自分らしく生きる

やってしまった。
朝自分が外出した際に、家の鍵を持たずに出てきてしまった。
嫁西も別件で出かけてしまっているため、インキー状態。嫁西が返ってくるまで僕は家に帰ることができない。

仕方がないので、行徳の漫画喫茶にきて、この文章を書き始めている。
当然ながら萎えているわけだが、こういうテンションでないと書けない文章というのも存在するだろう。

こういうテンションでする話なのか?とツッコまれそうでもあるが、
「自分らしさ」について語ってみようと思う。
もう冒頭から何ら何までだいぶおかしな話であることは承知している。

だが言おう。
ぼくは34歳になって、「自分らしく生きる」ことの大切さを知った。
・・・青臭い話に感じるだろう。無理もない。
だけど、本当に大事なことだと思った。この年になって。
だから、一応、自分の中ではタイムリーな話ではある。




ぼくは、高校生とか大学生とか、モラトリアムの時代とされる時期でも、
「自分らしく生きる」とはどういうことなのか、ろくに考えてこなかった。

理由はシンプルで、「常に自分らしく生きていた」
少しひねっていえば、素の性格がすでに他人の目を気にしない性格である、ということでもある。

こうなった特殊な背景に思い当たる節はないが、強いて言えば、実家の環境がそうだったかもしれない。
代々、大西家の人間は、人の話を聞かないのだ。どいつもこいつも自分のことだけ考えている家に育った。
ばあちゃんは呆れるくらい常にしゃべっているタイプ。90歳を超えてなお口だけは元気でマシンガントークが止まらないため、ぼくはいつも話の途中で飽きて寝る。
(結婚してからは、聞き上手の嫁西に聞き役を押し付け、俺は寝る。)
親父も非常に世間渡りの上手なサラリーマンだが、話の内容よしなにより、基本的に人を笑わせとけば何とかなると思っている節がある。この要素は完全にぼくに遺伝している。

たぶん、無意識のうちに、人の話を聞かない→人の話を聞かなくていい→自分のことを考えていればいい→自分で意思決定ができる→自分らしく生きられる、という筋道になったのだろう。
「自分らしくいない」状態にあったことがなかったので、「自分らしくいられない」経験をしたことがなかった。

もはやうちの実家がなぜこうなったのかを知る由はないのだが、
それはそうと、この考え方は、日本の民俗感からすると完全に浮く考え方である。
学校でもいつも浮いていたし、よく笑われもしたけれど、なんか、そういうモンなんだろうなあと思っていた。
親も僕が浮いていることなんて余裕で知っていたけど、そんなもんだろと笑っていた。



今ならわかる。
大体こういうやつは、社会に出てつまづくのだ。

ところが、この大西というやつは、そのトラップを中途半端に潜り抜けてきてしまった。

最初の会社はなかなかハードな環境で、4か月でやめた。そんな自分らしさがどうこうとか言っていられる余裕はなかった。
そのあと新潟で山籠もりをしていたが、「ほかの人と違うオレカッケー」みたいになってしまっていたので、ノーダメージだった。
地元の千葉に戻って、就職活動をした際、外資の会社に入ったがため、ポイントを押さえて結果出してさえいれば、性格が変な奴でも何も言われなかった。

初めてのつまづきは、33歳の年、実質初めてのJTC勤務だった。
ま、この辺のつまづき具合は、他の記事とか、ぼくのツイッターとか、いろんなところで語っているので、今回は割愛するけれど。
肝になる話はこうだ。
ぼくの仕草を大した理由なく否定する人が上司になった。合理的な説明を求めても大した理由が出てこなかった。
それでもアジャストしようとしたら、一挙手一投足すべてに気を使わなくてはいけなくなり、メンタルのすり減りが尋常ではなくなった。

1年間。
1年間だ。
転職した社員の在籍期間としては大したことないだろう。でも、自分を否定され続ける期間としては、十分すぎる期間。
物事の判断基準が自分より他人へ移る。こうして、僕は「自分らしさ」を失った。



「自分らしさ」を失った僕は、適応障害を発症する。
当初は、発作の対応でいっぱいいっぱいで、そもそも自分らしさを失ったことに気が付いていなかった。

気が付いたのは、休職して数か月たってからだ。

投薬のみでの治療に限界を感じた僕は、コーチングの門を叩いた。
そこで、「自分らしくいる」ことの重要性を説かれる。
成功したら「自分らしい」失敗したら「自分らしくない」。
はじめは正直、何言ってんだコイツらとしか思わなかった。

だけど、いい金払っているので、多少内省してみることにした。
そもそも、なぜ、これらの言葉に反発を感じるのだ?

割とあっさり答えが見つかった。

自分は、自分らしくいることを、許せていなかった。
人間が本来持っているべき尊厳の一部を、会社に渡してしまっていた。
自分が思ったより重症であったことを、そこで初めて理解した。

担当コーチと、時間をかけて話し合った。
結果、ここからのリハビリは、単純かつ難しい内容となった。
『とにかく、楽しいと感じることをする』

理屈より、心が動くことを優先する。
抑圧された自分を、解き放つ訓練をする。
時間と金と気力が許す限り、楽しいと思えることをし続ける。
楽しいと思えないことをしている時間を減らす、と言ってもいいかもしれない。

本来であれば、甘えた話と捉えられても仕方がないだろう。
休職で暇ブッコいているなら、勉強の一つでもしろという話だ。
だが、なんせ理にかなっている。
抑圧された感情を放つには、感情を抑圧しない訓練が必要なのである。



今も、まだ道の途中だ。
だけど、これを初めて3か月くらい。

自分らしさ・・・言い換えれば、
「自分で自分の人生を意思決定できる自信」こんな感じか。
キャリコン的に言えば自己効力感。

おれは、この数か月間で、ほとんどの時間で楽しいことしかしていない。
その結果、時間はだいぶかかったのだが、ここ二週間くらいで急に自分らしさが戻ってきて、急に社会が明るくなってきた。
自分に自信がついてきた。

湧いて出てきたというよりかは、
元々あったものが、戻ってきた。
手放してしまったものが、帰ってきた。

そして、もう二度と手放すまいと、手綱を握りしめている。


つい先日、某所で、
「自分のやりたいことやった方がいいよ」という話を、少し自分より若い世代の人たちに向けてした。

やりたいことを過剰に手放すということは、
自分のアイデンティティを手放すということである。

すぐにその効果は出なくとも、
必ず自分の精神をおかしくさせていく。

これは自己実現というより、自衛の話だ。

みんな、やりたいことやった方がいいぜ。
マジで。


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