見出し画像

没後90年記念 岸田劉生展@東京ステーションギャラリー

学び、自己鍛錬に関しては、昔の人にはかなわない。

それにくらべれば、今の僕らの学びに対する姿勢など、ないにも等しいと自己嫌悪的に思えるくらい、たとえば、明治期を生きた人たちの当時の学びへの姿勢をみるとその覚悟と実際の学びの結果の強さを感じる。

これは本当にもうずっと前から事あるごとに感じていたことで、だからこそ、なんとかすこしでもそれに近づこうと学びは怠らないようには日々過ごしているつもりだ。

だが、それが「つもりでしかないかも」と思えたのは、昨日も東京ステーションギャラリーで行われている「没後90年記念 岸田劉生展」での岸田劉生の「絵を描く」ということへの取り組み、その結果を目の当たりにして、昔の人々の学びの姿勢の強度をあらためて感じたからだ。

38歳という若くして死ぬことになる長くはない人生のなかで、岸田劉生という人がみずからの身体を蝕む病と付き合いながらも、絵画というものに対して、実にさまざまな取り組みを行ってきたことをこの回顧展は感じさせてくれた。

麗子像にいたる道、その後の道

岸田劉生といえば、何をおいても愛娘である麗子を描いた一連の「麗子像」群だろう。

今回、ポスターにもなっている作品は、劉生がはじめて書いた5歳の頃の麗子の姿だ。劉生27歳のときの作品。死ぬまで残り11年というところで、最初の麗子像は描かれている。

劉生という人は、モデルをよく見て描こうとした人だから、5歳の麗子にじっとしていてもらおうとしていたのには苦労したらしい。いや、描く劉生だけでなく、麗子の方も困っただろう。その困惑がよく表情にあらわれていて、今回複数展示されていた麗子像のなかでいちばん良いなと思った作品だ。

その後も、着物を着て座ったり立ったりしている麗子を描いたもの、洋装のドレスを着た麗子を描いたものなど、たくさんあるが、どの作品の麗子も正直微妙な表情をしている。
後に麗子が語ったところによれば、何時間もじっとさせられるので足も痛くなったりして涙が出ることもあったそうだ。だが、父は着物の柄を描くのに一生懸命で、娘の涙に気づかず、娘は父に気づかれないよう上を向いて涙が頬をつたうことがないようにしたのだという。

しかし、劉生が描いたのは、娘の麗子だけではなかった。妻も描いたし、それ以上に友人、知人たちの肖像を何枚も描いている。レンブラントなみに自画像も多い。あまりに多く描こうとするので、友人たちのあいだでは、「劉生の首狩り」と言われていたらしい。

そうして何枚も人物像を繰り返し描きながら、ゴーギャンでもゴッホでもない、自分の絵を劉生は見つけだそうとした。その1つの到達点が麗子像であるし、それはまた劉生に違う道へと進むための中間到達点でもあったように感じた。

ゴーギャンやゴッホを超えて

さて、ゴーギャンやゴッホでもない、自分の絵を劉生が人物画を描きながら模索を進めたと書いたが、岸田劉生は初期には人物画ではなく、風景画をよく描く画家だった。黒田清輝が主宰する白馬会葵橋洋画研究所で油彩を学びはじめた頃は、地味な色彩で比較的輪郭も明確な作風で描いていたが、あるときに見たゴッホやゴーギャンなどの後期印象派の作品に衝撃を受けて、彼らのような鮮やかな色彩で輪郭が明確ではない、激しいタッチの作品を描くようになる。

観ていて思ったのは、これは海を隔てたナビ派だなということだ。19世紀末のポール・セリュジエやピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤールらによるナビ派もまた、ゴーギャンに指導を受けたセリュジエの「タリスマン」(下写真)に代表される鮮やかな色彩と大胆なタッチの作品が多い。

劉生が1912年以降のしばらくのあいだ描いたのも、ゴーギャンやゴッホらを起点とし、独自の研鑽を重ねた、日本におけるナビ派のようなものであったように思う。

しかし、そうしたゴーギャンやゴッホの影響下で描き続けることに疑問を感じた劉生は、先に書いたように「首狩り」を通じて、自分の絵の模索を行う。その過程では、レオナルドなどのルネサンス画家やデューラーなどの北方ルネサンスの画家たちの研究も行っている。

そうした研鑽の後、彼はふたたび風景を描くことになる。

100年前の東京

東京・銀座に生まれた劉生は、初期には、数寄屋橋や新橋などの風景を描いているし、後に引越した先の代々木の風景などを描き残している。

数寄屋橋や新橋などは、1910年にもなれば、開発が進んで、西洋風の建物も並び、人通りもある街として描かれているが、それより後の年代に描かれた代々木などはまだこれから開発が進められようとしている、木々などが伐採されて赤土が剥き出しになった殺伐とした風景として描かれている。なるほど1910年代では代々木ですら、こんなに何もない場所だったんだなと思った。

そうした時代を感じる別の東京の景色に想いを馳せることができた点でも面白かった。

その1枚の代々木の切り通しを描いた作品が、5歳の麗子像と並んで、今回の展覧会のポスターにもなっていたが、なるほど、とても良い作品なのだ。

いや、この作品だけではなく、首狩りの研鑽を経て描かれた代々木時代の劉生の風景画はどれも良い。自分の絵を模索していただけあって、誰にも似ていない独自の風景画になっている。晩年、満洲に渡った劉生はそこでもまた風景画を描いているが、それもまた良い。

しかし、その良い風景画が描けなくなる事態が劉生をおそう。病である。

病のなかでの画風の広がり

岸田劉生という人がすごいなと思うのは、病で外出がままならなくなった後の画風の広がりだ。

まずは、外に出られなくなった彼は、静物画を描きはじめる。

林檎や食器、そして、彼が好んで描いた冬瓜。

その静物画は、西洋で繰り返し描かれてきた静物画とはまったく似ていない。まず、描かれているもののレイアウトも画面のなかに置かれた物の数も違う。比較的、ごてごてといろんなものを置きたがる西洋の静物画(それは博物学的な文化の上にあることを忘れてはならない)と比べて、質素とも貧相ともいえるシンプルな構成だ。
また、描き方そのものも代々木の風景画を経た後の彼の作品らしく、同じように写実的に描かれたネーデルラントのそれと比べて抑制がきいていて派手さがない。それは日本の湿度の高い光の下で描いたからなのかもしれない。

そして、劉生はそこにとどまらず、日本画へと向かう。今回の展覧会を観るまで、岸田劉生が日本画を描いていたことは知らなかった。
日本画の手法を用いて、油彩で描いたのと同様に、冬瓜などの静物画を描いている。それは軸などの日本画の伝統的な装丁もされているので、言われなければ、それが岸田劉生が描いたものだなどとは思わない。

そして、その後、死が間近に迫った晩年に、満洲に行き、ふたたび油彩画をはじめ、そこでもこれまでとは異なる画風が展開されそうな予感を残している。
そう、ここまで劉生の学び、自己研鑽は徹底しているのだ。

しかし、その予感は予感のままで終わる。死が予感を現実にする時間を劉生に与えなかった。

東京ステーションギャラリー

今回の展覧会の会場である、東京ステーションギャラリーは、1914年に建てられた東京駅の煉瓦づくりの建物を利用している。
そのため、展示室の壁や階段エリアにこのように当時の煉瓦の味わいあるテクスチャーを感じとることができる。
1914年だから、ちょうど岸田劉生が代々木に引越した頃だ。もうすこし早くできていたら、数寄屋橋や新橋などを描いていた彼がこの東京駅も描いていたかもしれない。

パリのルーヴル美術館を代表として、ヨーロッパの美術館は王侯貴族の住んでいた宮殿をはじめ、若いものでも200年はゆうに経過している建物をベースにしたものが多いので、建物自体の歴史が作品とシンクロすることが多い。

だが、日本だと比較的歴史のあるコルビジュエが設計した国立西洋美術館でさえ、1959年の開館だから60年の歴史しかない。

その意味では、この東京ステーションギャラリーという展示会場は貴重な場所だと思った。
写真が撮れないのは残念だけど。

岸田劉生展は、今月20日まで開催中。

没後90年記念 岸田劉生展
会期:2019年8月31日〜10月20日
会場:東京ステーションギャラリー
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html

この記事が参加している募集

イベントレポ

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。