「才能と夢のありか」第2話
夏のうだるような暑さが残る二学期。
夏休みが終わると高校三年生は一気に受験モードに突入する。三年生の教室ではピリピリとした空気が流れはじめ、それは受け持つ教員たちも同様であった。
他の生徒の勉強とは少し違うが、橘も美大受験に向けてモチベーションを高めていた。
一学期は保健室で橘の絵を見ていたものの、夏休みに毎日保健室登校をさせるわけにもいかず、課題として毎日一枚デッサンを描いたものをメールで送ってもらいアドバイスしていたのだが、橘には物足りなかったようで課題以外にもいくつも絵を描いたり、ときには自分で描いた漫画を美里に送りつけてきた。橘の描く漫画は高校生の日常をコミカルに描写するストーリーが面白く、美里は呆れながらも楽しく読ませてもらっている。
二学期が始まると受験前の橘に美里の漫画を手伝わせるのは気が引けたが「夏休みも漫画で息抜きしてたから」と橘が言うので、こちらも継続することにした。むしろ自分で書き始めたことで気づくことも増えてきたのか、美里の漫画の内容についても口出ししてくるようになっていた。
「みっちゃん、この展開弱くない?」
「現実に起こりうる問題を描くんだから、やりすぎるとリアル感がなくなるでしょ」
「でもこうしたほうが絶対みんなにウケるって」
「他の先生方にも読まれるんだから。生徒のウケだけ気にするわけにもいかないの。ほら、もうこんな時間。手伝いはいいから絵の方やるわよ」
「うーん、あの展開はやっぱり変えた方がいいと思うけど」
「はいはい。一旦漫画から離れて、宗介は自分のことに集中しなさい」
「はーい」
といった具合に、漫画制作と同時に美大受験に向けた課題にも取り組んでいく日々。
気がつけばいつの間にか呼び方も橘――宗介へと変わっていた。
彼女が現れたのは、そんな時だった。
美里は描きかけの漫画をページごとに整理し、宗介がデッサンのためにクロッキー帳を出していると、
「ふぁ~、おはよーございまーす」
子猫のような可愛らしい声がした。
保健室に並んだ二台のベッドのうちの一つ。閉まっていた遮光カーテンがするすると開き、寝ぼけまなこの女子生徒が顔を出す。
黒髪のセミロングにわずかにマゼンダ色のメッシュが入った髪型。不良というほどではないが、どこか普通の生徒とは違う雰囲気が漂っている。
「えっと、誰?」
まさかベッドを使用しているとは思っていなかったようで突然現れた女子生徒に戸惑う宗介に、美里は簡単に説明した。
「彼女は凛堂アイナさん。二学期に転校してきた子で、あなたと同じ三年生」
「アイナでいいよん」
「うっす……橘宗介。三年B組」
初対面のわりに距離感の近い女子に緊張しているのか、それとも女子相手にはみんなこうなのか、どこかよそよそしい宗介の姿に美里は苦笑する。
「体調悪いみたいでベッドで休ませてたの。具合はもういいの?」
「へーきへーき。別に具合悪くないし。ただ教室にいたくなかっただけだから」
パタパタと手を振るアイナを見て、宗介が眉をひそめる。
「ん? サボリ?」
「いいのよ。三年生のこの時期に転校してくるとクラスに馴染むのも大変でしょう」
「やさしー、先生ありがとー。ダメって言われたらリスカでもしてほんとに具合悪くするところだったよー」
「……何言ってんだコイツ?」
「うわ、疑ってる目だぁ。じゃあ本気がどうか見せてあげよっか?」
「見せなくていいから。変なこと言わないの」
教室に居場所がなく授業を休んで保健室にいることを美里はサボりだとは思わない。思春期の多感な時期だからこそ教室という狭い世界が合わない環境だった時は辛いだろうし、それでも学校に来ているのだから決して怠惰にサボっているわけではない。学校の中で羽を休める場所として保健室を見つけてくれたのだ。生徒の相談に乗ることも美里の大切な職務の一つであり、そういう意味では宗介もアイナも保健室にいることに何の問題もなかった。
「なにやってるの? あ、この漫画、保健室の先生が描いてたんだ」
ベッドから降りたアイナは上履きのかかとを潰したまま近づき、美里の机の上に漫画の原稿を見つけて目を輝かせる。
「へぇ、漫画ってこうやって描くんだぁ。ん~でも背景とかちょっと絵が違うね。もしかして二人で描いてるの?」
ほお、と美里は感心した。ベッドから会話を聞いていたのかもしれないが、それでも美里と宗介の描いた箇所の違いに一目で気づいたのだ。
当のアイナは好奇の視線を宗介に向けおり、しどろもどろに宗介が口を開く。
「そ、そうだけど。内緒にしてくれよ」
「秘密なんだ。いいよ。黙っててあげる。でもそのかわり~」
もったいぶるように語尾を伸ばしたアイナはピンク色の薄い唇の端を持ち上げた。
「あたしも一緒に描いていい?」
「は? なんで?」
「決まってるじゃん。あたしも描いてみたいから」
「遊びじゃないんだぞ。あんまり下手だと役に立たないし」
「大丈夫だって。漫画は描いたことないけど絵は得意だよ。前の学校でも美術部だったし」
「うーん、そうは言ってもなぁ」
どちらも譲りそうになく、変な空気になる前に美里が二人の仲裁に入る。
「じゃあアイナさんは試しに何か描いてみましょうか。宗介はほら、自分の課題に集中しなさい」
「さっすが先生、話がわかる~」
にこやかな表情でアイナが小さく飛び跳ね、宗介は渋々クロッキー帳を開いてデッサンの準備に取りかかる。
美里は真っ白い紙と鉛筆をアイナに手渡した。
「一緒に漫画を描いてくれるなら、まずは教室の背景を描いてみましょうか」
「あ、ちょっと待って」
くるりと反転したアイナはベッドに置きっぱなしだった自分のリュックを取りに行く。女の子らしい小さめのリュックで可愛らしい黒い羽のアクセサリーがついていた。リュックに手を突っ込んでゴムを取り出すと、アイナは後ろ髪を一つに束ねる。
「これでよし」
彼女の纏う空気がどこか変わった。
鉛筆を手に取って滑らかな動きで線を引く。まるで初めからそこに線が引かれていたかのように美しい線だ。その後も見本もなしに、迷いのない手つきでアイナは描き進めていき……、
「……っ!?」
思わず美里は息を呑んだ。
かつて宗介も同じように何も見ずに絵を描き始めたが、あれは失敗を恐れない度胸があってこそだった。
しかしアイナが今やっているのは度胸があるとかそういった次元の描き方ではない。
彼女はそもそも失敗する気がない。
鉛筆で絵を描くとき、大抵の人間は全体を捉えるように何本もの線を引いてその中から最適な一本に絞って絵を完成させていく。だがさきほどからアイナの引く線には捨てる線が一本もない。おそらく彼女には描くべき正解の線が最初から見えている。
あまりに異質な才能。鉛筆の走る余計な音が一切ない静謐な空間で、アイナの腕が踊るように動いていき――わずか数分後。彼女はあっという間に教室の風景画を描き上げた。
「なんだよ……それ……」
掠れた声に美里が振り向くと、宗介が自分の課題も忘れて呆然とアイナを見つめていた。
美里に意図したつもりはないものの、初めて宗介に描いてもらったものと同じ教室の背景。だがその完成度の違いは誰が見ても明らかだった。
アイナの絵は技術的に上手いだけでなく引き込まれるような不思議な魅力があった。教室の匂いやチャイムの音まで今にも聞こえてきそうで……ふと美里はあることに気づく。
「思い出した。凛堂アイナ。たしか、この間のコンクールで最優秀賞だった子でしょ」
「ん~、たぶんそう」
あいまいな返答をするアイナに、宗介が訝しげに顔をしかめる。
「なんだよ、たぶんって」
「コンクールで最優秀賞とかよくとってるから、どれのことかわかんないんだよね。でもま、そういう話題の時はだいたいあたしのことだから」
言葉から見栄や虚勢は感じられない。彼女にとってそれが当たり前なのだろう。
唖然とする宗介にむかって、アイナは無邪気な表情で尋ねる。
「どう? あたしも一緒に描いていい?」
そっと美里は宗介の様子を窺った。
同年代で絵を描く人間を美術部員くらいしか知らない宗介が、このレベルの才能を目の当たりにするのは初めてだろう。仮に美術の予備校に通っていたとしても出会えるのは稀かもしれない。
ここ最近、宗介は上手くなっている実感を得ていたはずだ。描いた絵を見れば自信を持っているのが伝わってくる。
だがアイナは、そんな宗介の自信を粉々に打ち砕く存在だった。
どんなに努力しても一生勝てないんじゃないかと思わされる、圧倒的才能。自身との力量の差に絶望し心を折られても不思議ではない。
立場上、美里はアイナを拒むことができないが、宗介の反応次第では二人がなるべく顔を合わせないよう配慮すべきだろうか。
小さく肩を震わせていた宗介が顔を上げる。その瞳は挑戦と野心の炎に燃えていた。
「いいぜ、一緒に描こう」
彼は才能から逃げずに、真っ向から抗うことを選んだのだ。
それからは美里と宗介にアイナを加えた三人で、放課後は漫画制作と絵の課題に取り組むことになった。
当初美里は、アイナの圧倒的な才能が宗介のやる気を削いでしまわないかと心配したがどうやら杞憂だったようだ。
競い合うことで宗介の絵がみるみる上達していた。
自身が劣っていることを自覚しているのだろう。アイナの描き方をそばで見て、肌で感じ取ることで成長している。宗介にとって才能の差を突きつけられることよりも、今は自分の絵が上達していく喜びが上回っているようだ。
一方のアイナはというと……、
「センセー、どっちが上手いと思う?」
二枚のデッサンが美里の眼前に突きつけられる。
どちらが上手いかは一目瞭然だった。
「それを私に言わせる気?」
「だってあたしたちの他にセンセーしかいないじゃん」
「ハア……こっちの方が上手いわ」
描いたのが誰か確認するまでもなく、アイナが両手を高く挙げた。
「やったー」
「くそ、次は負けねぇ」
「いいぞ宗介、頑張れー」
「うるせぇ、お前を倒すって言ってんだよ!」
「その意気だよ。ファイトォォ、オー!」
以前に『教室はあまりいたくない』と言っていたが、保健室で宗介と絵を競い合っている時のアイナはよく笑う明るい女子生徒だった。
「アイナさんが楽しそうでよかったわ」
「前の学校の美術部でもこうやって一緒に描いてくれる友達っていなかったからねぇ」
クロッキー帳のページをめくり次の絵を描こうとするアイナに、宗介が首を捻って不思議そうに尋ねる。
「そうなの? なんで?」
「さあ? なんでだろうね」
「まあ女子のグループってめんどくさそうだもんな」
「あぁ、やっぱりあたしが可愛すぎるのがいけないのかぁ」
「そういうとこだと思うぞ」
ケラケラとアイナが笑う。
放課後の保健室は賑やかで、二人の生徒にとって意義のある場所を提供できたことを美里は誇らしく思った。
――ある日の午後。
保健室で美里が漫画の作業を進めていると、
「センセーの漫画ってさ、言っちゃ悪いけど地味だよね」
横から覗き込んできたアイナが忌憚のない感想を述べてきた。
「生徒の教育のために描いてるんだから、これで十分よ。あまり派手にして周りに文句言われても面倒だし」
「あーそういうカンジかぁ」
先日宗介に指摘されてから、美里も自身の描く漫画が少し面白みに欠けている気がしていた。しかしあくまで高校生の身の回りに潜むトラブル防止のために描いているのであって、面白さを追求するものではない。
気にせず美里は作業を続ける。
背景などの書き込みはすでに終わっており、手持ち無沙汰なアイナがベッドの端に座って足をブラブラさせながら質問を投げかけてくる。
「ねぇねぇ、センセーは漫画と絵画の違いってなんだと思う?」
ペンを持つ手を動かしながら美里は答える。
「情報伝達と表現の違い……かしら?」
「あ、なるほど。漫画はストーリーを伝えるための絵か」
「なんでそんなこと聞くの?」
「あたしも手伝いじゃなくて一から漫画描いてみたいじゃん」
「いいんじゃない。まだ若いんだし、やりたいことに挑戦すれば」
「センセーはもう若くないの? ウケる~」
女子高生と二十六歳の養護教諭では全然違うだろう。無遠慮に笑うアイナに、しかし美里は怒らない。学生特有のこの手の無自覚さをいちいち相手にしていてはこの仕事は務まらないからだ。かわりに彼女が学生であることを思い知らせることにする。
手を止めて、美里は顔を上げた。
「ところで、もう五限目の授業が始まってるのだけど」
「えー、いいよ。なんか今日はだるいし」
「今日もでしょ。昼休みになると保健室に来ること多いわよね」
「保健室のベッドって寝心地いいよね」
「あのね、もう使わせてあげないわよ」
真面目に授業を受けて放課後はバイトや美術部の活動と並行して保健室で絵の勉強もしている宗介に対し、アイナは授業中も保健室に入り浸っていることが多い。学校生活の中で気の休まる場所として保健室を利用するのは構わないが、サボるのに利用するのを認めるわけにはいかなかった。
少し厳しい口調で美里が告げると、アイナはバツの悪そうな顔でチロリと可愛らしい舌を出した。
「冗談だよー。昼休みに教室いたってどうせ一人だし。あと今日の五限の英語教師がさぁ、前にみんな授業聞かずに別の教科の受験勉強してたから、あたしもノートに絵を描いてたらあたしだけめっちゃ怒られたの。『みんなが受験に集中してるこの時期に絵を描いて遊ぶなんて、みんなの気が散るだろ』とか言って。その程度で気が散るとかたいして集中してない証拠じゃん。それから何かと目をつけられてるみたいだから、あんまり授業出たくないんだよねー」
三年生の英語教師の後藤が横柄な態度で生徒から嫌われていることは有名だった。美里も過去に一度食事に誘われ断ってからというもの、職員室で度々小言を言われるようになったのでアイナの気持ちが少なからず理解できてしまう。
「……そういう先生もいるわよね。仕方ないから卒業に必要な最低限の出席日数とテストで赤点さえとらなければ、あとは大目に見てあげる」
「ありがとっ。やっぱりセンセーは話がわかるね」
パアッと花が咲いたような笑顔を浮かべるアイナ。教室で見せれば男子高校生の一人や二人は簡単に惚れさせてしまいそうな魅力的な笑みだった。
「ちなみに受験勉強の方は大丈夫?」
「へーきへーき。あたし美大志望だし。あ、宗介も美大目指してるんだって?」
宗介が進路のことをアイナに話していたことに、美里は少なからず驚いた。
しかしよく考えてみれば保健室でやっている絵の課題から薄々察してはいただろうし、同じ進路を志す相手ならば打ち明けていても不思議はないだろう。
一人納得する美里に、アイナが尋ねる。
「宗介って、なんでセンセーに教わってるの?」
「美術部の先生はあまり熱心な方じゃないから」
「そうじゃなくて、なんでたいして上手くもない人に教わってんのかな、って」
歯に衣着せぬ物言いだった。
美里は自分が絵の才能がないことを自覚している。だから絵の道を諦めた。
それなのに、アイナの言葉に美里の胸はわずかな痛みを覚えていた。
「……美術の予備校に行くお金がないそうよ」
「ふーん」
「あなたは? 予備校とか行かないの?」
「んー、あんまり興味ないかなぁ。あたしにとって絵は描きたいときに描くものだし。教えたり教わったりはやりたい人たちで勝手にやってれば、ってカンジ」
先日の展示会でのアイナの絵を美里は思い出す。
美しいという形容では足りないほどの作品だった。誰もがあの絵の前で足を止める。きっと会場を出る頃には他の絵の記憶など無くなっているだろう。
誰に教わったわけでもなく、アイナはあれだけの絵を描けるのだ。たしかに彼女の実力ならば予備校など行かずとも美大に合格できるだろう。
圧倒的才能の前では、凡人たちの努力など無に等しい。
目の前の一人の女子高生が、美里からはとてつもなく遠い存在に思えた。
進路についてこれ以上アイナになにか言うのは憚られ、かわりに美里は別のことを聞いてみる。
「……私の絵は下手?」
「あ、気にしちゃった? ごめんごめん。下手じゃないよ。ただ上手いとも思わないかな」
「正直ね。別に構わないけど」
肩をすくめる美里を、アイナはじいっと見つめて言う。
「あたしね、センセーのことは嫌いじゃないけど、そういう大人ぶってるカンジは好きじゃないなぁ」
「どういう意味?」
「なんていうか、センセーの絵は退屈なの」
にこやかな表情に潜む冷めた瞳で、アイナは美里の描きかけの漫画を指差す。
「その漫画もそう。これで十分、これはこういうもの、自分は若くないから、もう大人だから……センセーってさ、最初から自分に言い訳用意して描いてるでしょ」
「そんなこと――」
「わかるよ。だって絵がそう語ってるもん」
「…………」
黙らされてしまうほど、アイナの瞳は本気で美里を射抜いていた。
こと絵に関して彼女は常人とは比べものにならない感性を持っている。彼女がそう言うならばそれが正しいと思わされる。
反論しようにも才能の前に凡人が何を言っても空虚な気がして美里が黙りこんでいると、アイナはニコリと笑みを浮かべ、
「宗介はね、恥とか失敗とか、そういうの気にしないんだ。持ってる全部を絵にぶつけてる。だから一緒に描いていて楽しい」
新しいおもちゃを与えられた子どものように目を輝かせる。
しかし美里にかける言葉はどこか冷たい響きがあり、
「宗介とセンセーは全然違うよ」
ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚が美里を襲った。
すでに絵を諦めた美里と、夢を追いかける宗介は違う。彼のような熱い情熱も貪欲な勤勉さも美里にはない。そんなことは美里自身わかっている。わかっているはずなのに……。違うと突きつけられたことに、美里は息苦しさを覚えてしまう。
「……そうね」
それだけ口にするのが精一杯だった。
言いたいことだけ言って満足したのかアイナはベッドに寝転がって好きに絵を描き始めた。美里もどうにかペンを持ち、途中だった漫画の作業に戻る。
静かな保健室にペンの走る音だけが響いていた。
× × ×
年が明けた一月。
三学期になり受験も間近に迫っていた頃。
「でね、ここで主人公の銃をバーンと大ゴマで描いたらカッコよくない?」
放課後の保健室で宗介が熱く語っていた。
冬休みの受験対策の息抜きに、漫画の構想を練っていたらしい。構想だけでなく実際にラフまで描いきてさきほどから美里に説明しているのだが、美里からすると面白さがいまいち伝わってこないというのが正直な感想だった。
「うーん、ちょっと子どもっぽくない?」
「だからすげぇカッコイイ銃を描くんだって。ただ何回か描いてみたけど俺の画力じゃなんかショボくて……みっちゃん、かっこいい銃の描き方ってない?」
「ネットで画像検索して、それを参考にするしかないんじゃない?」
「やってみたけど、ネットの写真って重さとか質感とかリアル感が物足りないんだよね」
「そういうのは想像で補うの。想像力も絵を描く上で重要な技術の一つよ」
「やっぱそうかぁ。俺の技術が足りないのかぁ。俺にアイナくらいの技術があればなぁ」
「あれはちょっと別次元だからね」
「でもさ、漫画は俺のほうが上手くない? みっちゃんの漫画手伝っていてもさ、あいつの担当してる箇所は絵が綺麗だけどおとなしいっていうか漫画らしい魅せ方がわかってないというか」
たしかに美里の漫画を手伝ってもらった所感だけでいえば、漫画らしい表現というのはアイナよりも宗介に一日の長があるように思う。しかし先日のやりとりでアイナが『地味で退屈』と称した美里の漫画で本来の実力を出しているかは疑わしかった。彼女のような天才肌の描き手はモチベーションによって作品の出来が左右されることが多々あるためだ。
ただこれはあくまで美里の憶測でしかない。そもそも美里は絵に関して優劣を語るのがあまり好きではないため、この手の明言は避けておいた。
「宗助に任せると必要以上に大袈裟に描いたりするから修正が大変よ」
「いいじゃん。ちょっと大袈裟なくらいが面白いって」
「はいはい。そろそろ受験対策の絵の方に集中しましょ」
面白い漫画についても話が長くなりそうなので切りあげる。今一番に考えなければいけないのは来月に控えた宗介の美大受験だ。
「うっし、アイナが戻ってくる前にすげぇの描いて今日こそ驚かせてやろう」
「そういえばあの子、コンビニ行ってくるって出たきり帰ってこないわね」
さきほどまで美里たちと一緒に受験までのスケジュールを確認していたのだが、アイナは不意に思い出したように保健室を出て行ってしまった。すでに放課後なので校外へ出ることに問題はないが、近くのコンビニに行ったにしては帰りが遅い。
事件や事故の可能性が美里の頭をよぎりかけた時、ガラッと保健室のドアが開き、ビニール袋を掲げたアイナが入ってきた。
「疲れたぁ」
戻ってくるなりアイナはぐったりとベッドに突っ伏す。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「欲しい雑誌が見つからなくてさぁ。コンビニを二件回った後に本屋行ったら置いてた。最初からそっち行けばよかったぁ」
「最近はどこの雑誌も出版部数は減少傾向らしいわね。それで、何探してたの?」
「これこれ~」
ビニール袋からアイナが出したのは漫画雑誌だった。表紙にはアニメ化もされた作品のキャラクターがカラーで描かれている。
デッサンの準備をしていた宗介が「あっ」と声を上げた。
「俺の好きな漫画載ってるやつ。あとで貸してくれ。週刊誌は毎週買うのお金が厳しくてさ」
「いいよ~」
「それってわりと少年向けよね。アイナも好きな作品あるの?」
「ううん、別に。ただ読み切りであたしの描いた漫画が載ってるから買ってみた」
「……は?」
一瞬、美里は自分の耳を疑った。
雑誌を手にした宗介が素早くページを捲る。そっと美里も横から覗き込むと、該当の読み切り作品が載っているページの右下に『凛堂アイナ』の文字があった。
顔を上げた宗介が掠れた声を漏らす。
「なんで……?」
「ん? 面白そうだから自分でも漫画描いてみて、投稿したらなんか雑誌に載せたいって編集部から連絡きた。それだけだよ」
平然とアイナは話す。
ただそれだけ。なんてことないように。
自分の描いた漫画が雑誌に掲載される。望んで容易く叶うことではない。むしろ叶わない人間が圧倒的に多数だ。だが彼女はおそらく初めて描いた漫画でそれを成し遂げていた。
そしてそれは彼女にとって特別なことではなく日常の些細な出来事の一つにしか過ぎないと、その表情が物語っていた。
唖然と美里が固まる中、宗介は食い入るように漫画を読んでいた。ページを捲る手がわずかに震えている。
やがて作品を読み終えた宗介はそっと雑誌を閉じた。
美里の目から見て明らかに顔色が悪い。
「宗介、大丈夫?」
「ちょっとトイレ行ってくる」
立ち上がり、宗介はふらつく足取りで保健室を出て行った。
追いかけるべきか美里は迷う。ふとアイナを見ると、彼女は美里の視線も宗介の様子も気にならないのか雑誌を開いて自分の作品を読み始めていた。
彼女には凡人など最初から視界に入っていないのかもしれない。美里は何も言わずに保健室を後にした。
廊下に出た美里は歩きながら宗介の行きそうな場所を考える。人目は避けたいはずだから部活動をやっている体育館や文科系の部室がある校舎にはいないだろう。教室もまだ生徒が残っている可能性はある。男子トイレだったら美里にはお手上げだが、他に考えられるのは……。
白衣の裾をなびかせながら美里は歩く速度を上げた。
階段を上ったところにある屋上へと続く踊り場。施錠されたドアに寄りかかるように宗介は立っていた。
美里に気づいた宗介がごしごしと腕を押しつけてから顔を上げる。目元に赤い跡が残っていた。
「なんで追いかけて来るのさ」
「えっと……トイレこっちじゃないから、教えてあげなきゃと思って」
「そっか……」
追い返されたりはしなかった。
ただ宗介は力ない笑みを浮かべて言う。
「俺さ……心のどこかで安心してたんだ。絵では勝てなくても、漫画なら俺の方が断然上だって……全然違ったよ。あいつ、みんなで漫画描くときは合わせてたんだね。みっちゃん、気づいてたでしょ」
「……あれだけ描ける子だからね。宗介がおとなしいって言ってたのはたぶん私の作風に寄せてた部分。本人も退屈だって言ってたから、筆がのらなかったのかも。本来のあの子が描く漫画は……まあ持ってる才能が違うわね」
「才能か……」
ぼそりと呟いた宗介の顔がみるみる歪む。慌てて宗介は美里に背を向け、こみ上げてくるものを堪えるように目元を腕で押さえつけて震える声を発する。
「……大丈夫だから。ちょっとすれば落ち着くから」
「本当に?」
「みっちゃんと一緒に美術の展示観に行ったときと同じようなもんだよ」
「あの時とは違うでしょ?」
「なにが?」
「絶望のリアルさが」
「…………」
見たこともないどこかの誰かと、よく知る身近な人間相手では絶望の解像度がまるで違う。
それに自分がたった一つ上回っていると思っていた分野でさえも、完膚なきまでに才能の差を見せつけられたのだ。
押し黙る宗介に、美里は一つ提案する。
「どうする? 美大の受験が終わるまでアイナと一緒に保健室で描くのやめる? あなたが美術室で描いたものをメールで見せてくれてもアドバイスはできるわよ」
「……なんで?」
「あの子、前の学校で美術部だったけど友達いなかった、って言ってたでしょ。今の宗介ならなんでかわかるんじゃない?」
壁を向いたまま宗介が答えた。
「……才能のそばで描くのは苦しいから」
「ほんと、嫌になるわよね。みんなが死ぬ気で努力して一歩一歩踏みしめていく道を、あの子だけは鼻歌交じりに駆けていくんだから」
圧倒的な才能は無遠慮に無関心に無秩序に、努力を踏みにじっていく。
宗介が挑もうとしている世界は、頑張れば頑張った分だけ認められる世界じゃない。ただ実力のあるものだけがスポットライトに照らされ、実力のないものは影に隠れて誰に気づかれることもない残酷な世界。
厳しい現実を語る美里に「でも」と宗介が振り返った。
「俺は逃げないよ。諦めて逃げたら、この苦しみがずっと続くと思うから」
「……そう。逃げないのは立派なことよ。けどたまには逃げたっていいんじゃない? あなたが意地張り続けてボロボロになる姿は見たくないわ。多少逃げたところで戻ってこれるわよ。創作において大事な強い意志があなたにはあるもの。ただその世界で上を目指すにはやっぱり才能が必要なの。才能の無い人間はたぶんアイナには勝てない」
「立ち止まってたらね」
ほとんど遮るように宗介は言う。
努力だけではどうにもならないことがあるとわかってなお、彼は顔を上げて前を向いた。
「俺が歩くのは苦しくて険しい道かもしれない。それでも天才たちが脱帽するくらい歩き続ける、描き続けてやるよ」
屋上へ続くドアの窓から夕日が差し込み、彼の横顔を照らしていた。
かつての自分も、こんな風に自信を持って言えたら……。
不器用で幼い彼の姿が、美里にはとても美しく見える。
たぶん宗介を追いかけたのは慰めるためでなく、きっと立ち上がるであろうこの姿を見たかったからだろうと美里はおぼろげに思った。
「だからみっちゃんは俺に手を貸してくれ。今は歩き続ける足腰を鍛えるための基礎が必要なんだ。高校生の時に身近に絵が上手い人間が二人もいた。俺はラッキーだった、っていつか言えるようにするから……ほら、行こう。時間がもったいない」
ぽかんと美里は固まった。
本物の才能を知ってなお、美里の絵を同様に褒めてくれるとは思わなかったから。
頬が熱を帯びていくのが自分でもわかり、平静な表情を保ちながら美里はどうにか呆れた声を出す。
「……あなたのせいでしょ」
「あ、そうだった」
くしゃっと幼い笑みを浮かべて宗介は階段を駆け下りていく。
やはりアイナの言うとおり、同じ才能が無い側の人間でも宗介と美里ではまるで違った。
宗介は才能と戦う覚悟を持っていた。
才能を前にして、すぐに諦めてしまった自分とは違う。
それでいいと美里は思った。
そのおかげで宗介と出会うことができた。
こうして彼の力になることができるのだから……。
「……このまま真っ直ぐ、変わらないあなたでいてね」
階段を駆け下りていた宗介が踊り場で立ち止まり、振り返る。
「ん、何か言った?」
「何も。あまり泣かないで、って言ったのよ」
「どうだろ。たった一度でも心の底から笑えるのなら、何度泣いたっていいじゃん」
今だけはこの世界の誰も知らない眩しい彼を、自分だけが知っているのだから。
そしてこの冬、宗介は美大の受験に落ちた。
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