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なぜ第二次世界大戦を防ぐことができなかったのか?

前回、第一次世界大戦について投稿しました。今回は、第二次世界大戦について投稿します。

第二次世界大戦の原因とは?

まず、第一次世界大戦と第二次世界大戦は密接に関係しており、第二次世界大戦が勃発した原因は第一次世界大戦の中に内包されています。国際政治学者のジョセフ・ナイは次の通り述べています。

「第二次世界大戦には継続的な側面があり、1918年にヨーロッパの覇権を終わらせた大戦争の第2幕と見ることも出来る。戦間期は単なる幕間であった。」

では次に、どのように史上最悪の悲劇である第一次世界大戦が、第二次世界大戦というさらなる悲劇を引き起こしたのでしょうか。第二次世界大戦を防ぐ手立てはなかったのでしょうか。今回は第二次世界大戦時の「ヨーロッパのバランス・オブ・パワー」「ヒトラーの戦略」について取り上げます。

バランス・オブ・パワーの崩壊

第一次世界大戦によって、世界のバランス・オブ・パワーが大きく変化しました。ロシア、オーストリア=ハンガリー、ドイツという三帝国が崩壊し、東欧・中欧に多くの独立国が誕生します。そして、ロシア革命を経て1922年にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生しました。さらに、アメリカと日本が大国として台頭します。

さらに、「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」という考え方自体が、第一次世界大戦を契機に否定されていきました。ウッドロー・ウィルソン大統領は次のように述べ、バランス・オブ・パワーの政策を拒否します。

「バランス・オブ・パワーは、今や永遠に信頼できなくなった壮大なゲームである。それは今大戦以前に支配的であった古く邪悪な秩序である。バランス・オブ・パワーは、将来、不必要となる。」

では、バランス・オブ・パワーに基づいた国際秩序が悪いのならば、どういった秩序であれば、国際社会を安定させることが出来るのでしょうか。

国際連盟と集団安全保障

ウィルソン大統領は、アメリカ国内の民主主義や議会政治を国際レベルで当てはめることで、平和の達成が可能だと考えました。それが「国際連盟」です。ウィルソン大統領は1918年1月に議会演説で発表した「十四ヶ条の平和原則」の第十四条で次のように述べました。

「大国と小国を問わず、政治的独立と領土保全とを相互に保証することを目的とした明確な規約のもとに、諸国家間での全般にわたる連合が結成されなければならない。」

この「諸国間での全般にわたる連合」が「国際連盟」です。ウィルソン大統領は「民主主義が平和をもたらす」とを固く信じていました。

しかし、一方でウィルソン大統領は、理念だけでは不十分であることも理解していました。そこで重要になるのが「集団安全保障」という概念です。ジョセフ・ナイは、ウィルソン大統領が下記のように考えていたと述べています。

「彼(ウィルソン大統領)は単なる紙の上の協定や条約では十分ではないと知っていた。具体的な協定とルールを実施するには、それなりの組織とルールが必要であった。だからこそ、ウィルソンは国際連盟というアイディアに、あれほど重きをおいたのである。道義的な力は重要だが、それを支えるには軍事力が必要である。安全保障には集団で責任を負わなければならない。もし侵略的でない国家がすべてが結束すれば、力の優越は善き者の側になる、とウィルソンは信じた。侵略的でない国家が侵略者に対して連合を形成することで、国際安全保障は集団責任となる。平和は不可分になるというわけである。」

この「国際連盟」「集団安全保障」の概念は、第一次世界大戦の講和条約(ヴェルサイユ条約)の一部として具現化されました。第10条では、「加盟国はすべての加盟国を侵略から守ると約束」し、第16条では、「国際連盟の手続きを無視したいかなる戦争も、連盟のすべての加盟国に対する宣戦布告とみなされる」と明記されました。

新たな国際秩序の失敗

世界平和のための「国際連盟」と「集団安全保障」という新たな国際秩序は具現化されましたが、失敗に終わりました。失敗の要因は複数あります。

1. アメリカの国際連盟不参加

アメリカは自ら提案した国際連盟に加盟しませんでした。アメリカは国際問題に関与することに反対し、アメリカの上院は国際連盟の創設を規定したヴェルサイユ条約の批准を拒否しました。第一次世界大戦の帰趨を決したアメリカが、国際秩序への責任を放棄したことは国際連盟の実効性にとって致命的でした。

2. フランスの対独不信感

第一次世界大戦でドイツに侵略を受けたフランスには戦後も根強い対独不信感が残りました。フランスは対独不信感から集団安全保障ではなく、「バランス・オブ・パワー」による安全保障を模索します。アメリカが国際問題に関与することを拒否している以上、頼れるのはイギリスでした。しかし、イギリスはドイツを国際システムに統合することを重視し、フランスの要請を拒否します。

そこでフランスは、崩壊したオーストリア=ハンガリー帝国から独立したユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、ルーマニアからなる同盟の「小協商」と同盟を締結します。同盟関係を締結することは「集団安全保障」の精神に反しますが、フランスはバランス・オブ・パワーによる安定を求めました。

3. ドイツの困窮

第一次世界大戦で敗戦したドイツは約4万平方kmの領土と700万人の人口を失いました。さらにヴェルサイユ条約は、ドイツにのみ戦争の責任を負わせる「戦争責任条項」を含んでおり、賠償額として1320億マルク(200兆円超)を要求しました。当時のドイツ経済から考えれば、到底支払い不可能な額です。

ドイツの賠償金の支払いが遅れると、フランスは軍隊を派遣して工業地域であるルール地方を占拠しました。しかし、これが逆効果でした。ルール工業地帯を失ったドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥ります。「1ポンド=20マルク」だった為替レートは、「1ポンド=500億マルク」までマルク安が進み、ドイツの中産階級の貯蓄は雲散霧消しました。

4. イタリアのファシスト政権

第一次世界大戦時、イタリアはドイツとオーストリア=ハンガリーと同盟を締結していました。しかし、1915年に密かに結ばれたロンドン条約で、オーストリア=ハンガリー帝国の領土の一部を獲得する旨をイギリスとフランスから約束され、イタリアは寝返りました。第一次世界大戦後、イタリアでは1922年にべニート・ムッソリーニが政権を奪取し、ローマ帝国の復活を目指します。

つかの間の平和

上記のように新たな国際秩序には深刻な問題が山積していました。しかし、全てが失敗したわけではなく、つかの間の平和が訪れた期間もありました。鍵となったのは「ロカルノ条約」「ケロッグ=ブリアン条約」という二つの条約です。

・ロカルノ条約

1925年に締結されたロカルノ条約の中核をなすのは、ドイツ、フランス、ベルギーという三ヶ国の国境線の確定です。これにより、互いの不信感が大幅に解消されました。(一方、ドイツはポーランドとチェコスロヴァキアの国境線を確定することを拒否しました。)

・ケロッグ=ブリアン条約

さらに、1928年に戦争を違法化するための「ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)」が締結されました。この条約はその後の国際法における戦争の違法化の流れを作る意味で大きな意味を持ちます。(日本国憲法第9条第1項の文言も「ケロッグ=ブリアン条約」の第一条をモデルに作成されました。)この二つの条約により、世界はやっと平和に向かうかのように思われました。

国際秩序の不安定化

国際政治はロカルノ条約とケロッグ=ブリアン条約により、つかの間の安定期を迎えたように思われました。しかし、一時の平和も長くは続かず、世界秩序はまた不安定化していきます。

・世界恐慌

1929年10月24日にアメリカの株式市場が大暴落しました。(いわゆる「ブラック・サースデー(暗黒の木曜日)」)米国株式市場の暴落を契機に不況が世界全体へ広がり、各国で失業者数が急増し、社会が不安定化しました。この急増した失業者から支持を得たのがドイツのアドルフ・ヒトラーです。

・満州事変

1923年の関東大震災、1927年の昭和金融恐慌、そして1929年の世界恐慌により、日本も深刻な経済不況に直面します。そういった中で、日本政治では軍閥が力を持つようになります。そして、1931年9月に満州事変が起こります。関東軍が南満州鉄道の線路を爆破したことを契機に、満洲全土を占領し、満洲国を作り上げました。

1933年2月の国際連盟総会で日本が満洲を侵略したとする「リットン報告書」が42対1で承認されたことで、日本は国際連盟からの脱退を決断します。満州事変で明らかになったのは、国際連盟の実効性の無さです。ジョセフ・ナイは次のように述べています。

「全体とした満洲をめぐる事例は、国際連盟の手順が緩慢かつ慎重で、全く効果がなかったことを示している。満洲のできごとは国際連盟にとっての紫金石であり、そして、それは、失敗に終わったのである。」

・第二次エチオピア戦争

1935年10月にイタリアがエチオピアに侵攻しました。イタリアは第一次エチオピア戦争で敗北したこともあり、エチオピアの植民地化に目指していました。この侵攻は明かに侵略行為であり、国際連盟はすぐさま特別会議を召集し、国際連盟規約第16条の経済制裁を発動しました。

しかし、この経済制裁はほとんど実効性がありませんでした。ドイツの国力が回復しつつあり、イギリスとフランスが、イタリアをドイツに対抗する同盟に組み込もうとしていたからです。つまり、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーが集団安全保障を凌駕しました。1936年5月にイタリアはエチオピアの占領を完遂しましたが、同年7月に国際連盟の経済制裁が解除されています。この第二次エチオピア戦争は、国際連盟の無力さを露呈しました。

ヒトラーの戦略

国際秩序が不安定化する中で、ドイツにアドルフ・ヒトラーが登場します。1933年に権力を掌握したヒトラーは4つの段階を経て戦略を遂行して行きます。

第一段階:フランスへの責任転換によるヴェルサイユ体制の打破

ヒトラーは1933年に「フランスが兵力の削減に消極的だ」という理由で、国際連盟と軍縮会議から脱退しました。そして、翌年にポーランドと条約を締結し、フランスと東ヨーロッパ諸国の同盟に対抗します。さらに、フランスとロシアの協調関係が問題であるとして、ロカルノ条約で非武装化されていたラインラントに兵を進めました。

第二段階:近隣の国々に対する拡張

ヒトラーは、1936年に始まった「スペイン内戦」でファシストのフランシスコ・フランコ将軍を軍事的支援しました。一方、イギリス、フランス、アメリカはスペイン共和国側をほとんど支援せず、1939年にフランコ将軍が勝利します。

その後、1938年にはドイツ軍がウィーンを侵攻し、オーストリアを併合します。さらに、1939年にはチェコスロヴァキアを侵攻しました。

ヒトラーの次の標的はポーランドでした。そこでヒトラーはまず1939年8月にスターリンと「独ソ不可侵条約」を締結します。反共はナチスの党是だったため、ドイツとソ連が手を結んだことは世界に衝撃を与えました。ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは日記に「昨日、我が国はソビエトと不可侵条約を締結した。これでヨーロッパの力の均衡が揺らぐ。ロンドンやパリは耳を疑うに違いない。世界の反応をとくと見物しよう。」と記しています。日本も当時ドイツと反ソ連で共闘体制を築こうと交渉しており、ドイツの突然の方針転換に困惑しました。(日本は「ノモンハン事件」の真っ只中でした。)そして、当時の平沼騏一郎首相は「欧洲の天地は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職しています。

独ソ不可侵条約で、ドイツはソ連と共に東西からポーランに侵攻し、両国でポーランドを分割しました。さらにその後、ソ連はフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアへ侵攻します。

第三段階:ヨーロッパの支配

ヒトラーは続いて、ノルウェーに侵攻しました。さらに、オランダ、ベルギー、フランスへ一気に侵攻し、ヨーロッパの占領に成功します。下記はドイツとイタリアによるヨーロッパの占領地域です。

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第四段階:過剰拡張

ヨーロッパを支配したヒトラーは、次にイギリスへ侵攻します。しかし、1940年の「バトル・オブ・ブリテン(英独の空中戦)」で勝利を得ることができず、イギリスへの本土上陸を諦めます。その後、ドイツは一転してソ連への侵攻を決定し、モスクワのすぐ近くにまで到達しました。しかし、「スターリングラード攻防戦」での敗北が転機となり、ドイツの劣勢が始まりました。

戦争において個人の影響はあるのか?

第二次世界大戦は「ヒトラーの戦争」と呼ばれることがあります。それだけヒトラーという個人の影響が強い戦争だったということでしょう。しかし、戦争において個人は実際にどれほど影響があるのでしょうか。

国際政治学者のケネス・ウォルツは次のように戦争原因を3つのレベルに整理して分析すべきと述べています。

「政治哲学では「戦争の主要原因はどこにあるか」という問いに対する答えを探求することがよくある。この問いへの答えは驚くほど多様であり矛盾している。この答えの多様性を扱いやすくするには、答えを以下の3つの項目のもとに整理したほうがよいだろう。人間、個々の国家の構造、そして国際システムである」

第二次世界大戦はヒトラーという個人と、各国の国内政治、そして当時の国際情勢が複合的に影響しています。まず、ヒトラーという個人の影響を考察する前に、各国の国内政治と当時の国際情勢を見ていきましょう。

・国内政治

上記で記載した通り、世界恐慌により各国の経済状況が悪化し、国内政治が混乱していました。ドイツだけでなく、フランスでも社会主義者が1936年に政権を獲得しており、各国の国内政治は決して安定していませんでした。

・国際情勢

第二次世界大戦の主たる要因となったのは、第一次世界大戦の戦後処理の失敗です。ドイツに対し過酷な賠償金を要求し、国際連盟という機能不全な組織での安全保障体制の構築を試みました。

・個人

ヒトラー以外の指導者だったとしたら、ドイツの戦略はどうなっていたのでしょうか。当時の国内政治と国際情勢を鑑みれば、第一段階の「ヴェルサイユ体制の打破」は誰が政権を取っていたとしても、追求していたでしょう。第二段階のイデオロギーが異なるソ連との協調体制の確立は、ヒトラーでなければイデオロギーを優先していた可能性があります。独ソ不可侵条約がなければ、ドイツによるポーランドへ侵攻は無かったかもしれません。また、第三段階のヨーロッパ支配と第四段階の過剰拡張も、ヒトラー以外が政権を取っていれば、実行に移さなかった可能性があります。

個人の影響は確かにあったでしょう。しかし、そもそもヒトラーが選挙によって選出された状況自体に国際情勢と国内政治の影響があります。ジョージ・ケナンは下記のように述べています。

「ヒトラーが1933年から39年にかけてその権力を強化することに成功したことは、もちろん西側民主主義にとって一つの敗北であった。だが、実際にはドイツ国民自体が、対した抵抗や抗議もせずに、ヒトラーを自分の指導者および支配者として迎えるような心境をもつに至った時に、すでに西側はもっと大きな敗北を喫していたのである。」

なぜ第二次世界大戦を防げなかったのか?

上記をふまえて、「なぜ第二次世界大戦を防ぐことができなかったのでしょうか。」ジョセフ・ナイは次のように述べています。

「第一次世界大戦でドイツ問題を解決するのに失敗したことによって、すでに1918年に第二の戦争の蓋然性はあった。もし西洋民主主義諸国が1920年代にドイツに宥和し、より懲罰的でない対応をしていれば、ワイマール共和国の民主主義的政府は生き残ったかもしれない。あるいは、もしアメリカがヴェルサイユ条約を批准し、(1945年以降そうしたように)ヨーロッパのバランス・オブ・パワーの維持に関与し続けていれば、ヒトラーは台頭しなかったかもしれない。ヨーロッパでは何らかの戦争は起こったかもしれないが、それは必ずしも世界大戦ではなかったであろう。1930年代に、経済恐慌の衝撃が侵略を美化するイデオロギーの高まりに力を貸し、戦争をより現実的なものにしてしまったのである。」

現在から過去を見れば、第二次世界大戦を防ぐ手立てはあるでしょう。しかし、歴史を変えることはできません。私たちに出来ることは歴史を真摯に学び、その教訓を今に活かすことだけです。

次の投稿では、イデオロギーについて深堀りしたいと思います。


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