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エルマンノ・オルミ監督『就職』(1961)<追記>

わたしは、ずっと、「映画なんて好きじゃない」と言ってきた。

「映画が好き」という人の多くが、映画の技巧的な部分や表面的な美のような(フォトジェニックな)ものを称揚する傾向にあるから、それに反発していたのだと思う。

世界の広さを、小さい画面のフレームに収めること、その絶望的な限界に対して、なんの戸惑いもない姿勢に対してというか。

以前、あるカメラマンの画作りを近くで見て、愕然としたことがある。
「そこで何を見つめるのか(中心・本質が何か?)」ではなく、「構図のキレイさ」でフレームが決められていたから。
(自身でカメラを持たない人には、この衝撃は伝わらないかもしれない。自身でカメラを持つ人でも、動画(映画)の撮影者だと、「物語ること」が優先され、同様に、「その何が問題なの?」と思うかもしれない。)

わたしはずっとドキュメンタリーをつくってきたので、強くそう思ってしまう。
(いま、はじめての「フィクション」と言っていいか、ドキュメンタリーではない作品をつくっている。)

ドキュメンタリーのカメラは、「目の前の生の本質とどう向き合うか」でしかないから。(もちろん、編集のことなども頭にはあってのことだけれど。)

とはいえ、ドキュメンタリーをつくっている人でも、その辺の感覚は、フィクションをつくっている人と変わらない場合がほとんど。「メッセージ」「物語」というフレームに映画を落とし込んでしまうことに何の躊躇も持たないひとが多いというか。(反対に、「社会問題」、あるいは「人生」に向き合えば、「画」なんてどうでもいいという人も多い。)

わたしは、フィクションもドキュメンタリーも、窮極的には同じ山をどちら側から登るかの違いでしかないと思っている。

そう考えた時に、エルマンノ・オルミ監督の視点は(恥ずかしながら、今回『就職』ではじめて作品を拝見したので、そんな偉そうに書けないのだけれど、、、)、俳優や街並みを見つめる視点にウソ(過剰な味つけ)がなく、まさに大寺さんが言うように「等身大」。

フィクションでありながら、ドキュメンタリー的というべきか、カメラが本質を捉えようとしている。
目線による演技や、それを追ったカメラワークなどの技巧も、作品の本質、世界の本質を捉えるために必然的に生まれているというか。

目的が「映画」や「芸術」に向かっているわけではない。
もちろん、「社会問題」に向かっているわけでもない。
そのすべてを含みながら、「生」と向き合おうとする視線。

非職業俳優(素人)に出演してもらうことが多いらしいのだけれど、
その辺のキャスティングも、「新しい映画のための演出」というより、
「より本質的な生を捉えるため」のようにしか思えず。
(オルミ監督が労働者階級の出身であることも影響しているかもしれない。インテリの芸術家とは違うというか。余剰(デザート)として映画を観るというより、そこに人生そのもの(主食)を観ているというか。)

そんな感覚を持つ映画なんて滅多にない。
フィクション映画で出会ったのは初めてかもしれない。(わたしが不勉強なだけで、他にもあるのでしょうけれど、、、。)

いや、たむらまさき(田村正毅)さんの視線にはそれがあると思う。
ずっとドキュメンタリーを撮ってきた人の視点というか。まさに「等身大」の。

たむらまさきさんとお話させてもらったことがあるのだけれど、
そんな機会はないから、あらゆる角度から撮影について質問したら、
どの質問に対しても、
「どう世界と向き合うかだけです」とのこと。
「それは人であれ、モノであれ、風景であれ、、、」と。
「編集などのことも考えるんですか?」との質問にも、
「すべて考えた上でのことです」と。
一生の宝ものだと思っている。

偶然というより必然だと思うけれど、
エルマンノ・オルミ監督もずっとドキュメンタリーを撮ることで撮影を学んでいったそう。

Edison Volta という会社で働き、その会社の記録映画を撮ることがキャリアの始まりだそう。
40本のドキュメンタリーを撮ったようで。
フィクション第一作とされている『時は止まりぬ』という作品は、
もともとドキュメンタリーの延長としてつくられたものらしい。

「生」に根差した視点。映画でも、芸術が目的でもなく。
エルマンノ・オルミ監督に出会えたことは、
わたしにとって、ほんとうに得がたいものとなった。

新文芸坐シネマテークでは、本当に、得がたい出会いがたくさんある。
映画産業に絶望しても、ここにくれば、また「映画の可能性」を再認識できる。映画が好きになれる。

「映画なんて嫌いだ」とツッパッていた自分が恥ずかしくなる。
多くはないかもしれないけれど、生と向き合いながら映画を撮っていた人たちが、かつてはたくさんいた。今も見えていないだけでいるのかもしれない。

新文芸坐シネマテークに、大寺眞輔さんに、こころからの感謝を。
ありがとうございます。
(こういう書き方をすると、作り手であるわたしが、映画館や批評家に媚びているようでイヤなんだけど、そういう下品な意味では全くなくて。こころから。)

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