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ウィ・アー・ザ・ワールド

全体があると想像することは、悪い考えを生んでしまう。なんらかの全体を想定して、それが上手くいっていないことを理由に、その責任の所在を問う姿勢は、全体を想定しつつもその内部で非理性的な対立を生む。簡単に言えば、上手くいかないことをとにかく自分以外の誰かのせいにしてしまうような否定的な態度を。

「エコロジーは私たちに、たとえ否定的なあり方であろうとも、事実上私たちは世界であるということを思い出させてきた」と、ティモシー・モートンは『自然なきエコロジー』で書いている。
この「否定的なあり方」の例として、モートンは次のような例を挙げ、それが「私たちは世界である」という自覚を促す契機となっていることを指摘する。

唯物論的な歴史用語で言うならば、環境の現象は、グローバルな温暖化やアジアの「黄砂」なチェルノブイリの汚染のような環境にとって否定的なものへの自覚をうながすかぎりにおいて、弁証法的な相互作用に関与している。

私たちが日々行なっていることがグローバルな範囲で地球環境に影響を与えるという意味では間違いなく、私たちは世界である。でも、私たちをどれだけ集めても世界全体にはならない。私たちは「全体」を把握できるほど、心が広くはない。

動物およびその同類をどうしたらいいかを知っていたら、私たちには、意識の苦痛な消耗から一休みできただろう。「私たちは世界だ」と叫ぶことができるし、それは本当であるかもしれない。もちろん、私たちが奇妙なものとの一体性へと溶解されていくのをビデオ映像で見ることは私たちにはできない。そして、エコロジカルライティングも、他者の映る鏡に向かって身を打ち続けている。

と、モートンが書くとき、全体を超えでる「奇妙なもの」が常に存在することが想定される。それは時には、非人間としての動物であるし、自分たちとは違う文化にある人びとだし、あるいは非有機体的な何かであるかもしれない。"We are the world"と歌っても、その"we"そのものから除外される不気味なものが常にある。

どれだけの人の意見を結集しても、すべての者の考えをまとめたものにはならない。不在の者が必ずいる。それは未来の自分自身かもしれないし、過去の祖先かもしれない。だから、全体の意見などはない。動的に変化する世界には全体というものがないからだ。

けれど、人新世という用語が取り沙汰されるくらい、「残念ながら、私たちは世界である」。人新世は、ノーベル賞科学者のパウル・クルッツェンが提唱した、人類の活動が地質学的変化を地球に刻み込んでいることを示す、現在の地質学的時代を指す用語。その観点ではやはり「私たちは世界である」。

いや、何もここで環境問題を論じたいわけではない。
考えたいのは「世界」とか「全体」とかを雑に扱ってしまうことで生じる、排他的な思考だ。 私たちは世界であるのに、そこから誰かを常に除外しようとする。ユートピア的な思想をもつ人ほど、常に外部に対して文句を言いがちだ。上手くいかないのは、自分(たち)以外のせいにしてしまう。

ふたたびモートンから。

J・R・R・トールキンの3部作『指輪物語』のホビット庄は、世界という球体を、有機的な村として描いている。トールキンは、管理されているが自然なままのようにも見える環境に住み着いている郊外居住者、すなわち「小人」の勝利を語っている。彼らが穴の中にいるとき、グローバルな政治の広大な世界は、地平線の彼方に半ば隠れて、彼らには、喜ばしくも感知し得ないものとなる。

そう。これこそ、自分たち以外の外部を除外した全体を夢想した、わかりやすい例だろう。

僕らも日常的にこうした牧歌的な理想を思い描き、それに相応しくないものを排除したり非難したりしてしまう。良かれと思って、自分たちの良いの基準に当てはまらないものを「悪者」として扱って批判する。より良き世界を目指すために、それらは相応しくないからだ。
しかし、その世界はあまりに偏狭だ。

ウィー・アー・ザ・ワールド、ウィー・アー・ザ・チルドレン。

モートンはこう続ける。

トールキンの3部作は、決定的に重要なナショナリストの幻想を体現している。すなわち、「世界」は現実的で手ごたえのあるものでありながら未知のものであるという感覚だが、そうすることでイメージの換喩的な連鎖--歪像の形態--を呼び覚ます。『指輪物語』は、言語、歴史、神話全般だけでなく、周囲をとりまく世界(Umwelt)をも確立している。もしロマン主義が存続していることの証拠があるとしたら、これこそがまさにそうなのである。

モートンは、ナショナリストとエコロジーの思想の寄って立つものが同じであることを指摘する。そして、そのナショナリズムと共有する、現在のエコロジカルな言表、思考の多くが祖とするものが、ロマン主義に端を発するものだと指摘している。『指輪物語』もまた19世紀のロマン主義の作品の現代版であるというのだ。

19世紀のロマン主義の作家たちは、空虚ではなく、何か未知のものがそこに存在しそうなアンビンエントな環境を詩として実現した。

ワーズワース、コールリッジ、シャーロット・スミス、そしてランドンといったロマン主義の作者たちの自然化された環境詩学は、教会や寺院で焚かれるお香の煙が発する匂いで満たされていく空間と同様の空間をつくりだしている。そこは出来事の起こる余地のある雰囲気ないしは領域であり、密度があって、具現化されていて、緊張の度合いの高められている雰囲気であるが、完全に満たされているのでもなければ、空虚であるというのでもない。

このロマン主義者たちが生みだす空間がエコロジカルな思考を可能にする。それは一見、自分たちとは異なる存在の気配に気づかせ、外にも世界が広がっていることを知るきっかけをつくる。

けれど、それは両刃の剣でもある。きっかけをつくると同時に、人を幻想のうちに安住させもする。ホビットたちのように。

「ロマン主義の用語である文化は、自然(nature)と養育(nurture)のあいだのどこかで揺れ動きつつ、周囲をとりまく世界を喚起する」とも、モートンはいう。人が自分に閉じこもろうとするところを、世界へと押し拡げる機会を与える。
けれど、こうも続ける。

この「事実」には「価値」が吹き込まれている。文化はいいもので、そしてあなたにとっていいものであった、と。

そう。それはやはり誰かにとっての「世界」なのだ。
そして、ほかの誰かはその「世界」からは除外される。「世界」の内にあるものは、やはり、「世界」の外側にあるものを見ない。経験しない。
そんな状態に、僕らも気がつくとなってしまう。世界の外にあるものの気配に耳を傾けず、それらをないもののように見なす。

T・S・エリオットとレイモンド・ウィリアムズは、「文化」を「生活様式の総体」と考えるが、規範的というよりはむしろ記述的なものと考えられているにせよ、それでもそれは強壮でもなければ元気でもない世界の中でユートピア的な円環を保っている。エコロジーは「総体」と「生活」の言語を継承したのだ。

外を排除した「総体」あるいは「全体」。その総体/全体の内部は、残念ながら「強壮でもなければ元気でもない世界の中でユートピア的な円環」となる。
いや、多少のいざこざはあっても、元気がない牧歌的な集落よりも、人やその他のものが入れ替わり立ち替わり活気をもたらしてくれる開かれた環境がよい。

2019年、こうした罠に陥らないようにしたい。
ちゃんと自分と違う考えや価値観をもった人たちの意見にも耳を傾けていこうと思う。

どんなに自分(たち)が良いと思っても、それは自分(たち)の「世界」の規準から見た場合にそう見えるのにすぎない。「ウィ・アー・ザ・ワールド」ではありえない可能性にもちゃんと目を向けたい。

必要なのは、会話することだ。

#エッセイ #コラム #エコロジー #環境 #世界 #ユートピア #対話

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