見出し画像

「才能と夢のありか」第1話

【あらすじ】
 主人公の水瀬美里はかつて漫画家を夢見ていたが自分には才能がないと諦めて、現在は高校の養護教諭をやっていた。
 生徒にSNSの危険を周知させるための漫画を描いて配ったところ、三年生の男子、橘宗介から「俺に絵を教えてほしい」と頼まれてしまう。宗介は将来漫画家になることを夢見て、進路は美大を目指していた。彼の熱意にあてられて美里は協力することに。二人の美大合格のための特訓が始まる。
 そんな二人の前に転校生で絵の天才、凜堂アイナが現れて圧倒的な才能を見せつけていく。
 努力の価値は? 才能に抗う術は?
 これは夢を叶えるために努力する高校生と、その姿を見守る大人の青春物語。

【本文】
 自分に才能がある、と素直に信じることができたのはいつ頃までだっただろうか。

 小学生の時、クラスで一番絵が上手かった。
 自分の描いた絵を褒められるのが嬉しかった。
 だからたくさん描いた。描けば描くだけみんながちやほやしてくれた。
 特に人気の漫画やアニメのキャラを描くと喜ばれた。
 自然と将来の夢は漫画家になっていた。
 中学校や高校でも学校で自分よりも絵の上手い人なんていなかった。なんならプロの漫画家でさえ自分よりも下手だと思う人が何人もいた。
 まあ今思えば、それは毎週締め切りに追われながら数十ページを描かなきゃいけない漫画家の大変さを知らなかったからだけれど、仕方ない。だって学生なんて学校という狭い世界しか知らなくて、その上自分が世界の中心だと思っている生き物なのだから。

 だけど、いつかは外の世界を知るのだ。

 高校卒業後の進路は美大に決めていたので、受験のために美術の予備校に通うことにした。
 そこで私は初めて外の世界を知った。
 同い年の美大志望者、受験に落ちた浪人生、自分よりも絵の上手い人がたくさんいた。そこでは自分など有象無象の一人でしかなかった。
 小学生の頃からずっと絵が上手いことが自分のアイデンティティだと思っていた。
 けれど絵に自信のある人間だけが集う場所では、自分は何者でもなかった。
 きっとこの頃だと思う。自分に絵の才能がないと自覚し始めたのは。
 それでも多少は足掻いてみようと努力したが、才能はこちらの努力を嘲笑うように遙か上を行き、触れることもままならなかった。
 そして私は、いつしか努力を虚しく感じてしまった。

× × ×

 四月。
 暖かな春の木漏れ日が窓から差し込む昼下がり。
 白衣を纏った水瀬美里は、保健室の机に広げた真っ白い紙に向き合っていた。
 自分に才能がないと理解してからは堅実に生きようと看護学部のある大学に進学し、二十六歳になった今は高校の養護教諭をやっていた。簡単に言えば保健室の先生だ。
 主な仕事は学生の怪我の応急処置や保健指導など。そのはずなのだが……。
 美里は広げた紙にコマ割りをし、大まかな人の形を書き込んでいく。ようするに漫画を描いていた。

 事の発端は三ヶ月前。職員会議でSNSの使い方について、生徒に注意喚起を促すのに良い方法はないかと話し合いになった際、漫画にすれば読んでもらえるのではないかと提案したのは美里だった。
 その場を仕切っていた教頭に「そういう教材もありますけどねぇ、生徒全員分を購入するにも予算がバカにならないんですよ。養護教諭とはいえ水瀬先生はもう少し現場を理解してもらいたいですね。もっと現実的な案を出してくださいよ」と鼻で笑われ、頭にきた美里が「だったら私が描きますよ」と言ったのが原因だった。
 休日の趣味程度に細々と絵を描く事は続けていたので、短編の漫画を描くこと自体は美里にとってそれほど苦ではない。むしろ教頭の鼻をへし折ってやろうと、珍しく気合いを入れて描いたくらいだ。
 そうして出来上がったものをコピーして全校生徒に配布すると、生徒や若い先生を中心におおむね好評だった。しかし、

「なんで、毎月描くことになってんのよ……」

 紙にペンを走らせながら美里は愚痴をこぼす。
 自分の描いたものを生徒から褒められ、浮かれていたのかもしれない。教頭からの「今後もお願いしますよ」の声に二つ返事で頷いてしまったことを美里は今さらながら後悔した。
 昨今の高校生を取り巻く環境として、闇バイトやパパ活など漫画の題材には困らない。しかし日々の仕事もこなしながら漫画も描くとなると、ただ仕事が増えただけである。しかも給料は上がらない。一度きりならば勢いで描けたが、毎月となると正直しんどかった。
 ふと美里は思う。絵を描くことがしんどいなどと学生時代の自分が聞いたらなんて言うだろう……きっと笑うだろうな。
 もうかつての熱量はなくなってしまったのだと、あらためて実感する。
 それも仕方がない。自分には才能がなかったのだから。

 人生とは思い通りにいかないものだ。

 ほとんどの人間が小さい頃に夢見た姿とは違う職業に就き、やりたくもない仕事に追われ、忙しく退屈な日々を過ごして、思い通りにならない世界を生きている。

「あー、世界ぶっ壊れないかな」

 毎日思っている事をぼやくように口にした。
 すると背後から、

「なにそれ。うける」
「ひょぇっ!?」

 思いがけない声がして、美里はイスから転げ落ちそうになりながら振り返った。
 目の前に男子生徒がいた。
 慌てて美里は養護教諭としての顔を作る。

「えっと、どこか具合でも悪いの?」

 昼休みは終わり、すでに午後の授業が始まっていた。朝家を出るときには健康でも、いざ学校に来たら体調を崩してしまい保健室の世話になる生徒も珍しくない。
 しかしあらためて見ると男子生徒は顔色も良く、普段保健室を利用する生徒たちとは少し様子が違っていた。
 案の定、男子生徒は爽やかな顔で首を横に振る。

「全然。めっちゃ健康」
「じゃあ怪我でもした?」
「あ、いやそういうんじゃなくて」
「ならサボり? 別に構わないけど一応クラスと名前は教えて」
「橘宗介。三年B組。それで、その……」

 威勢の良さはどこにいったのか。橘と名乗った男子生徒は口ごもり、美里は察した。
 養護教諭の仕事の中には、生徒の病気や怪我だけでなく、学業や友人あるいは家庭環境の悩みについて相談に乗るというものがある。担任や部活動の顧問には相談できないようなことでも保健室という学校生活からある意味隔離された空間だと話しやすい傾向があり、生徒たちが健康な学校生活を送れるようサポートするのが養護教諭の役割だった。
 おそらく彼も何か悩みがあるのだろう。
 じっと待っていると、橘は意を決したように口を開いた。

「実は俺、みっちゃんに話があってきたんだ」
「あ、興味ないから。今すぐ教室に戻って」
「え? 俺まだなにも言ってないんだけど」
「だって私はあなたに興味ないんだもの」

 高校の養護教諭になって四年。稀に生徒から告白されることがあった。
 美里のことを一部の生徒たちが『みっちゃん』と呼んでいるのは知っている。親しみを込めて呼ぶのは構わない。だが教員と生徒であり、それ以上の関係はありえなかった。男子高校生のおふざけだろうと本気だろうと、教員からすればただの迷惑である。
 ゆえに美里はこの手の生徒には、はっきりと脈無しだと告げることにしていた。
 見れば橘は運動部にいそうな爽やかな整った顔立ちで普通に女子からモテそうだ。しかし二十六歳の美里からすれば高校三年生などまだまだ子どもで恋愛の対象外。
 しっしっと美里は保健室から追い出すように手を振る。

「早く教室に戻って授業受けなさい」
「心配ないよ。うちのクラス今自習なんだよね」
「じゃあ教室でおとなしく自習してなさい」
「大丈夫。俺にとってはこっちの方が大事だから」
「全然大丈夫じゃないわ。人の話をちゃんと聞いてないんだから」
「ちゃんと聞いてるって」
「どこが?」
「うーんと『あー、世界ぶっ壊れないかな』とか」
「……それは聞かなかったことにして」

 ぷいっと美里が目を逸らすと、橘はケタケタと笑った。
 しかし視線を戻した時には橘は真面目な顔つきで美里を見つめており、

「ねぇ、話くらい聞いてくれてもよくない?」
「……いいわ。話したら教室に戻るのよ」

 仕方なく美里は、橘に近くのイスに座るよう促した。
 正直なところこれ以上この生徒に時間をとられたくなかった。
 今月分の漫画がまだ描き終わっていない。授業の準備や部活動の顧問で夜遅くまで残る教員もいる中漫画を描くために残業をするなど、教頭に知られたらまた小言を言われるのは目に見えていた。
 橘には悪いが話を聞いた上で断ればいい。それが最短で終わらせる方法だろう。
 そう考えていると橘は持ってきた学生鞄から何かを取り出し、見せつけるように美里に突きつけてきた。

「みっちゃんさ、すげぇ絵が上手いじゃん。俺に教えてよ」
「はあ?」

 予想外の言葉に美里は露骨に顔をしかめる。橘が手にしているのは美里が描いて全校生徒に配った『SNSの恐怖』という短編漫画だった。

「この漫画さ、登場人物の表情とかめっちゃリアルでビビったんだよね。軽くホラーじゃん」
「そういう風に描いたからね」
「うわぁ、やっぱりそういう絵を狙って描けるんだ。すげぇ」
「それはまあ、上手い人なら誰でもそれくらいは……」
「いやほんとマジ上手いわ。尊敬する」
「あ、ありがとう」

 面と向かって褒め千切られて、美里は少々照れくさかった。

「でね、俺に絵を教えてほしいんだ。美大に行きたいからさ」
「えーっと、それなら美術の近藤先生がいるでしょ」
「知ってるよ。俺、美術部だもん。でも美術部なんて女子がお喋りしてるだけだし、顧問のコンドゥもあまり熱心じゃないから」
「まあ、おじいちゃん先生だもんね」

 美術教員の近藤はもうすぐ定年を迎える高齢の教員だ。彼に限らず時間の拘束のわりにわずかな手当しか出ない部活動の顧問を熱心にやる教員の方が少ないだろう。運動部など休日も部活動の指導にあたる教員には頭の下がる想いだ。
 思っていたのとだいぶ違う話で多少面食らったが、かつては美里も志した進路の相談なのでアドバイスは簡単だった。

「美大や芸大を目指すなら美術の予備校に行くといいわ。あそこは受験対策で絵の基本をみっちり教えてくれるから。高二の夏から通う子が多いけど、高三の春でも遅くはないわよ」
「知ってる。でも予備校はさ、お金がかかるじゃん。バイトはしてるけど、そのお金は美大の学費に使う予定だから」
「ああ、そういうこと」

 最近は学力に問題がなくても金銭面から大学進学を諦める生徒も珍しくない。その点目の前の生徒は真剣に進路を考えているのだと伝わってくるが、それならなおのこと予備校に通いちゃんとした人から学んだ方がいいと美里は思う。

「どうして私なの? それにどうして美大を目指しているの?」
「だってみっちゃん、漫画上手いじゃん。俺、将来漫画家にもなりたいんだよね」
「漫画家にも?」

 眉をひそめる美里に、橘は目を輝かせて続ける。

「うん。俺は有名な画家になりたいし、漫画家やアニメーターにもなりたい。色々やりたいんだ。そのためにはとにかく絵が上手くないと」
「いや無理でしょ」
「どうして? やってみなきゃわかんねぇじゃん」

 心底そう思っているのだろう。自信に満ちた表情で橘は言った。
 個展を開くような画家で、漫画家で、アニメーター……そんな人もいるにはいる。けれどそれは選ばれたほんの一握りだ。
 橘がどれほどの画力を持っているのかはわからないが、美里に指示を仰ぐくらいだからそれよりは下なのだろう。ならば彼の夢は無謀としか言いようがない。
 小さく息を吐いてから美里は橘に向き直った。

「高校生で明確な将来の夢があること自体は素晴らしいけど、あまりにも多くのことを望みすぎじゃない? 夢だけで食べていける人間は限られている。才能と努力と運、この全部が必要なのよ」
「それが俺にないって、みっちゃんにはわからないでしょ?」
「たしかにね。けど持ってない人間が大多数だから言ってるの」
「言いたいことはわかるけどさ、とことんやってみないと才能があるかどうかなんてわからないじゃん。今の俺に求められてるのは『やるか、やらないか』その二択でしょ」
「それ、結構使い古された言い回しよね」
「でも有名な漫画家やアーティストが似たようなこと言ってるよ」
「そうね。じゃあこれも覚えておきなさい。いつだって後世に残るのは成功した人の言葉よ。同じ言葉を吐いて失敗した人がその何万倍もいるってことを」

 高校生の夢に対して否定するのはよくないと美里自身わかっている。普段生徒から受ける相談ならばこんな言い方はしないだろう。しかしその道の険しさを知っている身からすれば、思いとどまらせるのも優しさであり、生徒を導く教員の務めだろう。
 しかし橘は視線を逸らさず、膝の上で小さく拳を握りしめて言う。

「みっちゃんは厳しいね。もっと優しい保健室の先生ってイメージだった」
「生徒の将来のことだから厳しく言いたくもなるわよ。私が気軽に背中を押したせいで不幸になる生徒は見たくないもの」
「真面目に考えてくれるのは嬉しいよ。でも不幸って言うなら、挑戦しないで諦めちゃうことの方がよっぽど不幸じゃない? 『あの時挑戦していれば』って大人になっても、死ぬまで後悔している方がよっぽど不幸だ」
「…………」

 黙りこむ美里の瞳を、橘の純粋な眼差しが射貫く。

「望んだものが全て手に入るわけじゃないって、俺だってわかってる。でも望まなきゃ始まらないよ。手を伸ばさなきゃ何も摑めないんだ」

 どこまでも真っ直ぐで、気持ちのいい言葉だった。
 ここまで言われては、美里からはもうなにも言うまい。
むしろ言い切る橘の姿が眩しく映る。
 よく『自分は将来○○になれますか?』聞いてくる人間がいる。おそらく不安な気持ちを拭うような言葉をかけて欲しいのだろうが、他人の未来のことなどわかるわけがない。
 結局どれだけ否定されたところで、やる人間は勝手にやるのだ。むしろ他人に無理だと言われたくらいで諦める人間なら、いずれ壁に直面したときにすぐに折れてしまうだろう。
 そういった意味では、橘は夢を追いかける資質は十分に備えていた。

「あなたの決意は伝わったわ。悪かったわね。突き放すような言い方して。立派な夢だと思う。応援するわ」
「それじゃあ……」

 期待に満ちた眼差しを向ける橘を、美里は制止する。

「だからこそ本音で話すわ。私の絵はあなたが思っているほど上手くない。あと私が人に絵を教えたことがないから、やっぱりやめた方がいいと思う」
「そうなの? 上手いと思うけどなぁ」
「あとこれ以上仕事が増えるのは正直しんどい」
「あ、すごい本音って感じだ。仕事ってそれ?」

 机の上にあった美里の描きかけの漫画をしげしげと眺め、橘はドンと自身の胸を叩いた。

「じゃあさ、俺が手伝うよ。漫画描くの。そしたらみっちゃんは仕事が減るし、俺は漫画の経験が積める。それで空いた時間に絵のこと教えてよ。俺には他に頼れる人がいないんだ。だから、お願いします!」

 勢いよく頭を下げた橘が右手を差し出してくる。

「うーん。まあ、それなら」

 そっと美里はその手を握った。
 情熱が脈打つようなとても熱い手だった。
 少々くすぐったいが、こんなこともたまには悪くないかなと美里は思う。
橘の夢を応援すると言ったから。困っている生徒を放ってはおけないから。漫画を手伝ってくれるのはありがたいから。協力する理由は色々あったが一番はやはり、

 面と向かって自分の絵を褒められるのが嬉しかったから。

 なんだか昔の自分を思い出して美里は自然と微笑をこぼしていた。

「あ、俺が美大目指してることとかあまり他の人に言わないでほしいな」

 特殊な進路な上、美大や芸大は一浪二浪が当たり前の世界だ。周囲に知られたくない気持ちは美里も理解できるし、当然生徒のプライバシーを尊重する。

「大丈夫よ。私も生徒に漫画描くの手伝わせてるとか知られたくないし」
「よかった。じゃあみっちゃんの秘密も内緒にするよ」
「秘密?」

 首を傾げる美里にむかって、橘はニヤリと笑みを浮かべる。

「あー、世界ぶっ壊れないかな」
「うるさい」

 穏やかな昼下がり。
 これは一人の男子高校生が、私の退屈な世界を壊しにきたお話。

× × ×

 放課後の保健室で橘に絵を教えることになった。
 過去には教室に居場所がなく、登校して保健室で自習をするといった生徒もいたので保健室の隅には机とイスが一組置きっぱなしになっており、橘にはそれを使ってもらうことにした。

「さてと、まずは漫画の作業を終わらせましょうか」
「俺は何をすればいい?」

 やる気に満ちた表情で橘は制服の上着を脱いで白いシャツの袖を捲る。
机に紙を一枚、美里は置いた。

「とりあえず画力を知りたいから、ここに教室の背景描いてみて」
「教室ね。オッケー」

 サラサラと勢いよく鉛筆を走らせる橘に、美里はわずかに驚いた。
 毎日通っている場所とはいえ見本も無しに想像だけでいきなり描き始める度胸はたいしたものだ。失敗を恐れない大胆さが橘にはあった。
 それから美里は自分の作業に戻り、数十分後、

「どう? なかなか上手く描けてるでしょ」

 出来上がった教室の絵を橘が持ってきた。
 受け取った紙を美里はじっくり眺める。その間、視界の端でそわそわしている橘の姿がなんだかおかしかった。

「なんていうか、下手ではないけど色々とズレてるわね」
「え、そう?」
「机の幅がバラバラ。黒板から机までの距離がおかしい。あと光の差し込み方も変ね」
「それってどうすれば改善できるの?」
「えーっと、まずはパースをしっかり……人に教えるのって難しいな。ちょっと待って。この手の背景はネットで調べればいくらでも見本が転がってるから……あ、ほらこれ見て。ちゃんと奥行きまでの空間や影の方向を意識して描いてる。パースの解説なんかも一緒にあるからわかりやすいでしょ」
「なるほど。よし、じゃあ描き直すよ」

 教室の背景の絵に手を伸ばす橘だが、美里はそれを渡さずかわりに新しい紙を一枚手渡した。

「これはそのまま使うから、次の背景を描いて」
「え? なんで?」
「学校で配る自主制作漫画で細かい背景なんて誰も見てないでしょ。なんなら背景無しのコマだって多いし」
「でも中途半端なものを見せたくないなぁ」
「次から気をつけて描けばいいわよ」
「いやだ。描き直す」

 頑なに描き直そうとする橘は向上心の塊のようだった。よりよいものを見せたいという気持ちはわかる。しかし今は漫画を完成させることが優先だ。
 思えばかつて美里が下手だと思った漫画家も、締め切りに追われて苦悩の末にこうした妥協をしてきたのかもしれない。それを仕方ないと割り切れるようになった自分も大人になったのだと美里は実感する。
 きちんとした大人らしく美里は橘を諭した。

「ちゃんと絵を教える時間が減るけどそれでもいいの?」
「うっ、それは……」

 わずかに迷った後、橘は新しい紙を受け取る。

「わかった。次からはもっと上手に描くから」

 顔に悔しさが滲み出ているのが子どもらしくて可愛いなと美里は思った。
 
 それから数日後。
 橘の意欲には目を見張るものがあり、漫画の作業にもある程度目処がついた。

「ありがとう。おかげで助かったわ」

 原稿をまとめた美里が礼を告げると橘は意外そうな声を上げる。

「あれ? まだ途中じゃない?」
「家でスキャンして残りの仕上げはデジタルでやるから、ここまで描けば十分よ」
「あー、うちパソコンとかないんだよね。やっぱり液タブとか慣れておいた方がいい?」
「いずれ漫画描くなら慣れておいた方がいいけど、美大受験のために絵の勉強をするっていうなら今は必要ないでしょ」
「それもそっか」
「こっからはあなたの絵の上達の時間にしましょ」
「よっし、お願いしまっす!」

 パチンと顔を叩いて気合いを入れる橘。
 彼の机に美里はバラの花を生けた透明なコップを置いた。

「ハイこれ。まずは鉛筆でのデッサンから始めましょう」
「デッサンといえば石膏デッサンじゃないの?」
「保健室に石膏モデルがあったらおかしいでしょ。それにコップと花って勉強になるのよ。ガラスの透明感やコップの硬さ、花の柔らかさ。いろんな表現が身につくわ」
「たしかにそうかも」
「あ、でも一度石膏デッサンも見てみたいから美術室で描いたものを今度持ってきて。課題を今のうちに洗い出したいから」
「わかった」
「とりあえず今日は、この花とコップのデッサンしてみて」
「おっけー…………」

 返事をしたものの橘の手は止まっていた。
 なかなか描き始めない。いつも描くことに貪欲でうずうずしてる彼にしては珍しい光景だった。鉛筆デッサンは苦手なのだろうか。
美里が怪訝に思っていると、橘がゆっくりと顔を上げた。

「……みっちゃんってやっぱり美大に行ってたの?」
「美大で養護教諭の資格はとれないでしょ。たぶん」
「それにしては詳しいよね。なんで?」

 質問に、小さく息を吐いてから美里は答えた。

「私は美大を諦めたのよ。絵は好きだったけど、その程度の才能だったってこと」

 いずれ聞かれるだろうとは思っていたので覚悟はしていた。けれどいざ口にすると、チクリと棘を刺したような小さな痛みが胸を襲う。
 おそるおそる美里は橘の様子を窺ってみた。
がっかりしただろうか。美大に行けなかった人間の言葉になど耳を貸さないだろうか。他の人に教わると言い出すだろうか……。
 しかしそのどれでもなく、橘は実にあっけらかんとした表情だった。

「そうなんだ。もったいないなぁ」
「私なんてたいしたことないわ。予備校でも私より上手い人はたくさんいたから」
「でもみっちゃんの絵、俺は好きだよ。なんか魅入っちゃう」
「漫画しか見たことないでしょ」
「それでもわかるよ。俺の好きな絵だ、って」
「喋ってないで手を動かしなさい」
「はーい」

 語気を強めて言うとようやく橘は描き始めた。
 集中して描く橘を眺めながら、美里はそっと自分の頬に手を当てる。
 少し顔が熱かった。

 しばらくして橘がデッサンを完成させ、

「どうかな?」

 出来上がったデッサンを美里が眺める間、橘は期待と不安が入り交じった表情でやはりわくわくそわそわしていた。子どもが親に褒められるのを待っているみたいで可愛らしい。漫画を手伝ってもらった時もそうだが、美里はこの時間が嫌いではなかった。
 頬が緩むのを堪えながら美里は感想を口にする。

「悪くないと思う。背景描いてるときも思ったけど意外と繊細なタッチなのよね」
「マジ? いや~上手い人から褒められるとなんか照れるね」
「別に私は上手くないから。あと少しバランスが悪い。全体的にはやっぱり甘いかな」
「それはネットでどう調べれば?」
「手伝ってくれたおかげで時間ができたから私が描くわ。見てて」

 同じ角度の方がわかりやすいだろうと橘の使っていたイスに美里は腰を下ろした。
 まずはじっくりとデッサンする立体物を注視する。白いバラの花と水の入った透明なコップ。瞼を閉じても再現できるくらいにイメージを焼き付けてから、美里は鉛筆を手に取った。鉛筆を横に寝かせて細い芯の腹でおおまかな形を決め、そこから少しずつ輪郭をはっきりさせ細部を鮮明に描写していく。
 次第に周囲の景色や音が気にならなくなり、鉛筆を走らせる音だけが耳に響く。ただ絵を描くことだけに没入していく感覚。目で見たものを自分の手で再構築、あるいはそれ以上の物へと昇華させていく作業。外の世界など一切関係ない、自分だけの世界でいられるこの時間が美里はたまらなく好きだった。
 どれくらいの時間が経っただろうか。美里が鉛筆を机に置いて集中を解くと、背後から感嘆の声が聞こえてきた。

「うわぁ。なんか同じ物を描いたはずなのに、俺のと全然違う」
「あなたは一部分しか見てないの。なんて言うか、コップと花で別々の絵を描いてる感じ。二つを一つの絵として、もっと全体を捉えて描いた方がいいわ……これ、伝わってる?」
「うん。みっちゃんの絵を見たらなんとなくわかるよ」
「ならよかった」

 他人に絵の描き方を教えるなど初めてのことで自信がなかったが、どうやら伝わってはいるようで美里はほっと胸をなで下ろした。
 おそらく橘は性格が素直で向上心もあるので、一度描き方を見せれば勝手に吸収してくれるだろう。それを踏まえて橘が描いた絵を見て、新しく課題を見つけて指摘し、できれば描き方を実際に見せる。この繰り返ししか美里には教えられる方法が思いつかなかった。

「ねぇ、この絵もらっていい?」
「ほえ?」

 唐突に言われ、美里は間の抜けた声を漏らした。

「そんなのもらってどうするの?」
「部屋の壁に貼って毎日見てれば上手くなるかなって。あとこの絵、なんか好きだな」
「まあ、いいけど」

 自分の描いた絵が生徒の部屋に飾られるのを想像すると、かなり恥ずかしい。だがそれ以上に嬉しそうに絵を眺める橘の横顔を見て、美里は不思議と胸が満たされた気分になった。

 それからしばらく、毎月美里が学校で配る漫画を一緒に作り、空いた時間で橘の絵についてアドバイスする日々が続いた。最初こそ不安だったが教えたことを理解しみるみる画力を向上させる橘を見守るのは思いのほか楽しかった。
 数ヶ月経ったある日。

「みっちゃん聞いてよ。俺の描いた絵が賞をもらったんだ」

 放課後の保健室にやってきた橘が開口一番そう言った。
 学校のある日はたいてい美里のもとで絵の練習をしている橘だが、週に一度は美術部の活動もしている。賞をとったというのはそちらの絵だろう。美里もどんな絵か見たことはない。

「あら、ほんとに?」
「まあ小さいコンクールで、しかも佳作だけどね」
「それでもすごいじゃない」
「みっちゃんのおかげだね」

 そう言ってもらえると美里の教えも無駄ではなかったのだと嬉しい気分になってくる。
 気をよくした美里が今日は何を描いてもらおうか考えていると、橘は底抜けに明るい笑顔で言った。

「それで今度駅前のショッピングモールに飾られるらしいんだけどさ。よかったら一緒に見に行こうよ」
「はい?」

 週末の夕方。
 待ち合わせ場所であるショッピングモールの入り口に現れた美里を見るなり、橘は露骨に眉をひそめた。

「みっちゃん、なんでそんな格好してるの?」

 今日の美里はつば広の帽子にマスクとサングラスを着用した顔面完全防備である。顔の露出を極限まで抑えた、ある意味不審者のような見た目だがこれには理由があった。

「休日に生徒と一緒に出かけてるなんてバレたら大変でしょうが」
「保健室の先生なんて白衣着てないだけで全然印象違うからわからなさそうだけど」
「わからなさそうじゃダメなの。絶対にバレちゃいけないのよ。だから時間も遅めにしたんだから」
「まあなんでもいいや。行こう」

 こちらの心配をよそに橘は嬉々としてショッピングモールへと突入する。
休日だが夕食の近い時間帯ということもあり店内はそれほど混んではいなかった。それでも警戒を緩めない美里は少し離れて歩く。
二階の展示会場まで来るとさすがに橘が隣に並んできた。

「他の人の絵とか、みっちゃんの感想も聞きたくてさ」

 会場の展示パネルには小学生から高校生まで幅広い年代の絵がずらりと飾られていた。ゆっくりと歩きながら一つ一つの絵の感想を互いに口にする。
 橘は小学生の描いたつたない絵を微笑ましく眺めていたかと思えば、中学生の描いた絵に対して自分の方が上手いと対抗心を燃やしたり、見る絵によってコロコロと表情を変えていく。誰かと美術展に行ったことはあってもここまでの反応を見せる人は初めてで、美里も自然と笑みが零れていた。
 やがて細い進路が開けて、大きな円形の展示スペースにきた。壁に等間隔に並べられた絵の中に『橘宗介』の名前を見つける。
 夕暮れの校舎を描いた油絵だった。

「へぇ、あなたの油絵、初めて見るけどいいわね。絵の具をちまちま使わず一気に塗るのが、失敗を恐れない性格に合ってるんでしょうね。色づかいも大胆だけど、どこか温かい」
「ありがと。でもね、みっちゃん。俺、気づいちゃったよ」

 隣で橘がぐるりと首を回して周囲を見渡し、

「なにが?」
「誰も俺の絵なんて見てないね」

 自虐的な笑みを浮かべている。
 小さく嘆息してから美里は告げた。

「学生の絵の展示会なんてそんなものよ。知り合いの絵があるから見に来ている人が大半で、彼らは知り合いの絵にしか興味がないの。もっと言えば有名な美術展を見に来ている客だって、ほとんどは芸術に理解がある自分に酔ってるだけの人たちなんだから。絵の善し悪しに心の底から興味がある人間なんてほとんどいない。ただ絵の善し悪しがわかる人間のフリをしているだけ」

 普段の学校勤務では生徒相手にこんなことは言わない。しかし今は勤務時間外であるし、こと絵に関しては橘相手に本音を隠す必要はない気がした。
あけすけな美里の物言いに橘が苦笑する。

「みっちゃん、相変わらず尖ってるね。でもほら、あそこには人だかりが」

 指差す先ではこの時間帯にも関わらずたしかに人だかりができていた。
 展示場の中央に一枚の大きな絵が飾られている。立派な額縁の下に『最優秀賞』の文字が貼り付けてあったが、多分無くてもわかっただろう。
 それは草原の絵だった。

 一目見て、美里は全身が総毛立つ感覚に襲われた。
 青々とした草の匂いがした。風が吹きつけてきて優しく頬を撫でる。穏やかで暖かい、心地よい自然に美里は包まれている。手を伸ばせば柔らかな草木に触れられる気さえした。そこにないものがあるかのような、絵の世界と現実の境界線が曖昧になっていく。
 気づけばサングラスを外し、顔を隠すことも忘れて美里はその絵に魅入っていた。
 誰もがこの絵の前で足を止める理由がわかった。技術的に優れているだけでなく、その先にある異質な何かを放っている。美里はその正体を知っている。
 ――圧倒的才能。
 芸術がわからない人間だろうと無理矢理わからせるほどの凄さが、この絵にはあった。

「この絵は……」

 喉が痺れたように美里は言葉が出てこなかった。
 感想や批評を言える類いの絵ではない。言葉にしなくとも、見れば伝わるのだから。
 かろうじて美里が意識を隣に向けると、

「うん……なにも言わなくていいよ。なにも……」

 目尻に光る粒を湛える横顔と悔しそうに震える声。
 ゆっくりと美里はその場を離れた。

 ショッピングモールを出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
 その場で別れることも考えたが、美里はどうにも気がかりで橘と少し歩くことにした。
 橘はなにも言わなかった。
 隣に並ぶと美里よりも橘の方が頭一つ背が高い。当然歩幅も広いはずだが、歩く速度が同じなのは美里に合わせてくれているのか、それとも……。
 通り過ぎる車のヘッドライトが橘の横顔に濃い影を落としていた。
 車道をまたぐ歩道橋に登ると夜の闇に浮かぶ街の明かりはぼんやりと歪んで見えて、すぐそばにいる橘でさえまるで別世界の住人に見えた。

「小学校一年生の時さ、クラスで一番絵が上手かったんだ」

 歩道橋の中ほどで足を止めた橘が、おもむろに口を開いた。

「中学校でも高校でも、美術部の中でも俺より絵が上手いやつなんていなかった」
「そう」
「みんなが褒めてくれたんだ」
「よかったわね」

 ぽつりぽつりと言葉を交わす。
 欄干に背中を預けた橘が頭上を見上げた。空にはどんよりとした雲がかかっていて星の光は見つけられない。

「自分に絵の才能があると思ってた。ぶっちゃけみっちゃんの絵もさ、練習すればいつか越えられると思ってたんだよ」
「そうね。練習すれば私くらい簡単に越えられるわよ」
「じゃあさ、今日見たあの絵は? あれよりすごい絵を俺もいつか描けるかな?」
「それは……わからないわ」

 根拠のない励ましを言う気は美里にはなかった。おそらく橘もそんな言葉は求めていないと思ったから。
 美里が欄干に手をのせると、ざらついた嫌な感触が手の平から伝わってくる。
 暗い空に向かって吐き捨てるように橘は言った。

「あれが本物の才能だとしたら、俺は持ってない人間だね」

 空虚な響きが風に流され夜の闇に溶けていく。
 どこかでこうなることを美里はわかっていた。
 圧倒的な才能は、他者を絶望へとたたき落とすということを。
 わかっていたなら絵の技術を教えるだけでなく、もっと他に伝えることがあったかもしれない。けれどそうしなかった理由についても美里はすでにおぼろげながら理解している。

 おそらく自分は、橘にかつての自分の姿を重ねていた。
 自分が諦めた道を何も知らずに楽しそうに進む橘に嫉妬していたのだ。どこまでも前を見る橘に、夢を見続けることはそんなに簡単じゃないと思い知らせてやりたかった。夢よりも現実を突きつけてやりたかった。
 その気持ちが全くなかったと言えば嘘だろう。
 きっと気づいてたいのに、ずっと気づかないふりをしていたのだ。
 じわじわと鈍色の感情が美里の心を蝕んでいく。

「やめる?」

 ぼそりと口にした美里の問いかけに、橘が顔を向けた。

「今なら進路を変えるのに遅くないわよ。信じて努力を続ければ夢は叶う、なんて夢が叶った人間だけが言うセリフ。夢を追うならそこには時間と労力を費やすリスクが付きまとうわ。才能がない人間はなおさらね。手を伸ばさなきゃ何も摑めないけれど、手を伸ばして何も摑めなかったときの無力感はきっと今日の比じゃないわよ」

 以前にも似たようなことを橘に言ったことがある。
 しかし本物の才能に触れた今では心に響く言葉の重みが違うだろう。
 風に吹かれるように橘はゆらりと欄干から背中を離した。

「……みっちゃんらしいね。でもね」

 正面から美里に向き直り、街中の明かりをその瞳に集めた輝く眼差しで、真っ直ぐに美里の瞳を射貫く。

「才能がないからって、俺が挑戦しない理由にはならないよ」

 不遜で、傲慢で、無謀で、自信に溢れた表情だった。
 たかが才能。そんなもので自分の意志は揺らがないと、橘は押し寄せる絶望を撥ねのけるように、

「だから、また俺に絵を教えてよ」

 ニッと白い歯を見せて笑みを浮かべる。
 才能の差を思い知り、それでも折れない橘の姿が美里の目には眩しく映る。
 かつての自分と同じだなどと勘違いも甚だしい。ならばこそ、これだけはあらためて確認しなければならない。

「もうわかってると思うけど、私も才能が無い側の人間よ。美大にすら行ってない。そんな私から教わっても意味がないかもしれない。それでもいいの?」
「いいよ」

 即答だった。

「意味があるかどうかは俺が決めるんだから」

 後悔のない人生なんてどこにもない。それでも後悔しないように、彼は自分で選んで決めたのだ。
 だから美里も覚悟を決めた。ざらついた欄干を強く握る。
 才能に立ち向かうのは孤独な戦いだ。周りがどれだけ応援しようと、どこまで行っても最後には己一人の力で戦わなければならない。
それでも一人にさせたくないと、美里は強く思った。
 暗い夜を殴りつけるように橘が拳を握った腕を伸ばす。

「才能のある連中がのさばってる世界を俺がぶっ壊すから。手伝ってよ」

 目をぱちくりと瞬かせた後、美里は呆れたため息を吐いて同じように拳を突き出す。
 コツンと思った以上に硬い部分がぶつかり、互いに笑った。

 薄闇に包まれた二人きりの世界。ここから明るい場所を目指す二人だけの約束。
 ……この時の私はすっかり忘れていた。

 才能はどこからともなく現れて、私たちの世界を蹂躙していくことを。


「才能と夢のありか」第2話|谷山走太 (note.com)

「才能と夢のありか」第3話|谷山走太 (note.com)

この記事が受賞したコンテスト

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?