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死について考える【28日目】

死してなお生きようとする者。

死んでから、死んだあとも、世の中に影響を残せる人ってすごいなと思いますね。

さて、今日は調子が良いです。イライラも溜まっていますが。新しいゲームValorantが始まりまして、それをプレイしてました。ストレス解消になりますね。

こういうFPS、シューティングゲームをやっていると、改めて人を殺すのは簡単だなと思いました。死を作り出すのは簡単だなと。銃で撃てばいいだけなのですから。何なら、ナイフで刺すということもできるわけです。

そんな脆い人間。儚い命。しかし、尊い命。人間だけでしょうか?特別なのは人間だけなのでしょうか?

虫一匹の命ひとつも大切だと思います。仏教に近い考えなんでしょうか。殺生はいけませんという。植物はどうなのだろうか。実際問題、植物も生きていると思っている。意識はあるのではないだろうかと。人間にはわからない世界線で会話しているかもしれないのだ。

宇宙には人間がまだ解明していない物質が飛んでいるらしい。ダークマターだとかダークエネルギーだとか。それは目に見えるわけでもないでしょう。おそらく。見えるのかもしれません。黒く。もし、見えないとしたら、そういう物体を人間が認知するのは難しいでしょう。

同じように、植物の会話も人間には認知できない見えない物質で行われているのかもしれない。もしかしたら、人と人が時々起こすテレパシーのようなものを利用しているのかもしれない。もし、そうだとしたら、植物は生きているわけでしょう。

殺生はいけないから植物を食べようというのは本当に正しいことなのだろうかと。人間が認知していなければ、問題ないのかと。そうだとしたら、実際問題、動物の意識でさえも人間は認知していないのではないでしょうか。動物の会話を聞いたわけではなしに。もしかしたら、超高度なロボットかもしれないのだ。動物は宇宙人が開発した高度なロボットかもしれないのだ。だから、本能で生きることができるのだ。理性がないのだ。

人間はどうだろうか。理性があるから、とかそういう理由で意識があると決めつけているのかもしれない。しかし、他人の意識を感じたことはあるのだろうか。他人の心が読めたことがあるのだろうか。ないだろう。ということは、人間、自分を除いた人間はもしかしたら、生きていないのかもしれない。自分の想像の中の、架空のものかもしれない。脳が目に見せているただの幻想かもしれない、この世の中は。

さて、話が外れすぎたが、命は儚いというところだけ、死について考えていたと思われる。それは人間もそうだし、動物も、植物もそうであろう、と。

その命を私は食べて生きているのだ。もっと日常に感謝すべきなのかもしれない。いただきます、という言葉はとてもいい言葉だ。こういう感謝を伝えるにはもってこいなのだ。

死を考えるといま生きることの尊さが知れる。

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