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『介護と働く』 #06:介護はエゴも大切 -自由と自主性- (2/3)

治療の範疇

父が実家に戻るまでの間も、いくつも選択すべきことがあった。
その一つが延命治療である。

どの処置が延命治療なのかは人によって異なるらしいが、例えば呼吸や食事を自立的にできない場合、人工的にそれらを補助する治療もそれに当たるという医師もいる。

父は辛うじて呼吸はできていたが口から飲食ができない。だからその当時は、口から管を通して胃に栄養を送り込んでいたが、それ以外の選択肢に「胃ろう」がある。これは胃に直接栄養を流し込む管のことで、それを作るためには身体にメスを入れる必要がある。

口からの管は身体に傷はつけないが、父も息苦しいのと、介助者もケアがしにくいらしい。今後在宅介護を強く希望するなら、家族としては胃ろうのほうがよいというわけだ。

喋れない、身体を動かせない、そのような健常とはかけ離れた状態で命を永らえるための手術を行うべきか。それを決断するのは私たち家族の判断である。父は果たしてこの状況で生き続けたいのだろうか、と悩みに悩んだ。

しかし、私たちは、胃ろうの手術を選択した。


エゴを許してくれ

それはある種、残された家族のエゴなのかもしれない。

医師からは、父の気持ちを考えて手術を決めましょう、伝えられた。思うように心身をコントロールできない父はもしかしたら生きたいと思ってないかもしれない、という示唆だろう。

でも、もっと父との時間を、父の傍で過ごしたい。いつか亡くなってしまうとしても、それまで家族との密な時間を。

それが家族のエゴであったとしても、許してほしい。おやじ。

ふと、これってもしかしたら、葬式も同じなのかもしれないと思った。葬式は、もちろん宗教的に故人のために必要なものなのだろうが、残された家族が、故人の居なくなった世界を受け入れる儀式なのではないかと私は思う。葬式という儀式を実施することで、家族は心の整理をする。つまり、誤解を恐れず言えば、葬式を催すことは家族のエゴでもあるのではないか。

父の手術を希望したのも、父の戻らぬ身体やいずれ来るだろう死を、残された私たちが徐々に受け入れる時間をつくるためだった。

親族の死や病と向き合うとき、残された家族の心の整理のためにエゴは大切だと私は思う。



医療と介護にまつわる支援

そんなこんなで、私たち家族は在宅介護を決めたものの、介護に関する実務的・経済的な情報は、そのような立場になるまで知らないことが多い。そのため、自ら情報を取りに行く必要があるのだが、パソコンの前にいるより詳しい方々に相談するのが一番だった。

リハビリ病棟にいる間は、そこに在籍する「ソーシャルワーカー」(社会福祉の立場から患者家族を支援してくれる人)や市区町村の高齢介護課へ、父の回復の有効策や医療費・介護費などの相談をした。

リハビリ病棟から在宅介護に移行する際は、先の方々に加えて、各地域にある介護の総合窓口的な「地域包括支援センター」や介護プランを策定して下さる「ケアマネジャー」に、在宅介護の不安や準備を相談した。

対応してくださった方々がよかったのもあるかもしれないが、私たちの取り留めもない不安や質問にも親切に対応してくださり、在宅介護自体の大変さは叩き込まれたが、私たちの心のケアもしてくれた。


お金のこと

そして、心の問題とともにケアしなければいけなかったのが、お金の問題である。

人の命にお金の話題を持ち込むのはよくないと言う方もいるかもしれないが、家庭の経済が回らなくなったら父の命に関わるし、なにより介護には結構お金がかかる。

ちなみに、私たちの場合、リハビリ病棟での入院期間は月に20万円程度を要した。在宅介護での費用はまだ確定していないが、同じくらいの出費だろう。

だから、いざというときに家族が困らないよう、資産がどこにどのくらいあるのか、どんな保険に入っているのかなど、家族間でシェアすることが本当に大切だと思い知った。

自分たちの毎月の収入だけで賄おうと思うと、何か新たにサービスを受けるたびにドキドキして精神的負担が大きい…(もちろん、被介護者や家族の収入に応じて、国からの経済的な支援はある)

お金に限ったことではないが、少し話しづらいことでも、普段から家族みんなでコミュニケーションをとることが必要だ。本当に。


つづく


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