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「才能と夢のありか」第3話

 宗介が美大の受験に落ちた。

 美大や芸大は一浪二浪が当たり前の世界。この数ヶ月で宗介の絵は見違えるほどよくなったが、受験者はみんな何年も絵のことだけを考えて生きてきた人間だ。
 不合格の連絡を美里が受けたときは、もっと他に教えることはなかったかと自分を責めたが、一方でこうなることも覚悟はしていた。

 心配なのは宗介の方だった。
 常に前向きな彼でも流石に受験に落ちたことはショックだろう。しかもライバル視しているアイナは東京にある国立の芸大に一発合格していた。職員室では教頭が「我が校初の快挙だ」と盛り上がっていたが、ここでも才能の差を見せつけられた宗介の落胆は計り知れない。
 受験が終わってからアイナが保健室を訪れる回数はめっきり減ったが、宗介は律儀に美里の漫画を手伝いにやって来る。けれど手伝いが終わればすぐに帰ってしまうようになった。

 保健室で、宗介は絵を描かなくなった。

 来年の受験に向けて今すぐに切り替えろというのは無理があるだろう。どうにか励ましたいが美里には掛ける言葉が見当たらない。
 何か宗介の力になれないかと美里は思い悩み……ふと、以前に宗介が構想している漫画でカッコイイ銃を描きたいと言っていたことを思い出した。
 やたらとリアル感を追求していたので、参考資料として買ってあげれば喜ぶかもしれない。

 立場上、生徒個人に何かを買ってあげるのはマズイのだが時期的に卒業祝いということにすれば問題ない。何かあってもせいぜい教頭から口頭で怒られるくらいだろう。落ち込む彼の力なれないことの方が美里にとってはよほど胸が苦しかった。

 美里の住むアパートから電車で二駅。
 ネットで調べた店は外観こそ普通だったが、店内は雑多な商品が並ぶいかにも怪しげな店だった。美里が目当ての商品を購入するとやたらとガタイのいい店員が「あんたは大人だから大丈夫だと思うが、絶対に人にむけて打っちゃダメだぜ」ガハハと大口を開けて笑っていた。そんなものが手軽に買える店の方がおかしい気もするが、この際細かいことは気にしない。

 手の中には、ずっしりとした重さと鈍色に輝く拳銃。
 本当にこんなもので彼は喜ぶだろうか……。
 不安はあったが美里には他になにも思いつかなかった。
 
 ――翌日の放課後。
 美里の漫画の手伝いを終えた宗介が、突然切り出した。

「俺、しばらくここには来ないから」
「え?」

 唐突に言われて呆然とする美里をよそに、宗介は手早く筆記具をバッグにしまっている。
 慌てて美里は喉から声を絞り出した。

「ちょっと待って」
「ん、なに?」
「その……最近は自分の漫画、描いてるの?」
「あんまり。今は他にやらなきゃいけないことがあるから」
「あ、そうなんだ……」
「それだけ? そんじゃ、もう行くね」

 後ろ手にドアを閉め、宗介は保健室を出て行った。
 そっと美里はデスクの引き出しを開ける。昨日買って用意していたプレゼントはさっそく行き場を失ってしまった。
 立ち上がって保健室を出た美里は廊下の窓からぼんやりと昇降口を眺めた。だが次々と校舎から吐き出される生徒の中に宗介の姿はなく、かわりに反対側の校舎の廊下に宗介の姿を見つけた。

 四階の突きあたりの教室――美術室へと入っていく。
 美術部の活動だろうか? 
 疑問に思いながら美里の足は自然とそちらへ向いていた。
 美術室のドアは立て付けが悪いのかわずかに隙間ができており、そこから美里は中の様子を覗き見る。狭い視界でわかりにくいが室内にいるのは宗介と女子生徒が一人だけ。

「遅いよー。あたしに教わりたいって言ってきたのはそっちでしょー」
「ごめんごめん。他に頼れる人いないんだ。あとでミルクティーおごるから」
「ほんと? 毎日?」
「毎日おごるのは無理。いや毎日教えてほしいけどさ……」
「冗談だよー。じゃあビシバシやってこー」
「っし、ビシバシ頼むよ」

 一緒にいたのはアイナだった。
 どうやら宗介は、アイナから絵を教わることを選んだようだ。
受験に一発合格し、美里よりも遙かに絵の上手いアイナを頼るのは当然の思考だと思う。
 二人に何か声をかけようかとも思ったが、出かかった言葉を美里は飲み込んだ。喉奥に硬いものが引っかかるような違和感を残したまま、そっと踵を返して美術室を離れる。

 ここにきてようやく美里は悟った。

 自分の役目は終わったのだと。
 
 
 それからというもの保健室は静かな日々が続いていた。
 毎日のように宗介やアイナがいた賑やかな雰囲気が名残惜しくもあったが、これが本来の保健室であることは疑いようもなかった。
 考えてみれば宗介が卒業すれば今までのように保健室で美里が教えるわけにはいかない。受験の合否に関わらず、こうなることは最初から決まっていたのだ。

 養護教諭としての仕事を美里は淡々とこなし、卒業式が迫ったある日。
 アイナが保健室を訪れた。

「あら、久しぶりね。どうかしたの?」
「うぅ~教室いたくない。担任がうざい」

 ふらふらと歩くアイナは断りもなくボフン、とベッドに突っ伏した。
 特に咎める気もなく美里は事情だけを尋ねる。

「何かあった?」
「あたしが『進学しない』って言ったら担任が毎日詰めてくるの。大学に行った方が就職で有利だとか、大学に行きたくても行けない人間がいるんだぞとか。あたしの人生なんだからあたしの好きにさせてよ」
「…………え?」

 話の内容に美里は大きく目を見開いた。
 アイナが合格したのは美術や芸術を志す者なら誰もが知っている難関の国立大学で、毎年多くの受験者が血反吐を吐くほどの努力をし、それでもその高い壁に阻まれ涙している。
 合格したのに進学しないというアイナの選択は、美里のような凡人には理解できなかった。

「えっと……進学しないの? 理由は?」
「まあセンセーになら話してもいいかなぁ。あたし、漫画の連載が決まったの。忙しくなるから大学は行かなくてもいいや」

 ベッドに寝そべったまま冗談めかしてアイナは言う。
 それが冗談ではないと美里には直感的にわかった。

「担任に話すとさ、どうせまた『学校初の快挙だ』とか祭り上げられるじゃん。そーゆーのマジ鬱陶しいんだよね。だから他の人には内緒ね」

 シーと口元に人差し指を当てるアイナ。
 もうすぐ卒業とはいえ彼女は高校生で連載を勝ち取っていたらしい。美里は驚く反面、どこか納得できてしまう自分がいた。
 天才は自由の羽を持っていて、凡人がどれだけ精一杯走ろうともその背中には届かない……。
 真っ先に彼の顔が思い浮かんでしまう。

「……それ、宗介は知ってるの?」
「うん。宗介には話したよ」

 よいしょっ、とアイナはベッドから身体を起こした。美里を見つめるアイナの顔はどこか嬉しそうに笑みを浮かべている。

「今ね、あたしが宗介に絵を教えてるんだ」
「教えたり教わったりは嫌いじゃなかったの?」
「嫌いじゃないよ。ただあたしには関係ないってだけ。けど宗介があたしを頼ってきたから、それは関係なくないじゃん」
「そういうもの?」
「今まで真っ正面からあたしを頼ってきた人なんていないから新鮮だったよ」
「彼は前向きだから」
「変な男だよね。でもあたしは結構好きだよ。宗介のこと」
「そう……」
「ま、宗介のことはあたしに任せてよ」

 にんまり笑みを浮かべるアイナからそっと目を逸らす。
 どんな顔をして彼女を見ればいいのか、美里にはわからなかった。

 ――卒業式の日。
 教員たちの出勤は普段よりもだいぶ早い。卒業生が胸につけるコサージュの配布から体育館の座席や音響確認、保護者や来賓者の案内など、この日の仕事は数え上げればきりがない。
 全ての準備が終わった頃には、着替えなくてはいけない時間だった。
養護教諭の美里はいつも白衣を羽織っているためあまり格好は気にしていないが、さすがに卒業式に白衣で出席するわけにはいかない。家からスーツで出勤することも考えたが、この日は晴天に恵まれ暖かく準備で汗を掻くことがわかりきっていたので美里は直前に着替えることを選んでいた。教員用の昇降口から早足でスーツをとりに駐車場の車へとむかう。

 ふと校舎の窓に影が映った。
 すでに在校生が体育館に移動を始めている時間のはずだが……美里が目を凝らすと校舎の四階、美術室の前の廊下に一組の男女が見えた。
 一人はアイナだった。特徴的な黒い羽のついた小さなリュックを背負っているので間違いない。もう一人は明るいブラウンの長髪……宗介ではない、美里の知らない男子生徒だった。
 何か話しているようだが美里からは見えづらく、上を向いたまま後ろに下がっていると、チラッとアイナがこちらに視線を向けた気がして、

「っ!?」

 駐車場の縁石に美里はつまづいた。
 派手に転んで、肘とすねを硬いアスファルトにぶつけてしまう。
 だが痛みを無視して美里は顔を上げた。
 転ぶ直前に見た光景はそのままだった。

 アイナが男子生徒の背中に手を回し、顔を寄せて口づけをしている。男子生徒の口をねっとりと味わうように……けれどその視線は男子生徒ではなく、駐車場にいる美里に注がれていた。
 間違いなく美里に見せつけるキスをして、笑みを浮かべていたのだ。
 見下ろしているのは妖艶なメスの顔。

 不快感が美里の胸中に広がっていく。喉元からこみ上げてくる気持ち悪さ。内側から何かを訴えかけてくる感情に血液が沸騰する。
 胸を掻き乱すいくつもの感情に、美里はたまらず走り出した。
 上靴に履き替えるのが面倒で、外履きを脱ぎ捨てたストッキングの足で校舎に上がり、猛然と廊下を駆ける。
 アスファルトで転んだ拍子にタイツは破れて擦り傷から血が滲んでいた。足を踏みしめるたびに痛みが走ったが、立ち止まりはしない。

 突き動かす衝動の根本が何なのか、美里にはわからない。
 ただ今日であの女の顔が見納めなのだとしたら、一度くらいは酷い目に遭わせないと美里の気が済まなかった。
 恵まれた容姿、恵まれた才能、挫折などとは無縁で自分はなんでも許されると思っているような大人を舐めきった態度。世の中思い通りでヘラヘラ生きているあの女に絶望を突きつけて、みっともなく泣かせて、惨めな想いを味わわせてやりたい。

 そのためには……保健室に駆け込んだ美里は机の引き出しからずっしりと重たい物を掴み、再び廊下を走り階段を駆け上がる。
 卒業式がもうすぐ始まるのだろう。慌てた様子で走る男子生徒とすれ違った。もしかしたら先ほどアイナといた男子生徒かもしれないが彼に用はない。

 美術室のある校舎は人気がなく、美里の不器用な足音だけがやけに大きな音で響いていた。
 さっきまでいた廊下には誰もいなかった。けれどなぜかアイナがまだここにいると、美里の直感が告げていた。
 そっと美術室のドアを開く。
 教卓に寄りかかるように立っていたアイナが振り返る。

「あ、センセー。やっぱりさっきの見えてた? こっち来るかなぁ……っていうかボロボロじゃん。大丈夫?」

 振り返った拍子に彼女の背負ったリュックについた黒い羽がパタパタと揺れた。まるで彼女には悪魔の羽が生えているかのようだ。

「……やっぱり見せつけてたの?」
「たまたまセンセーが見えたから。ああいうときセンセーはどんな顔するのかなぁって気になっちゃって。気になったら確かめないとだよね」

 ただ反応が見たかったからキスを見せつけてみる。
 美里には理解に苦しむが、天才とは往々にしてそういうものだ。
 凡人には理解できない行動原理で動き、また理解できない凡人を嘲笑っている。
 今も怒りを露わに近づく美里に対して、アイナは面白そうに目を細めていた。

「あ、なんか怒ってる? へぇ、そういう顔もできたんだ。センセーの大人ぶってるカンジは好きじゃなかったから、うん。そういう顔も素敵だよ」
「あなたは……どこまでも人をバカにして……」

 教卓を挟んで向かい合う。アイナから見えないように、美里はそっと白衣のポケットから拳銃を取り出した。
 それは本当なら、宗介にプレゼントするはずだったもの……。
 両肘を教卓についた姿勢でアイナは下から覗きこむように美里を見据える。

「バカにしてるのはセンセーでしょ。いつも本音を隠してるじゃん」

 耳障りな声が美里の鼓膜をざわりと刺激した。
 ……うるさい。

「絵が言ってるんだよ。本気でやれば私はこんなもんじゃない。もっとできる、って」
 
 ……うるさい、うるさい、うるさい。

「センセーが宗介に教えてたのだってさ、自分が本気でやって傷つきたくないから宗介に代わりに挑戦させてたんじゃないの?」

 うるさい、うるさい、うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。

「毎月仕事しながら漫画描くのも普通だったら面倒じゃん。描くのが好きとか、教頭と張り合ってるとか、本当にそうなの? 手伝ってもらう名目で宗介を手元に置いておきたかっただけじゃないの? 自分が教えた宗介が成功すれば、私だってできた。宗介が失敗すれば、どうせ他人だから。自分だけは傷つかないところから宗介の本気に乗っかって、利用して……人をバカにしてるのはあたしとセンセーどっちかな?」

「私と彼は、そんなんじゃない!」

 苛立ちを吐き出すとともに、美里は拳銃をアイナに向かって突きつけた。
脈打つ心臓の鼓動が落ち着かない。落ち着かせる必要ももはや感じなかった。
 いい人ぶるのは、大人ぶるのはもうやめだ。
 脅して、慌てさせ、泣かせて、それでも納得いかなければ……。
 銃口を向けられたアイナはわずかに目を見開き、けれど恍惚の笑みを浮かべていた。

「あはっ、感情剥き出しのイイ顔だぁ」
「それ以上くだらないことを喋るなら本当に撃つわよ」
「別に撃ちたきゃどうぞ、ってカンジだけど。撃ったらセンセー捕まっちゃうよ?」
「だったらなに!」

 語気を強める美里の瞳を、アイナは真っ正面から捉えて言った。

「宗介の努力が無駄になっちゃうけど、それでいいの?」

「……どういうこと?」

「捕まったらセンセー、せっかく宗介が描いた絵が見れなくなっちゃうじゃん」
「え?」

 固まる美里に背中を向けて、アイナは壁際に置かれた一台のイーゼルをくるりと反転させる。
 縦長のキャンパスには、白衣を纏った一人の人物が描かれていた。
 美里の肖像画だった。

「美術部の宗介の卒業制作。テーマは『感謝』なんだって。どうしても上手に描きたいからアドバイスしてくれ、って必死こいてあたしに頼んできたんだから」

 言われなくてもこの一年宗介の絵を見続けてきた美里には、この絵にどんな想いが込められているのか一目でわかった。
 拳銃を下ろして近づいた美里は絵をまじまじと見つめる。

「……上手くはないわね」
「そうだね~。言っちゃ悪いけどむしろ下手かな~。でもこれはあたしには描けない絵だよ」

 技術的には拙くて粗が目立つ、不器用で下手な絵……だけど、とてもあたたかい絵だった。

「センセーに感謝っていうのが私にはわからないし。受験落ちちゃったのに。まあ他人に頼らなきゃ絵を描けない、ってちょっと情けないよね」
「あなたみたいな才能のある人間にはわからないわよ。凡人は誰かに力を貸してもらわないとなかなか真っ直ぐ歩けないから」

 ――もしも利用していたのだとしたら、彼が私を利用していた。私はそれに協力していた。それでいい。私たちは助け合わなければ才能に手が届かないのだから。
 顎に指を当てたアイナが小首を傾げる。

「それってようするに自分の力不足なだけでしょ」
「あなたみたいな無自覚な才能で周りを切り刻む人間は敵を増やすわよ」
「自覚はあるよ。でも仕方ないじゃん。これがあたしなんだから。周りに気を遣ってどうするの? 私は私のやりたいようにやる。敵になるなら好きにすればいい。あたしの相手になるならね」

 不敵な笑みを浮かべるアイナ。
 小さく嘆息した美里は、真っ正面から告げた。

「私は、あなたが嫌いよ」
「あたしは、今のセンセーなら結構好きかも」
「あなたのことぶん殴りたい、って言っても?」
「面白そう。殴ればいいじゃん」
「そういうところよ。大人は我慢するの……でも、我慢しなくていいかな」
「殴るの?」
「いつか、思いっきりね」

 視線をぶつけて対峙していると、廊下からバタバタとした足音が近づいてきた。
 慌てた様子で美術室に駆け込んできたのは宗介だった。

「あっ、アイナ見つけた。もうすぐ卒業式始まるぞ……って、なんでみっちゃんもいるの? 怪我してるし……うわっ、俺の絵見られてんじゃん。アイナ、隠してくれよ」
「あ、ごめーん。なんかゴタゴタしてて~」

 てへっ、と誤魔化すようにアイナは片手で謝った。
 ゴタゴタと聞いて美里はふと思い出す。

「そういえば、さっきの生徒は? あの子と付き合ってるの?」

 そもそもアイナが誰と付き合っていようが美里には関係ないのだが、先ほどは頭に血が昇ってそれどころではなかった。

「さっきの? ううん全然。なんか告られたんだ。あたしのこと『死ぬほど好きだ』って言うからさ、ちょっと試してみたんだけど」
「試す?」
「うん。本気で死ぬほど好きならさ、自分の命よりも愛を選ぶわけじゃん。だからキスしながら相手の舌噛んでみたんだけど、あたしの事突き飛ばして逃げちゃった。『死ぬほど好き』なら好きな相手とキスしながら死ねるとかむしろ本望じゃない? 結局みんな口だけなんだよね~」

 笑顔で恐ろしいことを口にする。
 美里に見せつけていたあのキスにそんな思惑が隠れていたとは……。
 やはり天才とは凡人と一線を画す感性をもっているのだと美里はあらためて思う。

「呆れた……」
「アイナってマジで変なやつだよな」
「宗介がそれ言う? あ、宗介は口だけじゃなくて本気で絵を描いてるってわかるから。そういうとこは好きだよ」
「俺はいつかお前も越えてみせるよ」
「そうそれ。虚勢じゃなくて本気で思ってる目。やってみなよ……やれるもんならさ」

 ニヤリとアイナは口の端を持ち上げて、宗介の肩をポンと叩く。それから美里に視線を向けて、

「じゃあそろそろ行くね。卒業式始まっちゃうし」
「あ、俺も」
「待って」

 思わず美里は呼び止めた。
 聞こえていなかったのか、はたまた気を利かせたのかアイナは先に行ってしまい、美術室には美里と宗介の二人だけになった。
 呼び止めたはいいものの、こうしてあらたまると切り出し方に悩んでしまう。

「えっと、その絵……」

 美里が指差すと宗介はポリポリと恥ずかしそうに頭を掻いた。

「本当は卒業式の後に渡したかったんだけどなぁ。みっちゃんに世話になったからそのお礼に描いたんだけど、もらってくれるかな?」
「ええ、ありがとう」
「それと、ごめんね。色々教えてもらったのに受験落ちちゃって」

 謝る宗介に、美里は小さく首を横に振る。

「謝らないと行けないのはたぶん私の方。アイナに言われたわ。自分が諦めたことを宗介に代わりにやらせて、宗介を利用してるって」
「いやいや、俺から頼んだんじゃん」
「でも、私も利用してたかもしれない。失敗して落ち込む宗介を見て、自分は間違ってなかったって安心したかったのかもしれない。そうでなくても私の指導が足りなくて受験に落ちたのかもしれない。私の想いなんて余計なものを背負わせて、知らないうちに宗介に重圧を押しつけて描かせていたのかも――っ?」

 懺悔するように吐露する美里を遮るように、宗介が右手を顔の高さに持ち上げた。

「みっちゃんさ。これ、何に見える?」
「宗介の……手?」
「そうだよ。俺の手だ。俺の意志で動いてるんだ。誰かに描かされているんじゃないよ」

 ぽかんとする美里に、宗介はニカッと白い歯を見せる。

「今日でみっちゃんとはお別れだけど、俺は描き続けるから」
「アイナみたいな才能がなくても?」
「才能がなくても、いつか画家にも漫画家にもアニメーターにもなってみせるよ。それでアイナみたいな才能ある連中を、世界を驚かせるんだ。あいつらの世界をぶっ壊すよ。どれだけ失敗や挫折をしたところで、全部成功のための一部してみせるから」

 あれだけ一緒に頑張ってきたのに失敗の記憶も痛みも美里と分かち合ってはくれない。
 逞しい宗介の姿は眩しいが、美里はどこか寂しい気持ちにさせられた。
 だからほんの少し、いじわるを言ってみたくなる。

「もし夢が叶わなかったらそこに賭けてた時間が全部無駄になるけど、それでもいいの?」

「死ぬ気で挑戦して、なんの言い訳もできないほどやりきって、それでもなりたいものになれなかったら……その時はバカみたいに笑ってみせるよ。俺の人生に後悔はない、ってさ」

 きっとそう言うだろうとわかっていた。
 宗介の放つ熱が美里の身体を駆け巡る。
 将来の不安や迷いを撥ねのけるような宗介の瞳は、美里を見据えてとびきりの笑顔を浮かべた。

「それにさ、全部が無駄じゃないよ。みっちゃんに会えたから」

 その言葉だけで美里にはもう十分だった。
 どこまでも変わらない宗介は、かつて諦めた美里の先を見せてくれると思っていた。だがその景色を見ることができるのは宗介だけだ。きっと美里が見ることは叶わない。
 やはり宗介との関係はここで終わりなのだろう。

 けれど……終わるのではない。終わらせるのだ。
 最後に、自分の手で。

 白衣のポケットしまった拳銃を美里は再び手に持った。
 火照った身体でゆっくりと拳銃を宗介に向かって構え――、

 バン!

 耳を突く激しい音とともに、銃口から純白の花が勢いよく顔を覗かせる。
 白いバラの造花を美里は引き抜き、パチパチと目を瞬かせる宗介の左胸にそっと挿した。

「卒業おめでとう」
「何これ?」
「私からのお祝い、かな」

 ついでに拳銃型の手品道具も手渡すと、ようやく宗介も思い至ったようだ。

「あ、これ。覚えててくれたんだ」
「参考資料にあげる。カッコイイ漫画、描けるといいわね」
「ビックリしたよ。このドッキリ、アイナにもやったの?」
「驚かせようと思ったけど、結局やり損ねたわ。やっても驚いたか怪しいし」
「やる前に仕掛けに気づいたんじゃない?」
「どうかしら。怖いから確認したくないわ」

 肩をすくめて美里はイーゼルに掛けられた自身の肖像画に手を添える。

「この絵、大事にするわね」
「保健室に飾ってもいいよ」
「家に飾ることにするわ。学校は近いうちにやめると思うから」
「え? なんで?」
「あなたのおかげでもう一度本気で描きたくなったから、かな?」

 宗介やアイナと出会ってわかった。いや本当はもっと前からわかっていたのかもしれない。

 ――私はただ全力でぶつかるのが怖くて、逃げていたんだ。

 宗介が才能のある人間たちを驚かせるほどの存在になれるかはわからない。だが少なくとも、ちっぽけな美里の世界を壊してくれた。それだけの熱をくれた。
 もらった熱が身体で疼いている。
 夢を追いかけるのに早過ぎるも遅すぎるもないのだとしたら……。
 この熱を全力でぶつけるために。
 この気持ちに嘘をつかないために。
 もう一度描こう。

 わずかにきょとんとした後、ニッと宗介が笑みを浮かべる。

「そっか。ならやっぱり無駄じゃなかったね」

 その笑顔に、その言葉に美里は勇気をもらった。
 その眩しい光が、美里の行く道を照らしてくれた。
 宗介に抱くこの感情に、今はまだ名前をつけられないけれど……。
 いつかまた会った時。彼がもう少し大人になっていて、お互いにまだ夢を追いかけ描いていたら、その時にはちゃんと名前をつけてあげよう。
 その時まで。

「……元気でね」

 優しく呟いた声に、宗介が反応する。

「ん、なんか言った?」
「ほら、早くしないと卒業式に間に合わないわよ」
「みっちゃんもでしょ」

 これは一人の男子高校生が、私の退屈な世界を壊してくれたお話。

「ええ、急いで行くわよ」

 そして私は新しい一歩を踏み出した。【完】


 × × × 

【オマケ】
 ――数年後。とある漫画家の仕事場。

「あのぅ、そろそろ原稿をもらえたりしませんか?」
「うーん、なんか最近ヤル気出ないんだよねぇ」
「そんなこと言わないでください。たくさんの読者が連載の続きを待っているんですから」
「だって描きたくないときに描いてもいいものできないじゃん。あ、それと編集がいると気が散るから帰っていいよん」
「用件はまだあります。今回の新人賞の受賞作読みました?」
「まだだけど。ん~、読まなきゃダメ?」
「ダメです。『人気漫画家のアイナ先生から選評』というコーナーを誌面に組む予定だって話したじゃないですか。今すぐ読んで感想をください」

「仕方ないなぁ。どれどれ…………いやなにこれっ!?」

「その作品、編集部でも話題になりましたよ」
「ラブコメなのに超作画とか何考えてるの? スパイの主人公の持ってる銃とか無駄にカッコイイし。書き込みエグすぎて笑っちゃうわ~」
「なんでもその短編だけで丸一年かけたとか。努力は凄いですけど連載向きじゃないですよねぇ」
「作者は二人……あれ、この名前どっかで……」
「原作と作画ではなく、どっちも二人でやってるみたいですよ」

「……やるじゃん、センセー」

「? それでコメントはどうします?」
「それじゃあ『作者に思いっきりぶん殴られた気がした。殴り返すから覚悟しておいて』って載せといて」
「なんですかそれ? 『衝撃的な作品だった』ってことであってます?」
「コメントはそのまま載せて。うん……ちょっとヤル気出てきちゃった」

 これは彼女の世界が少しだけ衝撃を受けた、そんなお話。


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