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梅は杉になれるのか

先日、息子は訳あって2度目のWISC(発達障害が疑われた時などに子供が受ける知能検査のようなもの)を数年ぶりに受けた。

自分だけしっかり結果を知っているのもアレかな?と思い、聞いた話も書き込んで結果のコピーをばぁばに渡す。
するといつもの宇宙人との会話のような終わりの見えない言い争いが始まってしまった。

息子はLD(読み書き障害)があるが、その中でも書くことが大の苦手である。WICSの説明をしてくださった先生の話でも、漢字やひらがなの書き取りは(やらせては)ダメ。書くことを軽減させるように、とあった。検査をやらずとも分かっていたことだったので、私はもうすでにその点に関しては諦めて他の方法を模索していた。

もう小3だが、未だに鏡文字(例:ち→さ)になることがある。それでも1年生の頃に比べたらはるかになくなった。最初の頃は間違いを指摘すれば癇癪を起していたのが、今では「ちってどっちだっけ?」「これ合ってる??」と聞いてくるようになった。
彼は書くことが苦手な上にワーキングメモリが低く、文字も計算も引き出しから持ってきて頑張って書いているうちにまた忘れて引き出しに・・・ということが繰り返されているのでとてつもなく時間がかかる。
書けないことは本人が一番よくわかっている。そして何より辛いはずだ。書こうと思っているのに思うように書けない。ただでさえ自分はできない、ダメだ、と思ってしまうところに指摘などされたら、自己肯定感が一気に下がるだろう。早めに気が付いてよかった。

私は一生書けなくていいと思っている訳ではない。今は「その時」ではないのだな、と思っている。「その時」がいつ来るのか分からない。来年かもしれないし、社会に出てかもしれないし、死ぬ間際かもしれない。でも、それでいいと思う。書けなかったら何なのだ。生きていけないのだろうか。

ばぁばの言い分はこうだ。
「今はいいわよ?でも書く必要が出てきた時にこの子が困るじゃない」
だから何?と私は思った。「困った」「恥ずかしい」と思う経験は本人にさせればいい。むしろそれは本人がしなければいけない経験だ。本人もできずに苦しんでいることを、自己肯定感を下げてまでする必要が今あるとは思えない。「それでも困るから」と強要するのはやってる側のエゴだと私は思う。
なぜなら子供が困った思いをすることで自分たちが困るからだ。


「それはばぁばのエゴだよ」と言ったら「違う!あの子に字を書かせないでいるなんて、これはあなたの怠慢!これだけは言える」と言われてしまった。本当にそうなのだろうか。私の怠慢か???
目的が「書くこと」なら私の怠慢かも知れないが、書くことは一つの手段に過ぎない。この時代、代替えはいくらでもある。これがダメならあっちの方法でやればいい。

不登校や勉強の遅れを「恥」だと感じている人もいると思う。それはきっと杉林の中に一本梅の木があるような感覚だ。みんな杉なんだからあなたも杉にならなくちゃ、梅ではダメなのよとあちこちに伸びていく梅の枝を針金でぐるぐる巻きに矯正してなんとか杉に近づけようとする。
彼が梅の木なら立派な梅の木になるようにサポートしてあげればいい。きれいな花とあの香りは杉には真似できない。たまたま杉林の中にいるだけでみっともないからって杉に変えようと躍起になっていたら、どんだけ手塩にかけても梅の木はすぐ枯れるだろう。だって梅なんだから。

ばぁばのやっていることはまさにこれで、なんとしてでも杉にしようと必死だ。だから「本人がやりたくてもできなくて困っている」のに「できない」ことだけにフォーカスし、代替えを求め伸ばした枝を切り落として杉にしようとしている。
今、書けない事以外にも自己肯定感が下がりまくっている彼を矯正したその先に、彼自身が達成感や自己肯定感を感じることはないと思う。待っているのばぁばの満足感だけだ。

じゃぁどうするの!このままでいいの!?どうするつもりなの!
と言われそうだが、その焦りこそが自分の弱さであり解決すべき問題なのだ。「あんたの考えることは本当に分からない!」と言われこちらもハニワ顔で顎が外れそうになるのだが、根性論とそうじゃない論、べきねば思考とそうなじゃい思考、スピリットに近づこうとしてる意識とマインドに思いっきり縛られてる意識・・・たくさんの違いがある中で、根本的に違うのは「この子は絶対大丈夫!」と息子を信じているという点だ。

梅は梅。杉は杉。
みんな違ってみんないい。


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