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おイモ
2020年12月9日 23:04
霞の向こうに 君を救ったのは自分を救いたかったから。 生きるのがとても苦しくて、生きているものを見たかった。 小さな呼吸が生命を吹き込んでくれた。君が笑うと自分も笑っているみたいで嬉しい。 生きている意味を与えてくれて本当にありがとう。『多摩川に変死体、浮かぶ』 八月四日、多摩川の河川敷に厚労省職員とみられる男の水死体が発見された。四日明け方、スーツ姿の男が浮かんでいると調布市の郵
2020年12月9日 23:06
2 クレームは俗世では「お客様の声」という名で呼ばれとても貴重な助言とされているが、実際は頭のおかしい一般モンスターの喚きであり、支離滅裂で利己的、他者を顧みない意見ばかりだ。余程の不手際があったなら別だが、店員は人間で千差万別だし、客も同様だ。五月蝿く騒ぎ立てる奴は一部で、あとはみなスーパーマーケットなんてどうでもいいと思っている。指摘なんかしたところで自分の思い通りにはならないし、理想のス
2020年12月9日 23:08
3 馬込のアパートには野良猫が多く住み着いていた。隣の山王の金持ちと違って退屈な馬込のじいさんとばあさんらは猫に餌付けしている。生存社会が壊れた猫たちは狂ったように子を産み続け今朝も発情期の不機嫌そうな奇声を上げていた。 今週に入って一気に暑くなった。イグサは汗を拭いながらホームで電車を待っている。 会社はブラックそのものだったが幸いなことに通勤時間はその辺の会社より遅い九時半で通勤ラッシ
2020年12月9日 23:09
4 カトウが資料を紛失したらしい店舗は西東京市の南端にあった。都心から離れた静かな町の比較的大きな規模の店だ。 区内には小型店舗を、中心から外へ向かうにしたがって大型店舗にシフトしていく。小型店舗はコンビニとそう変わらない坪面積に、スーパーマーケットらしいラインナップを詰め込むのに対し、大型店舗はスーパー以外にもアパレル、インテリア、雑貨専門店、飲食、コスメ、シネマなど様々なテナントを備え、
2020年12月9日 23:10
5「それで、今日は一段とひどい顔をしているな。喧嘩か?」 リンという男はこの日もラフロイグのオンザロックを飲んでいた。華奢な細長い指で琥珀に浸かる丸い氷をくるくる回している。「知らない上司に殺されかけたんだ」 リンはイグサを見て、そうか。と言った。同情のかけらもない声色で、やはりイグサの面倒ごとには興味がなさそうだった。 イグサは中央線に乗ったあと、異様な半日に疲れ果てて会社へ戻らず大
2020年12月9日 23:12
6「ターゲットは『カタギリキリ』という女だ。所在、年齢、職業不明。さっきも言った通り、役所に尋ねても無駄だった」 リンは青緑に透き通るラフロイグを口に含んだ。「手がかりは今のところこの写真だけだ」カウンターに置かれた写真をひっくり返す。 写真は交差点を建物のおよそ三階くらい上から撮ったものだった。横断歩道を渡る通行人が写っていて、そのうちの一人を写真の上から赤いマーカーで囲んであった。黒
2020年12月9日 23:14
7 翌朝、イグサはまず会社に有休を申し出た。部長はいきなりは困るとがなり立てたが、「西東京の件でとても疲れた。こんな無茶振りが続くなら退職も考えている」と声を震わせ、一週間ほど休ませてほしいと一方的に切り、社用携帯の電源を落とした。 そして次に、昨晩寝る前にインターネットで調べた制服買取業者に電話をかけた。卒業後不要になった女子学生服を高値で買い取りマニアに売り捌く連中だ。写真のセーラー服に
2020年12月9日 23:15
8 駅前のミスタードーナツのカウンターに座って五時間が経過していた。文庫本を開いて時々視線を外の交差点に向ける。イグサはただ駅前の群衆を見張る作業を何時間も続けていた。 八幡第一高校の最寄り駅前の交差点には、ミスタードーナツとドトールがあって張り込むのにちょうどよかった。夕方頃になると駅前にセーラー服の女子高生が増え、店の中から、顔の造形や髪の長さ、色、質感。スカートの丈(写真は冬服だが夏の
2020年12月9日 23:17
9「お前……なぜ携帯を処分していない」 電話に出ようか迷った挙句、イグサはドトールを出て応答した。 西東京で聞いたCの低く若い声。だが前よりドスが利いているような気がする。「破壊しろと言ったはずだ」「い、忙しかったんだ」 イグサは額に浮かぶ脂汗を拭う。「お前、何を考えている」「何も考えてなんていない……本当だ!」 慌てふためきながらイグサは答えた。電話の向こうでCが大きく息を吐
2020年12月9日 23:18
10 深く眠りに落ちたと思った、次の瞬間、イグサは知らない居間に立っていた。じんわりと頭がぼやけていたが、冬の朝を思わせる寒さに全身が冷やされて次第に脳が覚醒した。 これは夢か。彼方が、Cを覗くと言っていたのを思い出した。 仄暗い家だ。カーテンが開いているにもかかわらず暗い。夜の暗さではなく、部屋に陽が当たっていない。陽を遮るビルでも隣に建っているのだろうか。電気も点いていないし、今この家
2020年12月9日 23:24
11「イチは麻取、麻薬捜査官で、薬物を斡旋する卸売り組織を取り締まるため、街の裏で密売者を探している。危ない世界へ飛び込む人間だからか、なかなか異常な人だ。この部屋を見てわかるだろう。何も無いんだ」 Cはテーブルに乗せた手を開いたり閉じたりしながら喋る。イグサのコーヒーはすっかり冷めてしまった。大麻のものらしい甘ったるい香りが鼻につく。「組織は決して簡単ではない。薬物を発見し、中毒者を逮捕
2020年12月9日 23:26
12「なぜこいつに私の過去をみせた」「あなたがそれを望んだから」「私はそんなこと望んでいない」「それにしてはしっかりお話していたみたいだけれど」「それは……」 意識が覚醒してきて周りの音が耳に入り始めた。Cと彼方の声がする。「こいつは一般人だぞ。知るべきじゃない人間だ」「それは彼が決めること」「お前は一体なんなんだ……」 イグサは瞼を開き、息を大きく吸い込んだ。「いいんだ。
2020年12月9日 23:27
13 イグサはコンビニで雑誌を読むフリをしながら向かいのビルを見ていた。 ビルは古い五階建てで二階のテナントには美容院が入っていた。三階より上は看板などがなく不明だ。こんな住宅街の寂れたビルの地下にライブハウスがあっても誰も気づかないだろう。廃業したのも納得できる。 腕時計を見るとCが突入してから十五分が経っていた。イグサは焦燥と不安でいっぱいだった。Cは十五分で戻ってくると言ったのに。
2020年12月9日 23:28
14 夏の日はすでに没していた。通りは仕事帰りのサラリーマンで溢れている。幅広の男たちを跳ね除けるように二人は走り続けた。 仙台方向を進み、分かれ道を適当に曲がる。Cは行き先を告げず北へ走り、それをイグサは彼方を抱きかかえながら追いかけた。「あの二人はなんだったんだ?」「たぶん麻取だと思う。」Cは息を切らしていた。「イチと同じバッジをつけていた。あれは麻薬取締官の紋章のはずだ。私が運ぶの