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写真と動画と宙ぶらりんこ⑦ ナツヨウシャ

「ナツハシャっていいですよね」と相馬あかり監督。
わたしには何のことだかわからない。

「島田潤一郎さんがひとりでやっている出版社の」
あっ、わたしは「ナツハ」ではなく「ナツヨウ」と思っていたんだ。
恥ずかしい。
でも、そこにあるズレがちょっと心地よかった。

夏葉社の本は、装丁から、中身まで、すべてに芯が通っていて、
本そのものがオブジェのように輝いている。
島田さんの美学というか、本への愛情というか。

だから、つい手にとってしまう。
ぺらぺらめくっては本をとじ。
その時の自分に響く言葉を探す。
ぺらぺら。ぺらぺら。

だから、いつもベッドの傍らにある。
友人みたいな。恋人みたいな。
なんとも風通しのよい。

相馬さんは、絵描きから映画をつくりはじめた人だから、
やはり本のセンスも、手触りに拘るのだろう。

「ぼくは、あんまり面白くないと思った作品こそ、DVDをポチってしまうんですよ」
「えっ?」
「よくわからなかったら、そこで見るのを止めて、解説を読んでまた見るとか」
「絵画のキャプションを読んで、また見るみたいですね」
「それに、自分の状況によっても、見えてくるものが変わったりするじゃないですか」

この感覚、半分わかる。
わたしはずっと「他者性」を求めて映画をつくっているので、
「わからない」と思った時に、簡単には手放さない。
はじめて観て「意味不明」「退屈極まりない」と思った映画が、
二度目に観た時「傑作!」と歓喜したことなんて何度もある。
その逆も。

それは実際の編集も同じで、
最初に「OK」として抜き出したカットだけで作品を完成させることはない。
何度も見る中で、角度を変えて視る中で、
「NG」としていたものが「OK」になる瞬間がある。
それを経ないと作品は完成しない。

「NG」が「OK」になるというのは、価値観が変わった証拠。
「無価値なもの」の中に「価値」を見出したという。
そこにあるのが「他者性」。
その発見の軌跡こそが作品の核となる。
(それを経ないものは、プロパガンダであって。)

だから、相馬さんの言っていることはよくわかる。
でも、わたしがそれを修行のように自分に課しているのに対して、
相馬さんはサラッと喜びとしてやっている。
当たり前のこととして。

畏れ入った。
時に「テキトーだなぁ」と思う時もあるけれど、
やはりこの器、すごすぎる。

そしてわたしに足りないもの、
今抱えている『O介』編集に必要なものを、
風が吹き抜けるように示してもらった気がした。











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