関係ないものから結果は生じる
関係ありそうなものばかり、周りに集めても期待する結果は得られない。むしろ、それいるの?と思えるものにも手を出しておいた方が結果はついてくる。
無駄なくきれいに整理しすぎてしまった環境からは残念ながら大したものは生まれてこない。ほとんどの場合、何かを生む環境というものを機能主義一辺倒で考えがちだが、その機能を真に機能させるためには一見無駄と思えるものをそこに配置しておかないと、機能を動く前提がその場で成り立たないのだ。ようは、多くの人が何故、事が生じるのか?を見えてる図の部分だけで考えがちで、図が成り立つための地の部分を見落としてしまったり、それはいらないものとして排除してしまったりする。
なにしてんの? その無駄、ほんとは必要なのに…と感じることは日々よくある。あるある。
ということもあり、専門分化の利点は多々あるのは承知の上だが、同時に、専門の枠を超えた思考の必要性を何度でも訴えたくなる。
トランス・ディシプリンと通常なら言うところを、「ミソ・ウトポス」なるキーワードとともに。超えてみる。
専門学に細分化され、厳密だが他学との関連や概念の創造的外挿を忘れた〈知〉のありかたではなくて、できるだけ既存の〈知〉の枠組を取り払い、リアリティーに肉迫できる視座を尋ねもとめる場所が〈ミソ・ウトポス〉なのだ。
この文章、由良君美さんの『椿説泰西浪曼派文学談義』中の一節らしい。「らしい」というのは、実際は高山宏さんの『アレハンドリア』中の引用で読んで知ったからだ。
この「ミソ・ウトポス」なる語、意味としてはユートピアの神話といった意味だそうで、『椿説泰西浪曼派文学談義』の元となった雑誌「ユリイカ」での連鎖タイトルでもあったそうだ。
ユートピアとは、あり得ない場所の謂だとすれば、ミソ・ウトポスすなわち、あり得ない場所の神話である。だが、このあり得なさそうな専門分化の枠を取っ払ったような、要も不要もごちゃ混ぜ状態の中からこそ、何かしら良いものは生まれてくる。常識的な分類で整理されたパーツばかりをいくらお上品に組み上げても、何のインパクトも持たないありきたりのものばかりが生まれてくるだけだ。これ、悲しいくらい事実。まじめにやってると損しかないということに、いい加減気づかないと、ほんと損。
そんな退屈で、わかりきった結果のために、ご丁寧に整理整頓した環境で物事を考え続けても埒はあかない。そんなの嫌だ嫌だ嫌だと思う。まったく無意味でしかなく嫌すぎる。
わかったつもりの無意味な積み木遊び。積み上がったつもりでも、積んでるものにも積み方にもそもそも価値がなければただの無駄なあがき。遊びにもなってない。
「脱領域」への切迫した必要があったのが、空念仏と化して数十年経るうちにすっかり色褪せたというのが実感だ。理系が人文・社会系との接点や干渉を言うには余りにも専門化が過ぎてしまって、文理融合だの脱領域だの声高に言うこと自体、恥ずかしいという状況になっている。「サイエンス」と「テクノロジー」の間ももはや途切れてしまっていて、その黙示録的危険が「フクシマ」で露呈した。
こんな風に嘆く高山宏さんの想いに対して、まったくレベルは違うとはわかっていても、同じように「脱領域」の危機的な状況を日々感じるからこそ、親近感を覚えてしまう。
きれいにわかることを重視してばかりいても、わかろうとしない見捨てた部分にこそ、大事な部分は多々ある。それを単視点でのみ考えて、わかる範囲のものばかりで思考を固めすぎると、置かれた状況のリスクは増えるばかり。
もっと事が何故生じるか?を表面的な動きだけでなく、その動きそのものを成り立たせている前提、背景も踏まえて考えてみないと、幽霊は見つからない。
That's your imagination.
と人から言われるくらいに普通とは異なる見方を日々できるといい。
夢でもみたの?と訊かれて、常に「うん」と答えたい。そのくらい、霊感高めときたい。そんな夢みる目線でいるところを訝しげな目でみる人がいたら、あー、かわいそうにと思いたい。
魔法にかかって、魔法にかけて。魔法は既存の知の領域を軽々とこえていく。
諸学融合を謳った「観念の歴史」派、観念史家たちの発想と営みを牧歌的なものと感じさせるとすれば、そうさせたものは何か、いつ頃そうなったか、よく考えてみる必要がある。哲学が「魔術」をも排さなかった時代があったことが『存在の大いなる連鎖』(1936)一冊見てもわかる。今、魔術的哲学を「オカルト・フィロソフィー」としてカリキュラム化している大学が一体どれ位あるだろう。
ああ、何故、魔術を排除してしまったんだろー? 幽霊だの、ゴーストだのが潜む領域あって、ここの専門領域も新たなものへと変化していく可能性もあるのに。まさにこの引用文中にあるアーサー・O・ラヴジョイの『存在の大いなる連鎖』にも領域を超えての脱領域的な連鎖によるパラダイムの変化の例が示される。最近、よく話題にするライプニッツが生きた17世紀後半から18世紀前半における作庭事情の変化についてである。長いが引用してみる。
造園法は哲学とはかなり離れた話題に思われる。しかしすくなくともある1点においてそれは近代思想の真に哲学的歴史の一部となる。1730年以後フランスとドイツに急速に広まったいわゆる英国風庭園の流行は、モルネ氏および他の人々が証明するように、ローマン主義の、または一種のローマン主義のくさびの刃の部分であった。この流行それ自身--1つには疑いもなく17世紀の過度にきちんとした造園法に対する当然な嫌悪の表現であるが--あらゆる種類の英国かぶれの一例であり、ヴォルテール、プレヴォ、ディドロおよびオランダ在住のユグノーの文筆家がこの一般的風潮を導入したのであった。しかし造園法におけるこのような好みの変化が、芸術全部における好みの変化、実に宇宙における好みの変化の始めとなることになったし、唯一の原因だと私は断定しないにせよ前触れであり、共通原因の1つであることになった。ローマン主義と呼ばれるあの多くの面を持つものは、その1つの面を見ると、世界は英国庭園であるという信念であると言っても不正確ではなかろう。17世紀の神は、当時の庭師のように常に幾何学的な形を目指したのに対しローマン主義の神は、事物が野生で刈り込まれず自然のままの多様な形を豊富にもって生い茂る宇宙の神であった。不規則なものに対する好み、完全に知性化されているものに対する嫌悪、おぼろ気な遠いところへ逃げ去ったものに対する渇望--これらのものは終にはヨーロッパの知的生活のあらゆる点に浸透するのであるが大規模に18世紀初頭に庭園の新しい流行という形で近代として初めて出現した。
英国庭園的なものとしての「不規則なものに対する好み、完全に知性化されているものに対する嫌悪、おぼろ気な遠いところへ逃げ去ったものに対する渇望」自体がある意味、トランスディシプリン、ミソ・ウトポスな感性だと感じるが、そういう感性が領域などに縛られることなく「ヨーロッパの知的生活のあらゆる点に浸透」した18世紀はじめのロマン主義とは、自然のまま、欲望の赴くまま、野性的な感性を働かせた時代に誤解せれがちながら、このロマン主義の感性ほど、既存のあらゆるものを人知的な枠組みにとらわれない、いまのAI的な自動機械ぶりでやたらめったら組み合わせることをした時代であって、それこそ自然っぽく仕立てられたくねくねした小道を歩いていくと突然開かれた場所に中国の塔やら古代ローマの遺跡風の建築物などが現れる英国庭園そのものなのだ。
まさに同時代のイタリア人画家ジョヴァンニ・パオロ・パンニーニが得意としたカプリッチョと呼ばれる建物を現実とは異なる組み合わせで絵になるようにローマの都市を描いた絵はまさにその意味で英国庭園的。例えば国立西洋美術館にある、こんな絵が代表的だ。
時代的なカテゴリーを超えた建築物、彫刻が現実の縛りも関係なく組み合わせられる。まさに、あり得ない場所。ミソ・ウトポスな絵。
この感覚は、これまた18世紀半ばに書かれたローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』のような小説にも、もうすこし後のドイツのロマン主義の詩人・小説家のノヴァーリスの『ザイスの弟子たち』や『青い花』などにも見られるものだ。もちろん、庭を対話的思考の場としたライプニッツの哲学にも。
こういう感覚による発想こそ、いまの時代必要なんじゃないかと思う。
お行儀よくすました頭の使いばかりせずに、こういう脱領域的なロマン主義的な感性による発想が求められると思う。
だけど、みんな、そう動くにはそもそも知識不足なんだよね、きっと。端的に勉強不足。
とりあえず必要と勘違いしてる狭い領域の、みんなが知ってる流行りのトピックばかりに飛びついて、それで、知的好奇心を満たしたつもりになってしまっているのではないか? そんなのぜんぜん必要なものじゃなくて、むしろ、必要ないんじゃないかと誤解してる一見無駄とも思える知識の習得にどれだけ時間と労力を費やせるかどうかじゃなかろうか。
ああ、この生真面目すぎる世の環境をごちゃ混ぜにしてみたい。
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