丸眼鏡をかけていた。

 翌朝はぐっと冷え込んだ。始業五分前に出社すると、暖房がほど良く利いていた。すでにいなくなった上司が、真っ先に来て稼働させたようだ。たまには良いことをすると思ったが・・・
「なんで今まで付けていないんだって、上司様のお叱りを受けました」
 中林鈴子にしては、妙に上機嫌である。様付けの皮肉を気に入ったようだ。
「節電しても怒られる、しなくても怒られる」
「不条理ですね」
 とても恋煩いしているようには見えないが、恋が成就したわけでもなさそうだ。恐らく加藤正和は、まだ何も言っていないだろう。今夜辺りになるだろうか。いや、空気の読めない彼は、昼休みに呼び出してさらっと言いかねない。
 
 その予想は的中したようだ。午後になると、中林鈴子はそわそわし始めた。なにやら様子が変わったのである。加藤正和が昨日打ち合わせた通りに話をしていれば、喜んでいるはずなのだが、明らかにそうではない。緊張というか、大きな挑戦を前にしているような・・・
 まさか、彼女が惚れているのは、加藤正和ではないのか?
 ちらりちらりと気にかけているうちに、視線が交わると、不器用に笑いかけられた。
「大事なお話があるのですが、今夜お時間ありますか?」
 聞いた瞬間の冷や汗は、今朝食べた柿のせいではなかった。

 許せ色男。僕は今、まんざらでもないと思っている。

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