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死について考える【27日目】

こんばんは。今日もお疲れ様です。

今日は少しイライラした日です。

それはさておき、今日も今日とて死について考えていくわけですけども、昨日、海外のスラム街の事情をテレビで見まして、それで思ったこと何かも交えて話していきたいと思います。

その街では、食料よりもシンナーの方が安いそうです。いきなり、ぶっこみますが、こういう世界で生きていると、本当に死が間近な感じがしますね。犯罪率もすごいでしょうし、人の生死が簡単に決まる感じがします。しかし、そこでも路上で生き延びている人がいますから、地元の人は襲われないのか、地元の人として生きれば生き延びられるのかといったところです。

襲われない、事件に会わない、そう、海外の旅行者と違って、そういう目に遭わないかもしれないけれど、だけれども、明日の食料、今日の食料、夕飯を調達するだけでも厳しい世界とはまた違った意味で死が目の前にあるのです。飢餓、これが心配されるでしょう。私は日本に住んでいますから、飢餓に苦しんだことはありません。お昼を忘れた、などといったことはございますが、数日何も食べていないというのは経験したことがないです。

それはどれだけ辛いことか。それこそ、生き地獄という名がついてもおかしくないのではないだろうか。空腹で頭が冴えず、こうやって何かを、死について考えることすらできない。いや、その時はむしろ、死について考えるのかもしれない。だって、死が目の前に近づいている状態になっているのだから。むしろ、死だけを見つめることができる唯一のチャンスかもしれない。

このまま何も食べなければ死んでしまう。そう思って生きている人にとって、死ぬまでにやりたいことなどといったちっぽけな悩みはないでしょうか。いや、あるかもしれませんが、それは食に行き着くのではないでしょうか。空腹を感じてもなお、他のことに気を配ることができたならば、いや、もしかしたら、最後の最後、本当にダメだと感じた瞬間は考えるかもしれない。何かに後悔し、何かを思いやる。

もし、空腹の状態が続き、そういう思考に陥った時、私は何を思うのか。もっと生きたい、がまずあがり、食があがり、その後、幸せな生活が思い浮かぶ。幸せな生活とは何なのか。

ありふれた生活かもしれない。ただの日常かもしれない。

そもそも、空腹になる時というのは遭難したときくらいだろう、日本では。だからそういったことを思い浮かべるのだ。海外の、スラム街ではどうだろう。日常がすでに飢餓に満ちているかもしれない。ではその日常に戻りたいと思うのか。いや、思わないだろう。

先程話したシンナーは、空腹を紛らわせるために吸うらしい。そうやって、何もかも紛らわせて死から逃げる、脳的には逃げることやってのけるのが正しいのかもしれない。

逃げるというは、認知症から来ている。認知症は死の恐怖から逃げるためとも言われている。シンナーも、空腹から、そして、死の恐怖から逃れるために、頭を、意識をどこかへ行かせて、いつの間にか亡くなるように。そういう使い方もあるかもしれない。

そう考えると、やはり、死を目の前にした時、人は逃げ惑うのだということがわかる。

まずは死から逃げるために何かをすべきか。それは健康でいることなのか。おそらく、現代の日本ではそうであろう。健康でいるには、運動をすることや規則正しい生活を送ることであろう。そういった日常のひとつひとつを確実に成し遂げていくことが先決なのではなかろうか。

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