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ドストエフスキー(著)『死の家の記録』を読む。

美術にデッサン(素描)があるように、小説にも登場人物の心の動きを描く作品がある。それも一枚の紙に数多くの人物が描かれている。ある者は寝転がり、ある者は膝を抱えて座り込み、ある者は背を丸めて眠る。

そのような人物像が紙いっぱいに描かれているならば、しかも。その姿は今にも動き出しそうで、あるいはそれを見る人の心に食らいつくような迫力ならば、見るものはすぐに魂を奪われてしまうであろう。私が読んだドストエフスキーの『死の家の記録』はこのような小説のデッサンであり、その後のロシアの大家、例えばトルストイが人物描写の手本としたとの話もうなずける。

この小説の登場人物は底辺に住む罪人たちであるが、人はそのような環境でも清く正しく生きることができるのかの問いも、この小説のテーマである。

自由な社会に住む者たちが、軽々しく高潔性を叫び、裏ではそれを利用して己の利をむさぼるような、このような罪人にも劣る人物。あるいは、それらの人々の目を気にしながら背を向けている者たちは、この小説が描いている罪人たちと、何がどう違うのだろうかと思える。

私自身いつ罪人になるかもしれず、いつ非道に走るようになるかわからないのだ。私に道を迷わせないのは単なる偶然であり、そこに神の道徳なるものが存在するのだろうかと、自分の心を深く見つめ直す機会を提供してくれるのはドストエフスキーの小説の特徴だ。

ドストエフスキーの長編小説を読むのは結構苦労する。だから私はこの小説を読むにあたって付箋を貼り、傍線を引き、メモを書き込みながら読むことにした。この方法だと後で読み直すのも便利だ。

ドストエフスキーの小説を何回も読み直す人がいる。私にはちょっとできない。重い、辛いからだ。それだけ人生の深部を描いているのだと言えるが、もう一度あの人物のスケッチを見たい、読みたい。そう思うことが多くて、このような、いちど読んだあとでも気安く読み返すことができる方法を採用したのだ。

最初に書いたようにこの小説の特徴は、人物のスケッチだ。身体と心のスケッチだ。だから常に手元に置いて繰り返し読むことで文章作成の手本とすることもできるだろう。こうやって多くの小説家がこの小説に取り組んだのだろうと思うと、読んだ後で誰かに手渡してしまうのは惜しい。

読み終わるのも惜しい、他の人に渡すのも惜しい、だからと言って、再度最初から読み直すエネルギーはもう私にはない。そんな小説だ。



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