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無意識にやめてしまったことを、今拾い集めている

学生の頃、読書ノートを作っていた。

ルーズリーフに書籍のタイトルと著者名と感想をだ〜っと書いただけのもの。書き終わったらファイルにまとめて完了。何文字以上書くとか、この色のペンを使うとか、細かいルールは一切なくて、最低限のタイトルと著者名だけ書いたらあとは自由。

気に入ったセリフを抜き出したり、書評っぽく500文字程度のコラムにまとめてみたり、心のままに書きなぐったり。

机の上にルーズリーフと文房具を広げて、本をパラパラとめくってはペンを持って書き込む時間がとても好きだった。

ルーズリーフなので「ノート」と呼べるのは分からないけど、私はなぜか「読書ノート」と呼んでいて、初期に書いたものを今でも大切に保管している。

そんな、読書の記録をせっせと作っていた。





はずなのに。

いつから私は読書ノートを書いていないんだろう。

実家からファイルごと持ってきており、読書ノートは手元にあるはずなのに、今の私は全く記録を綴っていない。

読書はしているはずなのに。本に付箋を貼ってお気に入りの表現にうっとりとしているはずなのに。たまにnoteに感想を書くくらいで、あとはそのままになってしまっていた。

読んで、終わり。

その瞬間は楽しんで「絶対に忘れない」と思うんだけど、残念なことに記録しないと私は忘れてしまう。


ねえ、忘れているでしょう?

好きな作家さんのエッセイや小説、興味深い新書、純文学は?最近いたく感動した『鬼滅の刃』は?

一番印象に残ったシーンは?セリフは?読んでどう感じたの?何か発見はあった?

分からないでしょう?

せっかく感動したのに、心に残ったのに、今の私は記録をすることをすっかりとやめてしまっている。

それに気づいたとき、なんだかとても悲しくなった。





生活の変化で、好きだったことを無意識にやめてしまっている人は多いと思う。

これって本当に特に理由はないのよね。時間の流れやその瞬間瞬間によって興味の対象も変わってしまうから。

もちろん、そんなの関係なく続けられるのが最強だと思う。ただ、残念ながら当時の私はそのような強い意思はなく、ふわふわとしていたので、気づけば自分から手放してしまった。

心の奥底には読書ノートの存在はずっと知っている。けど、忘れているみたいな状況が続いていて。

そんなとき、YouTubeでノート術や読書ノートの書き方の紹介をしている人を見て、心がドクンと動いたんだよね。

その人は、丁寧に、楽しそうに読書記録を綴っていて。

「こんな風に私は書いています」と紹介している内容が、とてもワクワクして、キラキラしていて、同時に猛烈に羨ましくなった。

「いいな。楽しそうだな」

「やっぱり紙に書くっていいよね」

純粋な憧れから一転、すぐに暗雲が立ち込める。

「私もこんな風に読書ノート作っていたのに」

「もし今も続けていたらものすごいストックになっていたかもしれないのに」

なんとも言えない分量のルーズリーフを挟んだファイルが脳裏にちらついて、ものすごく、ものすごく羨ましくて、悲しくなった。

なんで私、書かなくなっちゃったんだろうなあ。



そんなことを動画を見ながら考えていて、ちょっぴり自分に対して悶々としてしまったんだけど、

「今気づけた」という事実を大切にしようと思った。

だって、当時は手放してしまったことに対して、何かを感じてもいなかったわけだから(無意識だったため)それに対して悶々としても意味がない。過去は戻らない。

と同時に、「楽しそうだな」「いいな」とアンテナがピンと張って、自分がキュンとするものを見つけられたことが、今の私にとっては快挙である。

「好きなもの、キュンとするものなんてよく分からないなあ……」と迷子になりやすいからこそ、ちょっぴり悶々とするほど心が動かされるなんてすごいこと。それはもう今すぐやるべきじゃないのかな。

やろうぜ、私。

もう一回、読書ノート再始動しようぜ。





無意識に手放してしまったことを、今年はもう一回始めてみようと思う。

最近読んだ小説や漫画から、少しずつ再始動。久しぶりに開くファイルに心が踊る。やっぱり私、こういう作業が好きだなあ。

もう一回拾えたことが、今とても嬉しい。

最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪