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霞の向こうに 8

 駅前のミスタードーナツのカウンターに座って五時間が経過していた。文庫本を開いて時々視線を外の交差点に向ける。イグサはただ駅前の群衆を見張る作業を何時間も続けていた。
 八幡第一高校の最寄り駅前の交差点には、ミスタードーナツとドトールがあって張り込むのにちょうどよかった。夕方頃になると駅前にセーラー服の女子高生が増え、店の中から、顔の造形や髪の長さ、色、質感。スカートの丈(写真は冬服だが夏の時分でも丈の長さは変わらないかもしれない)、リュックなど様々な点に注力して見ていたが、カタギリキリらしき人物は見つからない。何時間も張り込みながら、だんだん気持ちが沈んできた。
 写真が撮られたのは冬。いつの冬かも知らない。昨冬かもしれないし、何年も前の冬かもしれない。写真のカタギリキリはすでに高校を卒業していて、この街にいない可能性もある。それに髪型が写真当時のままとは限らない。写真の中の手がかりが手がかりでなくなっていく気がしてきた。
 リンに連絡をしようか……。写真だけなんて無理だ。僕にはできない。
 イグサは五個目のオールド・ファッションを齧ってコーヒーを啜った。腕時計を見ると時刻は午後九時を過ぎようとしていた。もう遅いし帰ろうかな。文庫本を閉じてバッグにしまった。
 一日中座って、ただ外を見ていただけなのに疲れた。尻も痛い。眼も多少しょぼついている。けれど、まだ余力はある。何年も朝から終電まで働き続けていたからだろうか。フィジカルは衰えているが、忍耐力はここ数年で鍛えられたのかもしれない。
 店を出て交差点を渡っているとき、八幡第一の女子高生のグループに目がついた。こんな時間まで制服で遊んでいるのか。不良かと思いながら見ていると、その一人の髪の長さが写真のカタギリキリと重なった。イグサは慌てて女子高生グループに駆け寄って「カタギリキリを知っているか?」と声をかけた。娘たちは一斉に振り向いていきなりやってきた男を、だれ?と訝しんだ。よく見ると写真の少女と目の前の女子高生は全然違っていて、イグサは肩を落とした。夜目でわからなかったが茶髪だし、太っていて顔の形も違う。それにスカートの丈は極端に短かった。写真のカタギリキリはおそらくこんなにスカートを短くしたりなんてしない。イグサは恥ずかしくなって早く去りたかった。そんな簡単に見つかるわけないよな。
「なに?学校のコ?」一人が食いついた。
 背に腹は変えられん。イグサは首を振る。「カタギリキリって子探しているんだけど、知らない?」
 娘たちはそれぞれ顔を見やっていたが誰もカタギリキリという名に覚えが無いらしく、へらへらと「なにそんな変な名前。リフレの子とかじゃないの?」と手を叩きながら笑っていた。
 信号が点滅し始めたのでイグサはそそくさと引き上げた。女子高生らに幾らか金を渡して口止めしようと思ったが、ますます怪しい男になりそうなのでやめた。しばらくこの辺りには近づかなければ大丈夫だろう。
 この街にはカタギリキリはいない。たった一日の張り込みで断定するのは野暮かもしれないが、明日は他を当たろう。
 結局、会社帰りと同じ時刻に大森駅に帰ってきた。深夜になっても外は蒸し暑く、一日の大半をクーラーの効いた喫茶店で過ごしたせいで、室内と屋外の寒暖差に身体が弱っていた。バーには寄らずコンビニで弁当を買って、家へ帰る。クローゼットからアノラックを引っ張り出して、明日忘れないように、もうショルダーバッグに詰めてしまった。

 翌日も一日、南東京高校の最寄りの駅周辺で粘ったが、収穫はなかった。街を行き交うセーラー服の少女たちを見、写真を確認するたび、カタギリキリではなく、イグサは憂慮していた。
 もともと無謀な策だったが、カタギリキリがひょっこり現れるんじゃないかとどこかで期待をしていたのだ。脳内で黒いセーラー服のカタギリキリと成金趣味なスーツのリンが交互に過ぎり、次第にイグサは焦燥していった。
 三日目は雨が降っていた。黒いアノラックを羽織って街を歩きながら、今日も見つからないと、はなから諦めていた。西三桜高校から近いドトール、スターバックスでコーヒーを啜りながら見張り、吉野家で外を見ながら牛丼を掻き込んだ。
 三日も同じことを続けていて、だんだんしんどくなってきた。腰は痛いしコーヒーの飲み過ぎで胃は荒れていた。何よりも退屈だった。昨日も一昨日も、彼方はときより話しかけてきたが、あまりやりとりをしてしまうと店員や周りの客に怪しまれるため、なるべく会話をしなかった。そのうち彼方も退屈になって、隣で眠ることが多くなった。
 とりあえずこの三日間やってみてダメならリンに泣きつこう。初日からそう決めていた。リンになんと謝ろうか……。貰った金に手をつけておきながら、やっぱりできません、では許されないかな。いやでも十分働いたはずだ。何もしていないわけじゃない。ちゃんとやる気もあったし、昨日は帰宅してすぐ布団に倒れてしまうほど疲れているし、とても頑張ったんだ。
 ため息を吐きながらショルダーバッグに手を入れて携帯電話を掴み、そのまま電源を入れた。取り出した携帯電話を見てハッとした。赤かった。手探りで闇雲にカバンの中の手についた、西東京の店舗主任が持っていた携帯電話の電源を入れてしまった。自分のと同じ機種だから気がつかなかったのだ。
 イグサは、休日には携帯電話の電源を切っている。職場からの連絡を無視するためだ。社用携帯をオフにしていても上司から出勤要請が来ることが稀にあって、それを防ぐためだった。
 さっさとこの携帯は捨てるべきだった。すっかり忘れていた。
 点灯するディスプレイを見て、嫌な予感が走る。冷や汗がじんわり脇の下に滲む。ソフトウェアが立ち上がったのを確認して、電源を再度オフにしようとしたそのとき、携帯が震えた。
 画面に大きく「C」の文字が表示された。

仕事がありません。お金がないと死んでしまいます