はちすまや

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エルマンノ・オルミ監督『就職』(1961)<追記>

わたしは、ずっと、「映画なんて好きじゃない」と言ってきた。 「映画が好き」という人の多くが、映画の技巧的な部分や表面的な美のような(フォトジェニックな)ものを称揚する傾向にあるから、それに反発していたのだと思う。 世界の広さを、小さい画面のフレームに収めること、その絶望的な限界に対して、なんの戸惑いもない姿勢に対してというか。 以前、あるカメラマンの画作りを近くで見て、愕然としたことがある。 「そこで何を見つめるのか(中心・本質が何か?)」ではなく、「構図のキレイさ」で

    • 新文芸坐シネマテークvol.45 エルマンノ・オルミ監督『就職』(1961)

      この映画には、奇跡のようにキラキラした瞬間がいくつも捉えられている。 一般的な映画のように「決め決めのカット」でもない(でも、そういう要素もある)。 かと言って、ヌーヴェルヴァーグなどのように、手持ちでドキュメント的というわけでもない(でも、そういう要素もある)。 その「あわい」にあるような。 意図なのか、ミスに近いのか、ピントが甘いところもたくさんある。 でも、なにか、それらすべてがグルーヴを作っている。 そうだ、「カメラと世界」「カメラと俳優たち」が釣り合っているん

      • 櫻間金記さんシテの『伯母捨《古式》』を観た

        今まで観た能で一番衝撃を受けたのが櫻間金記さんが演じた『俊寛』でした。 その櫻間さんが三老女をやるというので、「これは、もう、絶対に観に行かないと」と。 (田舎に引っ越してから、なかなか行く機会も減っているのですが、、、。) 『俊寛』の時と同じくらい感銘を受けた。 『俊寛』は物語としてとっつきやすいので、そう考えると、本質的にはこちらの方が凄かったように思う。 舞台がはじまる。まず、竹市学さんの笛から。舞台を通じて、竹市さんの笛が本当にすばらしかった。笛に感銘を受けたの

        • つきかげしぐさ

          お月さまをのぞくと あなたの顔がみえる あなたの顔をのぞくと わたしの顔がみえる わたしの顔をのぞくと くらい夜がみえる くらい夜に 月をみることはできない でもそれは 雲にかくれているだけ みえないところで いつも輝いていて 雲のすきまに あなたの顔がみえる

        エルマンノ・オルミ監督『就職』(1961)<追記>

          新文芸坐シネマテーク vol.44『大事なのは愛すること』アンジェイ・ズラウスキー監督(1975)

          物語というコード進行も、旋律もある。 けれど、そこからはみ出しつづける何か。 決めごとがある中で演じられるフリージャズのような。 行き場を失った情念が、物語から噴出していく。 突然切断された断面が、また別の断面と接合される。 一般的なジャンプカットではない。 接合面がギザギザの。 そこに響いていく登場人物たちの悲痛な叫び。 あまりにも孤独な。 静かな映画ではない、うるさい、うるさすぎる。 「映像を活かすために音楽がある」というより、 音楽は語り手のようでさえある(これ

          新文芸坐シネマテーク vol.44『大事なのは愛すること』アンジェイ・ズラウスキー監督(1975)

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑪ <編集について-2>

          <編集について-1>では、ピントについて書きました。 今回は構図などを中心に。 以前、たむらまさき(田村正毅)さんとお話しする機会があり、 わたしは、ここぞとばかりに、様々な角度から質問をしました。 すると、すべての応えが、「どう世界と向きあうかだけです」とのこと。 それは、人間だろうが、動物だろうが、植物だろうが、風景だろうが。 ドキュメンタリーだろうが、フィクションだろうが。 「編集などのことも考えて撮影するのですか?」との質問にも、 「すべて考えています」と。 畏れ

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑪ <編集について-2>

          新文芸坐シネマテーク vol.44『愛していると伝えて』クロード・ミレール監督(1977)

          狂気的な恋愛感情をもった主人公:デヴィッド・マルティノー(ジェラール・ドパルデュー)。 デヴィッドは幼なじみで、かつて恋人関係にあった(結婚の約束もした?)リーズ(ドミニク・ラファン)への想いを抱え続けている。 リーズは結婚して、子どもまでいるのに。 そのデヴィッドに想いをよせるジュリエット(ミウ=ミウ)。 主にその三角関係のような構図だけれど、デヴィッドの同僚で友人もジュリエットに想いを寄せている(と言っても、その同僚は結婚もしていて、軽薄な、性欲などからくるもののように

          新文芸坐シネマテーク vol.44『愛していると伝えて』クロード・ミレール監督(1977)

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑩ フレーム・焦点・物語(別角度から)

          わたしは事故で身体をわるくし、その影響から精神もわるくし、その回復の過程で瞑想をはじめるようになった。 瞑想は精神にはもちろん、身体にもいい。 一昔前なら「怪しい」と思われていた方法も、 マインドフルネスがビジネスにまで取り入れられるようになった今日では、 一般的なものとなった。 とはいえ、功罪はあるもので(陰陽は常に連動している)、 瞑想が宗教的なものから乖離して、 「方法」「手段」として用いられるようになるにつれ、 その本質も変容してしまった(失われてしまった)と嘆く

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑩ フレーム・焦点・物語(別角度から)

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑨ ししょうせつ

          カメラを手に、桜を。 けれど、その美しさを撮ることができない。 何枚かシャッターを切るも、 すぐに諦めて土手にあがってみる。 亀が甲羅をかわかしている。 望遠レンズもないので、近づいてみる。 と、警戒して川にもぐってしまった。 って、この写真は鳥が逃げた波紋なので、映像なんてウソばかり。 少し川面を見ていると、ひょっこり顔を出してくれる。 設定を変えてズームしようといじっている間に、また消えてしまった。 写真なんて、「撮れない痕跡」「記録できないことの記録」で

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑨ ししょうせつ

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑧ 映画っぽさ

          「映画っぽさ」とは何だろう? これは写真っぽい。 背景が入ると映画っぽくなる。 画面が流れだすというか、その奥行きに物語が膨らんでいくというか。 マルク・シャガールの絵が「映画っぽい」かはわからないけれど、 物語が流れていく感じがする。 音楽っぽいというか。 フレームとは何だろう? 物語とは… 音楽とは…

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑧ 映画っぽさ

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          若者たち(永島慎二のような)

          若者たち(永島慎二のような)

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          写真と動画と宙ぶらりんこ⑦ ナツヨウシャ

          「ナツハシャっていいですよね」と相馬あかり監督。 わたしには何のことだかわからない。 「島田潤一郎さんがひとりでやっている出版社の」 あっ、わたしは「ナツハ」ではなく「ナツヨウ」と思っていたんだ。 恥ずかしい。 でも、そこにあるズレがちょっと心地よかった。 夏葉社の本は、装丁から、中身まで、すべてに芯が通っていて、 本そのものがオブジェのように輝いている。 島田さんの美学というか、本への愛情というか。 だから、つい手にとってしまう。 ぺらぺらめくっては本をとじ。 その時

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑦ ナツヨウシャ

          『書いてはいけない』について「書いてはいけない」のかも

          この本を紹介するのを、3つの理由でためらった。 ① ひとつは、二極化する世の中で、一般的な権力批判は、 「悪役」(アンチ)としてレッテルが貼られ、 「正義」VS「悪」という対立軸(物語)にすべて回収されてしまうから。 体制側の人にとって、体制は「正義」であり、その批判者はすべて「悪」であり。 反権力側の人にとって、体制側はすべて「敵」であり、権力と対立する陣営はすべて「正義」である。 両者はケンカしているように見えて、実際は相互に依存しあって(支えあって)いるようにさえ見え

          『書いてはいけない』について「書いてはいけない」のかも

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑥ <編集について-1>

          わたしは一般のひとと一緒にワークショップをしながら映画づくりをしてきた。 ただ、編集については、いつも理屈だけ示して、具体的なやり方について示すことはほとんどなかった。(最終的に完成させる作品は、わたし自身が編集していた。) 理由は、もっとも時間がかかるから。そして、編集文法は1つではないから。 「起承転結」のような基本中の基本を教えることだけなら可能だけれど、それならわたしがわざわざ示す必要はない。巷にいくらでもそういう教科書はある。 それに、「起承転結」のような型

          写真と動画と宙ぶらりんこ⑥ <編集について-1>