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新文芸坐シネマテーク vol.44『愛していると伝えて』クロード・ミレール監督(1977)

狂気的な恋愛感情をもった主人公:デヴィッド・マルティノー(ジェラール・ドパルデュー)。
デヴィッドは幼なじみで、かつて恋人関係にあった(結婚の約束もした?)リーズ(ドミニク・ラファン)への想いを抱え続けている。
リーズは結婚して、子どもまでいるのに。
そのデヴィッドに想いをよせるジュリエット(ミウ=ミウ)。

主にその三角関係のような構図だけれど、デヴィッドの同僚で友人もジュリエットに想いを寄せている(と言っても、その同僚は結婚もしていて、軽薄な、性欲などからくるもののように思える)。
リーズの夫も重要な役で登場するので、4角、5角・・・関係というか。

最初、「ふつうの人」に見えていたデヴィッドが、どんどん狂気的に見えてくる。
偽装していた仮面が剥がれていったのか?
それとも、物語の展開(リーズとの関係がこじれる)と共に、狂気を帯びていったのか?
わからない。

途中から「こいつほんとにヤバイな」と思うも、
更に見続けると、「これはわたしだ」と思えてくる。

わたしはこんなに熱狂的に誰かに恋愛感情を持ったことはないけれど、
欲望や考え方など、一方通行的で愛とさえ呼べない拘りの中で、溺れながら生きている。浅瀬の泥沼で。
手に入らないものを求めつづけながら。
(デヴィッドは、一度手にしかけているから、より拘ってしまうんですよね。「失う恐怖」の物語とも言えるというか。)


デヴィッドに想いをよせるジュリエットも合わせ鏡のように狂気的。
(こちらも、もともとそうういう人なのか、どんどんそういう深みにはまっていったのか、不明確。どちらの可能性もあるし、両方かもしれない。)

手に入れられないリーズを求めつづけるデヴィッドに対して、
ジュリエットは、デヴィッドに受け入れてもらうために奉仕しつづけ、
最終的にはリーズになろうとさえする(少なくとも容姿的には近づこうとする)。

こちらもこちらで狂っているけれど、どこか、自分にもそういう要素があると思える。恋愛に限らず、対人関係全般、いや、社会的規範などに対しても。自発的な従属性というか。

「ふつう」だと思っていた人が「狂人」に見え、最終的には「これはわたしだ」と思える。人間の「狂気」というものが普遍的なものということだろう。

その点、性欲だけで生きているような同僚こそ「ふつう」にも思え。同時に、それ以上の狂気もないような気にもなるから不思議。

それはリーズに対してもそう。映画を観ている間中、ずっと「リーズは被害者」だと思っていた。でも、映画を観終わっていろいろ考えていると、「そもそも、彼女は、ずっとデヴィッドに対して、曖昧な態度をとっていた」ことに気づく。

実は本当にデヴィッドを嫌いになったわけではなく、なんとなく寂しいから別の男をつくって結婚もしたけれど、まだ想いが残っっているという可能性もあるのではないか。少なくとも「軽蔑的な拒絶」はしていない。(もちろん、「何をされるかわからないから合わせている」可能性もないとは言えないけれど。)また、「態度表明という決断をする勇気がない」というのもあるかもしれない。

「あ~、そういう人いるよね~」と思った瞬間、自分にもそういう部分があることに気づいてゾッとする。

もしかしたら、デヴィッドをこんな狂気に誘ったのは、実はこのリーズとも言えるのではないか?

そう考えると、「被害」と「加害」が逆転してしまう。
ラストシーンの意味がまったく違って見えてくる。

もちろん「曖昧な態度をとり続けているリーズ」と【見えている】のも、
すべてデヴィッドの【妄想】でしかない可能性もあるけれど。

そうなると、またまた「加害」と「被害」が反転する。

で、結局、何がなんだかわからない。
でも、これって世界の姿そのものでしょ。

「目にしている」、「体験している」ものさえも、
どこまでが「客観的事実」で、どこまでが「主観的認識」か、
明確に区別けできるひとなんていないのだから。

そもそも、「自分は狂ってない(偏向はない)」と思ってしまうこと以上の狂気なんてないと思うし。

そう考えると、性欲だけで動いている動物のような同僚こそが、
一番「まとも」なんじゃないかとも思ったり。

とんでもない作品を観てしまった。


監督の能力は言うまでもないけれど、
この映画の凄みを支えているのは、特に3人の俳優。
ジェラール・ドパルデュー、ミウ=ミウ、ドミニク・ラファン。
「狂気」と「正気」の境界線上の演技。

「正気」の残っていない振り切れた「狂気っぽい」演技というのは、
スイッチひとつでけっこうできるもの。
でも、「狂気であることが正気」の状態を演じるなんてことは、
めったにできるものではない。
本当の怖さは、「狂気」は、「正気」の中にあるのだから。


また、新文芸坐シネマテークの醍醐味だけれど、
今回も大寺真輔さんの解説を聞いて、さらにビックリした。
特に映画内に出てくる「Fergus(ファーガス/フェルギュス)」の意味。

ジュリエットがデヴィッドに本をプレゼントするのだけれど、
それがスコットランド王ファーガスの伝記。
ジュリエットが「デヴィッドのヒミツを知っている」というほのめかしでもあるのだけれど、それだけではないという。

フェルギュスは、『アーサー王物語(伝説)』で、「霊閉された姫を救い出し、結婚する」存在(まさに、デヴィッドがリーズを救い出す「物語(妄想)」とかけられている)。でも、その元になった実際のファーガスの伝記を贈ることで、「現実はこう」「目を覚ませ」というメッセージにもなっているという。

また、フェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」という絵が、重要なものとして出てくるのだけれど、ヴァージナル(チェンバロの一種)という楽器には、ヴァージン(純粋性)が掛かっているそうな。そういうことか。

豊かな映画は、深く、深く、いろんな要素が層のように積み重なっているなと実感。


どこまでが事実で、どこまでがデヴィッドの妄想なのか、よくわからないけれど、その暴力的な表層(アクションだけではなく、音が効果的に使われていたと思う)に反して、それぞれの人物が抱えている孤独が、静かに静かにこだましていくような作品だった。
ほんとうにすごいものを観た。感謝。














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