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家と母まるごと国で引き取って。ゴミ屋敷を構える毒親を討伐するまで


「父が死んだ。」

「車の助手席。人気のない山の奥、行き止まりまで連れて行かれた。身体を傷ものにされて、もうこの人としか結婚できないと思った。」

これが家族の始まりだと訴える私の母は、
1日のほとんどを2階建てゴミ屋敷の居間に座るか横たわって過ごす、もう5年風呂に入ってないセルフネグレクト、借金まみれの毒親である。

そんな母を私は「ラスボス」だと考えることにした。今はシリーズ何作目のストーリーに挑んでいるだろう。ゼルダかマリオかドラクエか。全クリできるのは母が死んだ日か。この国の制度を考えるとそれも無理なのか。
ゴミ屋敷の家と母、まるごと引き取って欲しいという壮大な願いをタイトルに託してしまった。

父が死んだ。

瞼を通して刺してくる陽の光に気づき、手探りでスマホを探した。充電コードに繋がれた先のスマートフォンを握りしめる。開いた画面上、緑のアプリマークに、左下の赤いバッチの稀な点灯に気づく。「母」という文字を見ただけでぼんやりとしていた視界が開き、代わりに私の世界が狭くなる。新しいメッセージの知らせに気分がよどむ。

数年ぶりに、ラスボスからの戦の招待状が届いてしまった。オープニングに選ばれたのは、天気の良い日曜の朝だった。天気が良いのに気分が悪い。昨夜までは、試験合格のお知らせが届いて喜び、好きな小説家の書籍発売イベントで笑い、最高潮だったはずなのに。

「昨日の朝からお父さんの姿が見えない。今日は仕事もお休み。」

私に連絡してくることがそもそも間違いなのだけれど、こちらにはなんの連絡もない。

「2階にはいないの?電話はしてみた?何かあったら警察に電話してね。」と返信する。

数時間が経ち、母から電話が鳴る。最初にメールがあったのは8時ちょうど。もうすぐ14時で6時間が経つ頃だった。

泣き叫ぶ母の破れるような声。

「死んでいる!身体がもう硬くなっている!飼い犬が死んだ時とまるで同じだ。お願いだ、帰ってきてくれ。」と。

函館なまりのぐちゃぐちゃなイントネーションと言葉を並べ立て、とある国のドラマを思わせるような感情の昂りと芝居がかったパニック状態に、不謹慎ながら一瞬引いて冷めてしまう。なにせ私は絶縁していて、死の知らせも来るか来ないか、もう関わらないで欲しいと思っていた身。「父の死」に対する悲しみのようなものはあまりなく、正直なところ、ついにきたかという気持ちだった。母と繋がりが生まれてしまう恐怖が募り泣いてはしまったが。

私からの返信がなければ、もしかすると「死体遺棄」という罪を犯していた可能性もある。正常な判断ができない母に、このあとの対応は恐らく不可能だ。法にしたがい、後片付けだけ対応するかと、倫理観が勝り、咄嗟に行くと答えていた。この時の自分を、今激しく悔いている。

私は結婚を機に両親と絶縁状態にある。完全とはいえないが、およそ8年前、30歳で母に会ったのを最後に実家にも地元にも足を踏み入れていない。踏み入れていなかった。

その前会ったのは20歳、社会人なりたてのころ。
やっと私の人生を生きられると思っていたのに、その願いは叶わなかった。

公務員試験に落ち、やりたいことも見つからず、未来に希望が見出せなかったあの頃。家を出たいという野望だけが燻って、鏡にうつる自分の顔は醜くなる一方だった。

幸い、猶予期間1年の就活支援制度なる「行政実務研修生」として、札幌での採用が決まり、自分の所属にブランクが生じることなく、晴れて社会人の扉を開けることとなった。今で言うインターンシップ、よりは仮設住宅といったような雇用契約で、1年間だけ公務員の卵として役職に就く猶予が与えられ、北海道内で最も盛んな札幌の地での新生活を手に入れることができた。

私が進路を考える上で最も大事だったのは「親」から離れること。家にお金はない。奨学金もいわば借金。親も、自身の返済能力をも信じることができなかった私は、いち早く社会人になるべく、大学生になる道ははなからあきらめていた。

私の行政実務研修生としての生活が決まると、母は銀行でローンを組み、テレビや冷蔵庫、電子レンジなどの生活における3種の神器以上の物品を購入し、1LDKトイレ風呂別のアパートを契約。母の機嫌を損ねることを恐れた私はこれに抵抗する気力もなく、私がひとり暮らしをするはずだった家に母が住み着いてしまった。いや正しくは、母の家ができあがってしまった。父は一人実家に残った。「母はああいう人だから。」と全てを諦める父を見て、不憫だなあと思ったりした。

外から見れば「過保護」「箱入り」「何もできないクズ」と名のつく娘であったことを否定はしない。それに気がついた今でも根っこに変わらずその名のとおりの自分がいて嫌気がさす。ただただ無気力。あの頃の自分を思い出すと、洗脳されていたという自己評価にたどり着く。テレビのお笑いを観て笑うことだけが人生の光だった気がする。

育った環境は少なからず影響していて「自分」が嫌になることも多い。かつ変われないことに嫌悪して苛立ち、日々戦いだ。

幸い、研修生の契約あと残すところ2ヶ月、という状況で次の仕事が決まった。同じ札幌の地で、雑誌の編集部での勤務。契約社員ではあったけれど、未来への光が少し感じられる仕事だった。

絶縁のきっかけは「結婚」。
いや「彼氏」だった。

働き始めてほんの少し収入が潤った私は、札幌に両親を招いて、父、母、私3人での食事会をセッティングした。男女関係に口うるさく、見事に洗脳されていた私は、彼氏ができたことを、きちんとありのまま紹介するほか考えが浮かばなかった。

されるがままの人生とはいえ、少なからず育ててもらった恩はある。

自分の給料で、3人ひとつのテーブルで和やかにご飯を食べたかった。報告兼ねて美味しいご飯を笑って食べたい。

しかしこれも叶わなかった。

ビルの3階、旅館を思わせるような「風光明媚」を取り入れた趣ある和食屋を選んだ。きっと両親が一度も体験したことのない、気分が高揚するような飲食店を。入り口のドアまでの、赤い紅葉や生垣などの植栽、均等に敷かれた石。

庭園のような場所を家族3人並んで歩くも、想像していたのとまるで違う居心地の悪さだった。

喜んでもらえると思ったのが間違いだったんだよな。

つづく

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