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僕がウクレレポエムをやっている理由その2

自分は正しいが争いを創る
だって、相手を変えようとするから・・・。
正しさは相対的
立場が変われば、反対のこというだけだから
売り手と買い手じゃ立場が違う
要はどこで折り合うか

動物界では、弱肉強食弱だったら肉になるだけ
じゃ、人間界はどうだろうか?
一応言葉によるコミュニケーション、抽象的認識、論理的思考による説明
違いを言葉で対話、法律、システムなどで回避。

するかと思いきや、最後は暴力、戦争で白黒つける。
21世紀の現在も相変わらず。

ず~っと探していました。「何かないかな?」と
じゃんけんみたいな、人類共通のシンプルな殺し合い回避ツールや方法。

神でも、お金でも、法律でもない・・・。

そこで、やっと思いついた。
外側じゃなく内側。内面。
相手じゃなく、自分を見ること。内観とかそんなイメージ。
でも、もっと簡単に楽しめる感じのやつ。

「自分を愛すること」
一人ひとりがそれができれば、世界は一瞬で平和になるんじゃないのかと。
もう他人からもらわんでいい。
愛の奪いあいしなくていいから。
その方法が僕にとってはウクレレポエム。
内面から沸き起こる、愛と情熱にアクセスしているから
疲れないし、エネルギー湧いてくる。
誰も望んでないかもしれないが、勝手にやっちゃう感じ。
湧いてくる、寝ても覚めてもそればっかり。
頭の中、勝手に湧いてくるから、無限に。
何より楽しいから。

僕の場合は、それが見つかったけど人によって対象になる
「人・物・事」は違うと思う。
ポイントは、内側から沸き起こる「愛」「情熱」にフォーカスしているか?
「興味」「喜び=うれしい、たのしい、ありがとう」と言ってもいい。

過去の自分を振り返ってみると、苦しい時は、自分とコミュニケーションが
とれていなかったなと気が付いた。

一人ぼっちの生き辛さ抱えた、「コミュ障」だったから。

何とか、早く脱出したかった。もがいた。
真綿に首を絞められるような感覚から出たい。

自分を知らないんじゃなかった、それどころか
依って立つ「自分」がなかったんだ。

引きこもりの息子をお医者さんに連れて行ったとき
そのお医者さんが言っていた。
「自閉症は自分を閉じてるんじゃなくて、閉じるべき自分がないんです。」だって。

衝撃でした。
それ、息子じゃなくて僕のことじゃないかい。
引きこもり、息子じゃなくて親の僕の問題だったのね?
それを息子がひきこもることで、教えてくれた気がした。

どうしてなのか?
過去の人生を振り返ってみた。
良い子は親に愛されたくて、遠慮してるから、甘えられない。
無理して頑張っちゃう、嫌でも嫌と言えない、反抗期ないから。
我慢するから。
人生が苦行僧の苦行になってしまう。

遠慮は、ある意味自己虐待、自分を愛していない。
内面の本音を抑圧して、外面創って外面に合わしている。
内面の本音の自分を裏切って、だまして、置き去りにして、殺している。

自分をだまして、相手も騙している。信用していないから。
見捨てられるの怖いから。
遠慮の上にできた、人間関係。
そら、生き辛いわな。本音出せないから。

自分を愛して、本音で生きるには勇気がいる
アドラーの嫌われる勇気というか、僕は自分を愛する勇気と言っている。
どんな自分も受け入れる覚悟=自愛力

※大西つねきさんの動画でわかりやすい表現ありました。
https://www.youtube.com/live/ZFU3ujrEd6I?si=-jzlZ4qs4ODNok5k

親から分離して、一人の人間として個人としての精神的な自律。
自我の目覚め的な、自他の区別、課題の分離とか。
そういうやつがだんだんできるようになると
他人を変えようとしなくなる。
相手は、自分の内面を映す鏡なんだと気が付くから。

自分の感情の責任はとるけど、相手の感情の責任は相手に任すと。
相手のご機嫌とらんでいいい。冷たいようだけど「知らんがな!」と。

さりとて、人間という生き物は、他者との関わりなしに生きられない成長できない。
でも、いくら探しても都合のいいパートナーは必ずしも見つからないと。
どこまで行っても、人間同士はなくて七癖。
お互い様おかげさまの世界観。
一人ぼっちでひきこもるのも、外界に対して免疫つくまでは、ある程度必要ではあるけれども
内面と対話できなければ、いつまでたっても外界他者とも対話できない。

その、練習ツールとして「ウクレレポエム」をおすすめいたします。
これは、自分とコミュニケーションするツールだから。
一人でできる、内観より簡単な内面探索ツール。

「ボッチ時間」を活用して
自己内対話が進んだら、文章にして、お絵描きにして、ウクレレ音楽にしてSNSでアウトプット。
そのアウトプット作品と共感でつながる「個のネットワーク」を創るツール。

最初は、一人で部屋からネット配信してみてはどうですか?
昔のように生まれた土地で一生同じ人間関係の内側で生活しない人も多い。

情報が多様化し、生活環境が変化、人間関係が流動化すると、自己が断片化する。
利他的自立ができず、魂が植民地化する。

心理学者コフートが言う、「悲劇人間」である。
自己の統合、確立ができないと内側の魂の方が切断されて、外部環境に自分を合わせてしまう。
すると過度に外的なステイタスあるものや権威に自分の価値を依存し、
自分の権利を割り引いて自分に自己犠牲を強いてまで
他人の期待に応えようとし、他人の人生を生きて自分の本音がわからなくなる。

つまり、自分の本音がわからない「自分がない」状態になる。
自分を愛して生きるには、人生の伴走者である対象(=人・物・事)が必要である。
内面の愛と情熱にから沸き起こるもの。

それが、なかなか見つからないから苦しいのである。
家族や友達がいるなら、少人数でもいい。
現在はコミュニケーション過多。
表面上の薄っぺらいコミュニケーションじゃないと全員と心からの対応は無理。
社交辞令やお世辞、愛想笑いの組み合わせで乗り切ることが多い。
要らない人間関係はまず断捨離。
自分とつながる自分だけの時間
つまり「ボッチ時間」を大切にすることからはじめて見ては?
ボッチ時間は自分と対話する大事な時間
自分をだまして、嘘の人間関係つくりを急ぐ必要はない。
まず。自分の本音とつながってみよう。
自分を愛する本当の人生はそこから始まるから。

以下、自己愛の構造 和田秀樹著より一部抜粋
P153ー4
相手の欲求を100%満たしてしまうと、自己と自己対象の分化はなくなってしまう。
子供は、いつまでも母親は自分が創り出したものであるという錯覚から抜け出せない。
赤ちゃんが錯覚の世界から抜け出すために必要なのは適量の欲求不満~

確かに母親が「おやつが欲しいのね」と言ってくれても、おやつをくれるのでなければ欲求不満であろう。
しかし、自分の気持ちはわかってもらえているのだから、母親をあてにすることはできるし、
その間、不安にならずに待っていたり我慢することはできる。泣いたりわめいたり、むずかる必要はない。
このような体験を通じて、子供の自己は構造化される。
抜粋ここまで。


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