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写真と動画と宙ぶらりんこ⑨ ししょうせつ

カメラを手に、桜を。

けれど、その美しさを撮ることができない。

何枚かシャッターを切るも、
すぐに諦めて土手にあがってみる。

亀が甲羅をかわかしている。

望遠レンズもないので、近づいてみる。
と、警戒して川にもぐってしまった。

って、この写真は鳥が逃げた波紋なので、映像なんてウソばかり。

少し川面を見ていると、ひょっこり顔を出してくれる。

設定を変えてズームしようといじっている間に、また消えてしまった。

写真なんて、「撮れない痕跡」「記録できないことの記録」でしかないのかもしれない。

昔、お世話になった撮影監督の小野寺眞さんに、「撮影は網を仕掛けて魚を待つようなもの。構えたところに魚が来たら上げるだけ。網で追おうとしたら、いつまでも撮れない。」という趣旨のことを言われたことがある。

いつも思い出す大切な言葉。

だから、待つことにする。

亀はもう出てこなかったけれど、まさに魚が。

とはいえ、やはり思ったように撮れない。
動物は人間が思ったようには動いてくれないから。

たむらまさき(田村正毅)さんが、「パッと鳥が飛ぶとか、そういう突発的な場面は、そもそも撮れない」という趣旨のことを(うろ覚えですません)言っていたと思う。


亀とか、魚とか、主人公や物語を求めていることがフレームを狭くしているんだな。

それに、「カメラで捉えよう」なんてイヤラシイことを考えているから、その場にあるすべてを感受しそこねてしまうんだ。

だから、カメラを構えるのをやめた。

すると、ヒバリのさえずりが聴こえてくる。
「なにもいない」「なにもおこらない」と思っていた川の流れそのものが感じられるようになる。

世界はこんなにも豊かなのだ。
気づいていないだけで。
「見えるもの」にばかり気をとられて。


少しの時間、瞑想のようにその場にたたずみ、
帰路に。

桜を美しいと思うのは、桜が派手だから。
ジミに地にはいつくばって生きている美しさだってある。

セイタカアワダチソウが芽吹き始めたのに気づく。

小さい頃にはほとんどなかった草だけれど、
もう、そこら中を覆ってしまった。外来種。

その繁殖力から、農家からは嫌われている。
それでも、秋になると黄色い花が土手一面を埋め、
もはやこの辺の風物詩でさえある。
この辺のと言っても、日本中だろう。

スマフォの普及や、インターネットの隆盛を想う。

「撮れない」ことを経験したからか、「視覚」自体が変わって感じられる。

もう桜の花にカメラを向けなくなった。

光と影。

「見えているもの」と「見えていないもの」。


カメラは本当の世界の美しさを撮ることができない。

その不可能性の中で、それでもカメラを向けることの意味を考えている。

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