冷戦期のイデオロギー対立とは何だったのか?

今まで第一次世界大戦、第二次世界大戦と取り上げてきましたが、今回は「冷戦」について、特に「イデオロギー」に焦点を当てて投稿します。

100年以上前に「冷戦」を予言していた人物がいます。フランスの政治思想家で外務大臣を務めたアレクシス・ド・トクヴィルです。トクヴィルは1835年に次のように記しています。

「今日、地球上に、異なる点から出発しながら同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。それはロシア人とイギリス系アメリカ人である。どちらも人の知らぬ間に大きくなった。人々の目が他に注がれているうちに、突如として第一級の国家の列に加わり、世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した。(中略)両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。にもかかわらず、(中略)いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる。」

当時はウィーン体制下でヨーロッパを中心に世界政治が動いていました。しかし、二度の世界大戦を経て、トクヴィルの予言が現実のものとなります。ヘンリー・キッシンジャーはトクヴィルの予言した地政学的変化を次のように述べています。

「ヨーロッパの人々は1000年にわたり、力の均衡がどう変動するにせよ、それを構成する要素はヨーロッパに存在していると、あたりまえのように思っていた。あらたに生まれた冷戦の世界では、ヨーロッパから見れば辺境の二超大国、アメリカ合衆国とソヴィエト連邦のふるまいと軍備によって、均衡が保たれるようになっていた。(中略)すさまじい破壊をもたらした二度の大戦後、西側ヨーロッパ諸国は、自分たちの歴史的アイデンティティの意識を脅かすような、地政学な観点の変化に直面した。」

冷戦の始まり

第二次世界大戦が終わっても、世界に平和が訪れたわけではありませんでした。枢軸国側が敗北すると、すぐに連合国間での対立が始まったのです。もともと連合国の「アメリカ・イギリス・フランス」と「ソ連」は水と油の関係でした。戦時中も「敵(ドイツ)の敵は味方」という論理で協力したに過ぎません。

では、なぜ冷戦が始まったのでしょうか。この問いに対しては主に3つの考え方があります。それぞれ「伝統主義」「修正主義」「ポスト修正主義」と言います。

・伝統主義:「冷戦はソ連が始めた」

伝統主義は「冷戦を始めたのはヨシフ・スターリンとソ連である」という主張です。ソ連の攻撃的で拡張主義的な外交政策が、冷戦に帰結したということです。その証拠として「ベルリン封鎖」や「北朝鮮による韓国への侵攻」が挙げられます。

・修正主義:「冷戦はアメリカが始めた」

修正主義は「冷戦を始めたのはアメリカである」という主張です。第二次世界大戦後の国際秩序は二極化構造ではなく、アメリカによる一極構造であるとし、アメリカ側に選択肢があったと言います。さらに、アメリカの資本主義が拡張主義的であり、世界経済の覇権を求めたことが、冷戦の要因になったとしています。

・ポスト修正主義:「冷戦は二極化が原因」

ポスト修正主義は「冷戦を始めたのは、アメリカでもソ連でもなく、戦後の二極化が原因だった」という主張です。ポスト修正主義は国際秩序の構造の問題に焦点を当て、「二極化」と「アナーキー(無政府状態)」という国際秩序がアメリカとソ連を「安全保障のジレンマ」に陥れたと結論づけています。

ソ連とアメリカの違い

国際関係学には「社会構成主義(コンストラクティビズム)」という学派があります。社会構成主義によると「ソ連」と「米国」という全く異なる社会を持つ国同士は互いを誤解しやすくなり、その二国の「違い」が冷戦の原因です。ソ連とアメリカには概ね次のような違いがあります。

ソ連

民主主義よりも絶対主義 / 強い指導者を求める願望(広大な領土をもつロシアは、国が解体しかねないという恐怖が深刻) /  侵略の恐怖(ロシアは近隣諸国から何世紀にもわたって侵略されてきた) / 秘密主義で硬直した外交政策

アメリカ

自由民主主義、多元主義  / 権力の分立 /  侵略に対する恐怖の無さ(隣国は弱小であり、他の大国から二つの大洋で隔たれている) /  道義主義的だが一貫性が低い外交政策

上記の通り、ソ連とアメリカには違いがあります。たしかに「冷戦の原因は互いの違いを理解し合うことができなかった」ことだと言えるかもしれません。前出のトクヴィルは1831年にアメリカを訪問した際、下記のように絶対的で単一的な政治制度はなく、各国の条件に合った政治制度が設計されることを指摘しています。

「私がこの国を知れば知るほどこの真理が私の心にしみ込んでくるのをどうしようもない。この真理というのは、政治制度の理論的価値には絶対的なものが全くないこと、政治制度の効率はほとんどつねにそれが起源をなす環境とその政治制度が適用される国民の社会的条件に依存するということ、この二つである。」

アメリカの封じ込め戦略

アメリカは1947年3月に「トルーマン・ドクトリン」を発表します。この大統領の名を冠した政策は、ソ連に対する封じ込め戦略です。当時、地中海で覇権を握っていたイギリスの弱体化により、ギリシャとトルコで「力の空白」が生じました。その力の空白をソ連が埋めようとする中で、アメリカはギリシャとトルコへの支援を決定します。この地中海への支援は、今までのアメリカの孤立主義に立った外交戦略からの大きな方向転換を意味していました。したがって、アメリカ世論が外国への介入に反対する可能性があります。そこでトルーマン大統領は「自由を守る」というイデオロギー的論理を全面的に押し出すことで、アメリカの世論を説得します。その結果、「トルーマン・ドクトリン」はイデオロギー色の強い封じ込め戦略となります。

しかし、このイデオロギー色の強い「トルーマン・ドクトリン」は、アメリカの外交政策を混乱させることになりました。それは下記の二つの質問が原因です。

・アメリカは「ソ連のパワー」を封じ込めようとしているのか?
・アメリカは「共産主義」を封じ込めようとしているのか?

上記の二つの質問は同じことを問いているように見えて、意味することは異なります。「ソ連のパワー」を封じ込めようとすれば、ソ連の周辺国と協力関係を模索するだけですが、「共産主義」を封じ込めようとすれば、広く世界全体で共産主義の種を摘まないといけません。つまり、戦略が想定する地理的範囲が大きく異なるのです。

もともとアメリカの封じ込め戦略の立役者は駐ソ連大使代理だったジョージ・ケナンです。1946年にモスクワから電文を送り、ソ連の拡張主義を警告し、アメリカの対ソ連政策の方向性を決定づけました。そのケナンが目指していたのは、前者の「ソ連のパワー」を封じ込めることです。しかし、トルーマンがアメリカ国民を説得するためにイデオロギーを利用したため、アメリカの戦略は実際に後者の「共産主義」の封じ込めに重きを置くようになります。この後者を選択したことで、最終的に「朝鮮戦争」と「ベトナム戦争の失敗」に帰結します。

スターリンの戦略

第二次世界大戦において、死亡者数が約2060万人という最多の被害を出したソ連では、国内政治の不安定化が懸念されていました。多くの死亡者を出したスターリンの独裁政権に対する不満が、ソ連国内でふつふつと湧き上がっていたのです。

そこでスターリンは国外に敵を見つけることで、国民の支持を得ようとします。国外の敵とは、アメリカです。アメリカ脅威論を煽ることで、独裁政権を安定化させようとました。ジョージ・ケナンは次のように述べています。

「モスクワが国境外の世界のソヴィエト社会におよぼす脅威を強調することは、外国の敵対行為が現実にあったためではなく、国内で独裁政権を存続させてゆく理由を説明するために必要であったことによるものであるという充分な証拠がある。さてこのような型のソヴィエト権力の存続は、すなわち外国が執念深い敵意を抱いているという半神話を育みながら国内で無限の権力を追求する結果は、われわれが今日みるようなソヴィエト権力の現機構をつくり上げることになった。」

つまり、アメリカもソ連も国内世論からの支持を得る目的でイデオロギー色を強めていきました。

注意が必要なのは、レーニンが「世界全体を社会主義に変えよう」という考えを持っていなかった点です。この考え方を「世界革命論」と呼びますが、レーニンは「資本主義国とも共存は可能」という「一国社会主義論」に立っており、必ずしも諸外国にも共産主義政権を樹立する必要があるとは考えていませんでした。実際にスターリンは、中国、チェコスロヴァキア、ハンガリーで樹立された共産主義政権を支持することに慎重な姿勢を示しています。

朝鮮戦争の勃発

アメリカとソ連の国内政治事情や両国の違いを背景に、冷静が本格的に始まります。

1950年6月25日、北朝鮮が突如として韓国に侵攻しました。第二次世界大戦後、朝鮮半島はアメリカとソ連により分割統治され、北に「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」、南に「大韓民国(韓国)」が建設されていました。当時、ソ連は北朝鮮に対し表立った支援はしませんでしたが、北朝鮮の侵攻を黙認していました。一方、アメリカは国連の安全保障理事会を召集し「国連軍」という大義を得て、韓国への出兵を決定します。(当時、ソ連は安全保障理事会をボイコットしていました)

国連軍という旗の下にアメリカは、北朝鮮軍を中国の国境近くまで押し返しますが、1949年に中国を掌握した中国人民共和国が「義勇軍」という形で北朝鮮を支援し、現在の北緯38度線で膠着しました。

ベトナム戦争の失敗

第二次世界大戦後、ベトナムはフランスからの独立を求めていました。ベトナムはホー・チ・ミンというリーダーの下で戦いを進め、1954年にはハノイを首都する共産主義の北ベトナムとして独立しました。一方、南はサイゴンを首都とする南ベトナムがあり、ベトナムは二分されていました。

アメリカは、「もし共産主義の北ベトナムが南ベトナムを制圧したら、周辺国の東南アジア諸国も共産主義国になる(ドミノ理論)」と考え、南ベトナムへの支援を決断します。つまり、アメリカはイデオロギーを理由に出兵しました。

しかし、北ベトナムはたしかに共産主義政権でしたが、イデオロギーではなく「ナショナリズム」を理由に戦っていました。アメリカはイデオロギーに固執し、ベトナム人の根底に合った「独立」や「民族自決」というナショナリズムを理解していなかったのです。「イデオロギーに拠った戦争」と「ナショナリズムに拠った戦争」は違います。第二次世界大戦中のソ連も結局はイデオロギーではなく、ナショナリズムに頼ったように(ロシアでは第二次世界大戦の対独戦を「大祖国戦争」と呼んでいます)、ナショナリズムはイデオロギーより根本的な強さがあります。

結果、アメリカは15年間にわたって約6万人の命と約6000億ドルを費やしましたが、1973年に撤退しました。そして、北ベトナムが南ベトナムを制圧し、1976年にベトナム社会主義共和国が建国されました。

しかし、アメリカが主張していたような共産主義国樹立の連鎖は起きませんでした。むしろベトナムはカンボジアや中国という共産主義の隣国と戦うことになるのです。冷戦期、アメリカは明かにイデオロギーを重視しすぎ、戦略的な失敗を犯しました。

イデオロギーと国際秩序

冷戦期を特徴付けたのは「イデオロギー」です。米国とソ連はイデオロギーを巡って対立しました。しかし、「イデオロギー」という要因はどの程度国際秩序を決定づけたのでしょうか。

・イデオロギーの違いは「対立」を生まない

イデオロギーの違いは必ずしも「対立」を意味しません。例えば、第二次世界大戦時、反共を党是としていたドイツのナチスはソ連と手を組み、世界に衝撃を与えました。この時、ドイツとソ連の両国にとって「イデオロギー」は一要素でしかなく、行動を決定づけたのは両国の「国益」でした。さらにその後、ドイツが独ソ不可侵条約を破りドイツに侵攻したことで、ソ連は西側諸国と同盟関係を築きます。イギリスやフランスはソ連とイデオロギーで対立していましたが、この時も各国はイデオロギーではなく「国益」を優先しました。つまり、国家はイデオロギーよりも国益を重視して、国際関係を築きます。

・イデオロギーが同じでも「対立」は生まれる

同じイデオロギーを持っている国同士が対立することがあります。ソ連と中国、ベトナムとカンボジアなど、共産主義圏内での対立は幾度もありました。また、「民主主義国家同士は戦争をしない」という「民主的平和論」がエマニュエル・カントなどによって論じられて来ました。しかし、民主主義国家同士が戦争をしない理由は他に経済的相互依存関係などもあり、一概に正しいとは言えません。

・イデオロギーを超えた協力関係

冷戦期を通じて、アメリカとソ連の両国が国内政治の安定を求めてイデオロギーに拠ったことで、国際情勢が不安定化しました。当然、イデオロギーは国家の根本を成す重要な要素です。しかし、国際秩序においてイデオロギーは一つの要因に過ぎません。国際秩序の根底にあるのは2500年前のペロポネソス戦争から変わらない「バランス・オブ・パワー」です。その事に米国は早く気がつくべきだったのでしょう。

国際秩序の根底にあるものが「バランス・オブ・パワー」だからこそ、イデオロギーを超えた協力関係も可能です。実際にアメリカは冷戦期にソ連と袂を分かった共産主義国のユーゴスラビアを支援しました。繰り返しますが、イデオロギーは国家の根本を成す要素ですが、国際秩序におけるイデオロギーは一つの要因に過ぎないのです。

他国の国民を正しく理解する重要性

さらに付け加えるならば、国際関係にとって重要なのは「他国の国民を正しく理解する」ことです。陳腐な言葉ではありますが、これ程難しいことはありません。敵国又は仮想敵国の国民に対して人間は自然と偏見を持ちます。しかし、この自身の持つ偏見を自覚し、他国の国民を正しく理解することが、外交戦略を立てる上で非常に重要です。例えば、アメリカの封じ込め戦略の立役者であるジョージ・ケナンはロシアの国民性を次のように賞賛しています。

「国民の偉大さといえるものがあることは明瞭であり、ロシアの国民が高度にそれをもっていることも疑問の余地がない。かれらが暗黒と悲惨から脱けでる歩みは、非常な困難によって特徴づけられ、時々胸のはりさけんばかりの挫折をこうむってきた、苦痛にみちた歩みであったが、そのような歩みをしてきた国民なのである。この地上でロシアほど人間の尊厳と愛とに対する信念の小さな焔(ほのお)を、猛烈な勢いでふきつける風の中で、あぶなげながらも燃えつづけさせたところはないのである。しかもこの炎は決して消えない。それはロシアの国土の中心部においてさえ、今日なお消えていない。幾時代を通じてロシア精神の闘争を研究するものは誰でも、犠牲と苦痛を経ながら、この焔をともしつづけてきたロシア国民の前に、賞賛のあまり脱帽する外はないのである。」

ケナンは自身が提言した「封じ込め戦略」に、いつの間にかイデオロギーが大きな要因を占めている事に失望を覚えていました。後年ケナンは、多くのアメリカ人持っていたソ連国民に対する偏見を批判し、人間と人間との共存関係を次のように提唱しました。

「われわれが相手国の国民全体に対して感情的な憤激の態度をとっては、何の役にも立たない。われわれは安易な、幼稚な反応を超え、ロシアの悲劇を一つにはわれわれの悲劇として見、またロシアの国民を、この紛争にみちた遊星上において、人間と人間および自然との幸福な共存の制度を樹立するための長い戦いの同志として、見ることに同意しようではないか。」

このケナンの言葉は現在の国際的な対立において重要な示唆を含んでいます。他国の国民を理解することが、正しい戦略を選択する上でも、平和的な共存関係を築く上でも非常に重要です。イデオロギーで一括りにするのではなく、正しく他国を見る目が必要なのではないでしょうか。

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