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ユン・チアン「マオ 下」読書感想文

共産党の革命軍は、国民党の蒋介石との内戦に勝利した。

軍事力は、圧倒的に国民党だった。
アメリカの支援を受けていて、武器はそろっているし、空軍までもっている。

その強敵に、毛沢東はゲリラ戦で勝利したのだ!
毛沢東すごい!

そんな歴史の通説に、ユン・チアンは異を唱える。

毛沢東が指揮したといわれる「農村が都市を包囲する」ゲリラ戦は、実は他の者がやっている。
それを横取りしただけ。

それに蒋介石の最大の敵は、各地の “ 軍閥 ” だった。
軍閥を従えるために、革命軍という第3の敵が必要だった。

いつでも制圧できる弱い革命軍は、敵として手頃だった。
その革命軍をあえて “ 長征 ” させることで、軍閥の支配地域に軍を進めた。

まるで、毛沢東もそれをわかっているかのように、のちに神話となった “ 長征 ” を行ったようでもある。

また、蒋介石は身内に甘かった。
身内の汚職を罰することもなく、内部から崩壊させた。

モスクワに留学していた息子が、人質のようにして帰国できなかったことも革命軍有利となった。

対して毛沢東は、身内のことなど気にもかけない。
誰が死んでも悲しむこともない。

家族などは、基本は放置。
3番目の妻の賀子珍は精神崩壊して、後年は正気を失う。

そんな毛沢東は、1949年に中華人民共和国の建国を宣言。
下巻がはじまる。


建国の父・毛沢東が暴かれる

国家を手に入れた毛沢東の闘いのステージが変わった。

建国直後には朝鮮戦争に介入。
人海戦術で、どどどっと人民が一気になだれ込んでいく。
アメリカ軍を圧倒するが、人民はバンバンと死んでいく。

1954年、台湾海峡危機をおこしてアメリカを刺激。
それをネタに、親分ともいえるスターリンとも交渉。
渋るスターリンからは、軍事援助を引き出す。

国内での毛沢東は “ 建国の父 ” となって神格化されていく。

その過程も細かく描かれていく一方で、人間・毛沢東を暴露するエピソードがふんだんに盛り込まれている。

これらの暴露は事実に近いのではないのか?

そう思わせるのは、下巻の巻末に載っている “ インタビューリスト ” となる。

数えてみると480人もの名前が連なる。

当時の仕事、肩書き、立場、毛沢東との関係、目撃した場面も合わせて記されている。

イギリス在住のユン・チアンは、これらの人々へインタビューするため世界各国に行っている。

中国だけではない。
当時の中国に派遣されていたロシア人。
当時取材をしていたアメリカ人記者。
海外に亡命した中国人。
数えてみると37ヶ国に及んでいる。

訳者あとがきによると、英語の原書には、このインタビューリストに加えて、参考文献と注釈の記載が113ページもあるという。

あまりに長いため、日本語版にはwebサイトに別途記載となっている。

ちなみに、共著者のジョン・ハリディは、著者の夫だとも明かされてもいる。

10年以上にわたって、これだけのインタビューをして、資料を検証して、夫の協力もあって書き上げたとなれば、れっきとしたノンフィクションとみていいのではないのか。

単行本|2005年発刊|582ページ|講談社

あらすじと感想

大躍進政策での餓死者はなんだったのか?

1958年から “ 大躍進政策 ” がはじまる。
「先進国に追いつこう!」というスローガンがあった。

3年ほど続いたが、結果としては大失敗。
2000万とも3000万ともいわれる餓死者をだす。

これには、政策の無謀さに加えて、天候不順による不作が原因とされている。

が、ユン・チアンは、農作物はとれていたと暴く。
原子力爆弾の開発のために、多くの餓死者が出たという。

このとき、国家主席で党序列ナンバー2の劉小奇は、ソ連からの原爆開発の技術の対価として食料を輸出した。

そのため、人民の食糧がなくなった。
しかし、原爆開発のために餓死者を出したよりは、天候不順だったというほうが、人民を納得させることができる。

ユン・チアンは、公文書を示したり、当時の気象情報や証言を交えたりして、ソ連や東欧諸国への食料輸出の事実を明らかにする。

もちろん、すべてが毛沢東の意向だ。
なんとしてでも、毛沢東は原爆が欲しかった。

人民が餓死してでも原爆開発が優先された、とユン・チアンは実態を冷静に書いていく。

1964年には、初の原爆実験が成功。
中国はアジア発の原爆所有国となる。

文化大革命で粛清の嵐

1966年。
文化大革命がはじまる。

毛沢東の権力闘争の文化大革命だったが「人民からの要求」という擬態があった。

「反動的、ブルジョワ学術権威を摘発せよ!」
「まず破壊せよ!建設はそこから生まれる!」

若者は叫んで、暴力と破壊に走る。
毛沢東の神格化の教育を受けた若者たちだ。
混乱が全国に広がる。

毛沢東の4人目の妻の紅青は、文化大革命の指導組織の “ 革命委員会 ” の幹部となる。

ちなにみに、紅青は毛沢東の死去の直後に逮捕。
1990年に獄中で自殺する。

1968年。
フランス留学の経験があった鄧小平も、農村への追放となり強制労働となる。
有能さは認められていたので、命だけは助かる。

国防部長(大臣)の彭徳懐は、スパイ容疑で拘束。
何十回も批闘大会に引き出されて、毎日のように革靴で蹴れれて棍棒で殴られる。

その後、8年間にわたり拘束され死亡。
死は公表されなかった。

1969年。
劉小奇死去。
妻の王光美も批闘大会では、群集から罵声を浴びて、殴られ蹴られた。

1971年。
劉小奇亡きあとに党序列ナンバー2についた林彪が、毛沢東暗殺計画を計画するが失敗。

飛行機でソ連に逃亡。
燃料不足のため途中で墜落して死亡。

1976年。
社会が疲弊して文化大革命は収束していく。
死者40万人とも2000万人以上とも。

1月、党序列ナンバー3の周恩来が病死、78歳。
葬儀の沿道には、亡骸を見送る人民が100万人集まった。

9月、朱徳死去、90歳。
最も古い政敵であったが、政治には関与を示さずに、軍の元帥でもあったので粛清は逃れた。

同9月、毛沢東死去、82歳。

事細かに書かれていて、恐さと悲惨さで天井を眺めてしまう読書となっている。

実務家の周恩来

この本では、周恩来も名脇役といったいい味を出している。

国務院総理、周恩来。
党序列ナンバー3、周恩来。

生え抜きの党幹部として、50年近くも毛沢東の側近として脇を固める。

政権の外交を一手に引き受ける。
弁舌巧みで、各国との交渉や議論の場で活躍。

高潔な人格者だと、有能だと、政治家として一流だと、評判が悪い共産党の幹部にしては外国受けがいい。

中国の外交の立役者と称賛される。

外交だけではない。
軍事指揮も、経済政策も、行政指導までも、幅広く実績を上げていく。

周恩来がいなかったら、毛沢東の中国は運営できなかったのではないのか。
そう思うほど、実務家として活躍する。

毛沢東の思いつきの命令や発言でおきる混乱には、収束させるために毎回といっていいほど周恩来が駆け回る。

むごい周恩来

にもかかわらず。
ユン・チアンは、周恩来については容赦ない。

卑屈なまでに従順な周恩来。
奴隷の周恩来。
忠実な手先の周恩来。

言いがかりの罪で脅されていた周恩来。
長年にわたり言いなりになっている周恩来。
あげく、マゾヒストの周恩来、とまでも書き立てる。

それ以外にも、ちょこちょことした部分も抜粋すると以下である。

周恩来は、いたぶられた。
周恩来は、いびられた。
周恩来は、脅され小突き回された。
周恩来は、警告に震え上がった。
周恩来は、苦しめられた。

という具合に、所々で毛沢東にシメられているというのか、普通に個人的に八つ当たりされている。
なんの落ち度もないのに。

ある意味、毛沢東とは家族ぐるみの付き合いともいえる。

たとえば、毛沢東の妻の紅青がヒステリーをおこす。
それをなだめるのも周恩来だ。
1度や2度ではない。
一晩中話をきく。

あるときなどは、毛沢東が新しい目薬をさそうとする。
すると周恩来は、目薬がどのくらい染みるのか、自ら実験台となるという芸の細かさも見せる。

国務院総理なのに。

打たれ強い周恩来

周恩来の打たれ強さは、驚異的である。

幹部の面前で、毛沢東から批判されても屈辱に耐える。
1度や2度ではない。

周恩来は、大会や会議の場で、生涯で100回は自己批判をしたという。

自己批判とは、文字通り自分で自分を批判するのだ。
皆が見ている前で。

「私はこのようなところが間違ってました」とか。
「私はこのような誤りを犯してました」とか。
「私はこういうところが卑劣でした」などと。

もちろん、毛沢東がやらせる。
が、巧妙な毛沢東は「やれ」とはいわない。

「反革命的ではないのか?」などと、言いがかり的につぶやくだけで周恩来は察する。

あるときの党大会など、数日かけて自己批判の原稿を書いて、読み上げるのに1日では終わらずに、2日をかけている。

すごすぎる、周恩来。
それをジッと聞いている党員もすごい。

というか、そんな大会をさせる毛沢東もすごい。
いや、みんな狂っている。

マゾヒストの周恩来

よっぽどユン・チアンは、周恩来はマゾヒストだと強調したいのか。

外交の席でも、周恩来の椅子だけがボロいものにされている様子が写真入りで解説されている。

これは周恩来が失態を犯した直後のこと。
毛沢東は、罰として屈辱の刑を与えたのだという。

ロシアの政治家の葬儀に出席した周恩来の写真もある。
この解説は悪意に満ちている。

葬儀の参会者の列が、冬の大通りを進んでいく場面だ。
その列に周恩来がいた。

すると『周恩来は、暑さ寒さに耐えられる特異さがあった』という1行を余計に加えている。

そこは推測でしょ!
特異でもなんでもないでしょ!

この本は読んでいて恐ろしいが、上下巻で唯一笑えた箇所がそこだった。

ユン・チアン、毛沢東神聖化が解けてない説

この周恩来の扱いについては「なんで?」と驚く。

毛沢東については、どんな残虐さを晒してもピタッと悪意がとまって、客観的な目線を徹底して書き進めている。
決して「サディスト毛沢東」など書かない。

周恩来になると悪意がむき出しになる。
普通にしていても、憶測を交えて散々と書かれている。
「マゾヒスト周恩来」に納得してしまう。

ユン・チアンは、客観的な目線に徹底しているとは考えすぎだったのかもしれない。

もしかしたら、毛沢東の神聖化の教育から、未だに解かれてないだけかもしれない。

ギリギリのところで毛沢東を卑下できなくて、その分も合わせて、周恩来に圧しかかってる気がしないでもない。

だって、ユン・チアンにとっては、周恩来は恩人に近い。
わるく書く必要がない。
前作の「ワイルド・スワン」での場面から、そういえる。

文化大革命の最中だ。
少女のユン・チアンと共産党幹部の母親は、北京の紫禁城まで陳情にいく。
夫への迫害をやめさせようとしてだった。

運良く会議をしていた周恩来に出くわした。
惨状を直訴すると、周恩来は親身になって事情を聞く。

すべてを聞いた周恩来は、署名入りの文書を渡す。
地元の幹部に向けて、配慮を促す内容だった。

が、この行為は、反革命として攻撃される恐れもある。

母親は、時期がくるまで文書は没収されてはいけないと、靴の甲に縫いこんで隠す。

この文書は、後年になってから役立ちもする。
周恩来は、一家を助けてくれたのだ。

それなのに。
無残に周恩来の実態を暴露していく。

ともかく周恩来は、毛沢東に次いでリアルな人物像が描かれている。

ラストの10ページほど

1976年。
82歳になった毛沢東は、急速に体力が衰えてきていた。

失意が身を焦がしていた。
自身の不遇を嘆いてばかりだった。

何十年も熱望し続けていた超大国の座は、ついに手にすることができなかった。

自分の無謀な悪政が原因で、7000万人以上の人民を非業の死へ追いやったにもかかわらず、自己憐憫の感情だけが日々を埋めていた。

クーデターも恐れていた。
文化大革命では、息のかかった党員と軍の幹部を多く入れ替えていたのだが、それでも軍を掌握できなかった。
指揮権も失っていた。

文化大革命で、行政も機能不全に陥っていた。
立て直すために復職した党幹部は、鄧小平を中心に、公然と毛沢東へ対抗する姿勢を示していた。

腹心の周恩来は、この年のはじめに78歳で死去していた。

そのほかに、側近として働いてきた幹部の大多数が、もう、この世に亡かった。

ほとんどは、文化大革命という名の大粛清で死に追いやっていたのである。

毛沢東は、少なくとも1年前から自分の死を予期していたが、遺言も残さずに、後継者も指名することなかった。

ごく近い者たちには「自分の死後には動乱がおきて血の雨が降り、血なまぐさい風が吹くだろう」と話もした。

すべて、この世でのことが大事。
死んだ後のことなど関心がない。

自分さえ権力の座についたまま死ねるのなら、死後、名を残すことなど考えてない。

体力は衰えても頭脳は明晰であり、権力に対して考えを巡らせていた。

ある日。
ベッドで寝る毛沢東から「とても気分が悪い。医者を呼んでくれ」という声を看護師が聞いた。

これが最後の言葉だった。
まもなく意識を失った。

1976年9月9日、午前零時10分、毛沢東は死んだ。

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