死について考える【78日目】

人間の寿命がなくなる未来もあるのではないだろうか。そうした時、死がなくなると考えるとなかなか実感が沸かない。そうなった時って、例えば、1万年生きてから安楽死という道を行くとかになりそうだ。つまり、死を自然の流れに身を任せるのではなく、自分で決めるのだ。それまでは自分のやりたいことをやり続ける。やりたいことがあればの話だが。

そういうものがなかったり、生きてることが辛いと感じるだけですぐに安楽死へ手を出しそうだ。それがどのくらいで来るのか。1000年なのか、5000年なのか。

それだけ長生きできるのであれば、ゲームを片っ端からプレイしていくかもしれない。それこそ、実況動画でパッと見てしまうのではなく、全部自分で攻略していくのだ。

世界中だって旅したら楽しそうだ。なるべく歩いたり自転車に乗ったりで、自力で行くのだ。ただ、旅は楽しいばかりではないだろう。お金も必要だし、国によっては危険だってある。場所にも危険はある。感染症だってあるわけだ。ただ、不老不死が実現した世界で、病気にかかるのか少し疑問ではあるが。それなりのワクチンはすべてそろっていそうだ。

やはり、危険なのは人間だろう。夜間の出歩きでやられてしまうだとか。あり得る話だ。さすがに寿命がなくなったからといって、死はあるだろう。事故死なのか殺人なのか災害なのか。

それを避けるために家に引きこもるのであれば、それこそ、ゲームをやるしかなくなる。そして、その頃にはVRですべてができているのではないだろうか。

VRでならば、家にいても世界中を旅できる。VRよりも進歩して、脳へ直接つなぐかもしれない。そうすれば、匂いや味だって感覚として捉えることができそうだ。

それであれば、命の危険は少なくなるだろう。寿命とはまた別に筋肉の衰えは来そうだが。

それだけでなく、宇宙まで活動範囲を広げているだろうから。寿命のある限り宇宙の彼方を目指して見ても良いかもしれない。どこかの宇宙船に乗り込んでそこで暮らすのだ。

死がなくなることでこうやって色々とやりたいことが思いつくのに、今は思いつかない。死があり、寿命があり、制限があるから、やろうと思っても、無駄かどうかを考えてしまう。時間を有効活用したいと考えすぎて、完璧にこなそうとしすぎているのかもしれない。そうやって、考えてばかりいて、それこそ、時間の無駄になっているというのに。

死を考えないほうが、やりたいことができるのかもしれない。ここに来て死を考えることをダメ出しするとは。

実際、子どもの頃というのは死なんて考えなかった。だからやりたいことをやりたいだけやっていた。時間は無限だと思っていたから。

それが大人になって、時間は有限だと思い知らされ、だからやりたいことだけやっていてもダメだと思い知らされ、自分に自分で制限を勝手にかけて。そうやって、自分を小さい檻に閉じ込めて。ダメな大人になったものだな。こういう大人にはなりたくなかったんだが。

どうも、考え方をガラッと変えなくてはいけないきがする。心の奥深くに眠る、深層心理にもっと問いかけて、引っ張り出して、それを洗わなくてはならない。

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