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新文芸坐シネマテーク vol.44『大事なのは愛すること』アンジェイ・ズラウスキー監督(1975)

物語というコード進行も、旋律もある。
けれど、そこからはみ出しつづける何か。

決めごとがある中で演じられるフリージャズのような。
行き場を失った情念が、物語から噴出していく。

突然切断された断面が、また別の断面と接合される。
一般的なジャンプカットではない。
接合面がギザギザの。
そこに響いていく登場人物たちの悲痛な叫び。
あまりにも孤独な。

静かな映画ではない、うるさい、うるさすぎる。

「映像を活かすために音楽がある」というより、
音楽は語り手のようでさえある(これは大寺眞輔さんの指摘でもある)。
映画の演出を音楽がしているような、主導権を握っているような。

カメラワークも、同様。
「物語を語るため」「役者を美しく撮るため」という枠を逸脱して主張するカメラ(視点)。

音楽もカメラも、監督から自立しながらジャズセッションをやっているような。

役者も、その並びで語っていいのか微妙なところだけれど(即興芝居ではないので)、
いずれにせよ、「演技」というより、「映画の中で生きている人物たちの言動」として過剰。
みな、ギリギリのところで生きている者たち。

劇中劇『リチャード三世』の稽古(本読み)の途中で、
女優ナディーヌ(ロミー・シュナイダー)がその場から逃げ、
それを追った俳優(クラウス・キンスキー)も、彼女を説得するように「皆、ギリギリのところで舞台に立っている」というような主旨のことを言う(正確な文言じゃなくて、すみません)。
それが、この映画のすべてを物語っていたように思う。

フリー期のコルトレーンのブロウのような。
不協和音が鳴っている。

うるさい、うるさすぎる。
のに、その奥底でこだましているのは、
小さな、小さな、静かでさえある哀しみ。

タイトルにもある「愛すること」とは、
そこにある声を聴くこと、
そして受けとめることなのかもしれない。

2時間の映画的轟音は、その轟音の奥で鳴っているものを聴き別けるために必要な時間だったのだろう。

人生においても、
誰かの哀しみを受け止めるには、
時に対立したり、罵声をあびせ合う長い時間が必要なのかも。
そうしてはじめて、その奥で鳴っているかよわい声に気づく。
それを抱きしめるのが、「愛すること」なのか。

【追記】
カメラマン・セルヴェ(ファビオ・テスティ)がナディーヌ(ロミー・シュナイダー)に、
ベトナムやアルジェリアのことを語ろうとして、
「興味ないだろう」、、、「うん、興味ない」というようなやり取りのをする場面が、強く響いている。

従軍体験のことなのか?報道カメラマンとして見たものなのか?
あるいは、金のためにエロ写真ばかり撮らされているけれど、
報道への志を持っているということなのか。
(その場合、ナディーヌが金のためのポルノ的な映画に出ることと同じであり。)

戦地を直接経験したようなニュアンスもあったけれど、はっきりしない。
いずれにせよ、セルヴェの哀しみの底にあるもの。

誰もが自分の哀しみで精一杯で他人の哀しみには触れられない。
そんなものまで背負えない。
それでも、だからこそ、ラストシーンで。
「愛すること」。


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