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イタリア・ルネサンスの文化(上)/ヤーコプ・ブルクハルト

人間とはこういうものだ、なんて想定は、単なるバイアスでしかなくて、まともな思考を曇らす厄介な思いだ。

ヨーロッパ中世やルネサンスの文化史に僕が興味を抱くのは、まさに、500年以上前の人びとの暮らしや思考に目を向けることで、僕らが「人間とはこういうものだ」と信じ込んでいる固定観念を見事に木っ端微塵に吹き飛ばしてくれるからだったりもする。もちろん、それだけが理由じゃないけど。

それほど、ヨーロッパ中世〜ルネサンスの人びとは、自分の都合で他人を殺すし、陥れる。敵対する他人に対してのみならず、家族同士でも自分にとって不都合な人物であれば、罠にはめたり殺傷したりの対象となる。
また、いまなら考えられない、異形な人たちに対する残酷な行い、笑いながら行ったりする。そうしたことが宮廷の饗宴の場や市民たちが集う街の広場において行われるのだ。
とても同じ「人間」とは思えないが、それはあくまで僕らが自分たちの価値観を「人間」的なものだと限定して考えているからにすぎない。

そんなことを、この19世期ドイツの歴史学者ヤーコプ・ブルクハルトが書いた『イタリア・ルネサンスの文化』を読んで、あらためて強く感じた。

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どこもかしこも芸術的で

ブルクハルトのこの本はそのタイトル通り、14世紀から16世紀前半までのルネサンス期と呼ぶことが可能なイタリアにおける文化を扱った歴史書の上下巻の前半半分にあたる。今回読み終えた上巻は、「芸術作品としての国家」「個人の発展」「古代の復活」という3つの章立てで、構成されていた。

日本における戦国時代さながら、群小専制君主たちがそれぞれ支配していたたくさんの専制君主国家が並び立っていた時代の君主たちとそのまわりの軍人を巻き込んでの内外構わずの権力闘争や、同様の奸謀まみれの教皇権争いが描かれると同時に、そうした時代であったからこそ浮かび上がってきた「個人」という概念、そして、それを代表したルネサンス芸術家たちと彼らに対する教皇や君主たちの支援、さらにはそうした芸術家ならず政治的な権威を保証するかのように召喚される古代のローマそしてギリシアの文化がどのように14-16世紀のイタリアの文化に作用したのか、など。読めば読むほど、人間とは何か?という現代を生きる僕らがもつ固定観念が見事なほどにリセットされる。

ブルクハルトが「しばしば、一切の正義を侮り、一切の健全な形成を萌芽のうちに息をとめて、束縛のない利己心のもっとも恐ろしい様相を示す」と書く当時のイタリア専制君主たちの奸謀と暴力にすっかり彩られた政治の側面は、ダンテやペトラルカ、レオナルドやミケランジェロ、ラファエロなどが彩った芸術の側面のコントラストを成す。けれど、そのコントラスのある印象を与える政治と芸術の対立すら、僕ら現代人から見てのことで、両者はブルクハルトが以下に書くような意味で、ともに「芸術的」だったのかもしれない。

しかしこうした方向が克服されるか、どうにかして償われる場合には、1つの新しい生命が、歴史の中に登場する。すなわち、計算され意識された被造物、芸術としての国家である。都市共和国にも専制君主国家にも、この生命は多種多様の形で浮かびでる。そしてそれらの内部形態や外交政策を規定する。

芸術としての国家。
それは外に向けても、内に対しても、常識に囚われない自由でクリエイティブな意識と計算によって、さまざまな奸謀、術策を暴力的に展開していくのだ。

奸謀、術策し放題

現代がGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)とBATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)のようなグローバルに影響を及ぼす企業による技術力による覇権争いが展開される世界だとすれば、ルネサンス期のイタリアは、ミラノやフィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリなど比較的大きな専制君主国家とそれ以外の群小専制君主国家たちによる奸謀と術策と暴力による覇権争いが常に繰り広げられていた世界である。

大きく異なる双方に思えるが、ただ、当時にも現代にも共通するのは覇権を求める動機が大きければ大きいほど、経済的合理性が享受できるという点であった。

これら[専制君主国家]のような政治的体制は、内面的な理由から、その領域が大きければちょうどそれだけ持ちがよいので、いくらかでも強力な専制君主は、つねにより小さいものを併呑する気になっていた。

大きな国家はさらに大きくなり、経済合理性のメリットを得ようとして周囲の小さな国家を兵力によって併呑していった。

しかし権力を求める欲望は外にだけ向けられるのではなかった。この破壊的な欲望は国家の内部に、さらに、家族同士にさえ向けられた。

この外部からの危険には、ほとんどつねに内部の擾乱が呼応した。そしてこの状態が君主に及ぼす反作用は、たいていの場合、非常に破壊的なものでなければならなかった。一方からは偽りの全能、享楽とあらゆる種類の我欲への誘いが、また他の一方からは仇敵と謀反人とが、このような君主を、ほとんどいやおうなしに悪い意味の専制君主にした。せめて自分のごく近い肉親の者だけでも、信頼できたなら!

もちろん、一族内の権力争いや相続をめぐる争いは現代においてもドラマとして描かれることのある普遍的なテーマだと言えるのかもしれない。
けれど、このブルクハルトの本を読む限り、ルネサンス期のイタリアにおいては、権力や相続をめぐっての奸謀や術策が、ドラマに描かれるようにめずらしいことであるというよりも、奸謀や術策を巡らすこと自体がデフォルトになっていたように思える。
特に、ミラノやフィレンツェなどの力をもった国ではなく、小さな専制君主国家において。

概して15世紀の専制君主について言えることは、最悪の事柄は、わりに小さな支配者やごく小さな支配者において、もっとも多く積み重ねられたということである。とくにその場合、家族の一人一人がだれもかも、地位相当に生活しようとする多人数の家系にとっては、相続争いはあたりまえのことだった。カメリーノのベルナルド・ヴァラーノが二人の兄弟をなきものにしたのは〔1434年〕、自分の息子たちがその遺産をもらいたがったからである。

比較的大きな国家ならトップにならずとも、それなりの暮らしは保証されたが、小さな国家になるとトップのまわりに位置しない限り、豊かさは得られなかったということもあるのだろう。

かくして、国家は芸術同様、意識的な反省のもとに創造される構築物となる。

たいていのイタリアの国家は、その国内関係において、芸術作品、すなわち反省に依存する意識的な創造物、正確に計算された目に見えるもろもろの基礎の上に建てられた創造物であるように、国家相互の関係および外国にたいする関係もまた、芸術の作品でなければならなかった。それがほとんどすべて、かなり新しい簒奪にもとっているという事実は、それらの外交関係にとっても国内関係にとっても、宿命的なことである。

そう。ただし、その反省に基づく創造は、内外とも簒奪という暴力的な技法によって行われるという特殊な芸術作品ではあった。

個人主義の台頭

イタリア・ルネサンスといえば、やはり思い浮かぶのは、レオナルドやミケランジェロ、ラファエッロらの絵画や彫刻、あるいはダンテやペトラルカ、ボッカッチョらに代表される詩作などの芸術作品ではないだろうか。
もちろん、中世までも詩も絵画も彫刻も存在していたが、それが特定の個人の作品として評価されることは稀であった。

13世紀の末になると、イタリアには個性的人物がうようよしはじめる。個人主義の上に置かれていた呪縛が、ここでは完全に断ち切られた。無数にある1つ1つの顔が、何の制限もなく、それぞれ特異な相を帯びてくる。
ダンテの偉大な詩は、他のヨーロッパ諸国がまだ種族の呪縛を受けていたという理由だけで、イタリア以外のどこにもありえなかったことであろう。イタリアにとっては、この崇高な詩人は、個性の充溢によって、すでにその時代のもっとも国民的な参加者となった。

「作家」個人が台頭するのは、まさにこのルネサンス期のイタリア以降であることを、僕らは案外忘れがちだ。
ミケランジェロの「ピエタ」同様に、サモトラケのニケにも個人としての芸術家の影を想像してしまいがちだが、その彫刻に職人としての作者はいても、それはルネサンス期以降の芸術家とは異なる存在だったはずである。

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ほかの同時期の各国がいまだ種族に縛られていたのに対して、奸謀、術策まみれの闘争により権力がころころと刷新され続けるイタリアにおいては、そうした呪縛から解放された。

そして、種族の呪縛から解放された個人は文字通り、国に縛られない国際人(コスモポリタン)となる。

才知ゆたかな亡命者たちの中に発展した世界主義(コスモポリタニズム)は、個人主義の1つの最高段階である。すでに述べたように、ダンテは、イタリアの言語と文化に、1つの新しい故郷を見いだすのであるが、しかしそれどころか、「私の故郷は世界である」と言っている。――そして不名誉な条件のもとに、フィレンツェへの帰国が申し出された時、次のような返事を書いている。
「私はどこにいても、太陽や星の光が眺められないでしょうか。どこにいても、もっとも高貴な真理について、瞑想することができないでしょうか。そのためわざわざ名声を捨て、屈辱にあまんじて、故郷の市と市民の前に姿を現わすまでもなく、パンにこと欠くことはさらさらありません」

フィレンツェ、ミラノ、ヴァチカン、そして晩年にはフランスで過ごしたレオナルドをはじめ、ミケランジェロにせよ、ダンテ、ペトラルカにしても、いくつもの専制君主国家を渡り歩いている。

さらに、こうしたコスモポリタンな個人は、これまたレオナルドに代表されるような百科全書的な領域に囚われない広い知識と多才な才能を示した。

百科全書的な知識の人間ならば、全中世を通じて、各国に存在した。そのような知識は狭いところに寄り集まっていたからである。同じく万能芸術家も、12世紀までさかのぼって見られる。建築術の問題は単純で一様だったし、彫刻と絵画においても、表現すべき事柄が、形式よりも重んじられていたからである。
これに反してルネサンス期のイタリアでは、あらゆる領域で新しく、かつその種のものとして完成されたものだけを創造し、そのうえなお、人間としても、このうえもなく偉大な印象を与えるような、数人の芸術家に出会う。そのほか、本職とする芸術のほかに、はてしなく広い精神の領域において、同じく万能な人間もいる。

それは芸術家に限られたことはない。専制君主や教皇も多くの知識に触れ、みずから詩作などを好んでした。
ラファエッロらを擁護し、盛期ルネサンスの芸術の発展に大いに寄与したメディチ家出身の教皇レオ10世もみずから詩作などをよくしたことで知られている。

個人と名声と機知と

こうした多才な能力が、解放された個人と名声を結びつけた。マキアヴェリが『フィレンツェ史』で「ほむべきことで名をあらわすことができずに、恥ずべきことでそれに努めた者が、どんなによくあることであろう!」と書くのをブルクハルトは引用している。「執政者や国家の行為のように、それ自体として偉大さを有する行為は、それがどんな種類のものであり、どんな結果になろうとも、つねに非難よりもむしろ名声をもたらすように見えるものであることを、それらの著者は考慮しなかった」とマキアヴェリが、自分の先輩がフィレンツェの党閥について、慎重に沈黙を守りすぎたことを非難しているというのだ。

そして、この個人の名声という観点において、ルネサンスの文化的に多才な才能が、先に挙げたような奸謀術策を喜んで行う当時の感覚が結びつくのだ。

名声および近代的な名声欲のみならず、高度に発達した個人主義一般をも調整するものは、近代的な嘲笑と侮蔑であり、それが場合によっては機知という無敵の形をとることもある。

と、ブルクハルトは書いている。
他者に対する嘲笑と侮蔑が、才能をもつ個人の名声とそれをもつもの、あるいは、それを失うものと結びつく。

そして、嘲笑と侮蔑の芸として機知(ウィット)が宮廷を中心としたルネサンスの文化において重要なものとなる。

機知が生活の独立的な一要素になりえたのは、やはり、それのきまった犠牲者、すなわち自己のもろもろの要求をそなえた完成された個人が存在するようになってからである。そうなると機知も、もはや言葉や文章の上だけにとどまっていずに、行為にもなってくる。それは茶番を演じ、いたずらをする。ある種の短編小説集の主な内容をなしているいわゆるburle(わるふざけ)やbeffe(嘲笑)がそれである。

このことから、ポール・バロルスキーが『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』で明らかにしたルネサンス美術の悪趣味ともいえる嘲笑と侮蔑の姿勢がなぜ生じたのかがあらためてわかる。

バロルスキーは「ルネサンスの美術と文学はまた、ルネサンスのユーモアと現代のユーモアとの間にありうべき相違をいろいろと示してくれる」と書いていて、例として「好色な老人はルネサンスではしばしば嘲笑の的となったが、現代ではユーモアの対象とはなりにくい」とか、「ルネサンスにおけるユーモアには、今日のわれわれには少々残酷に思えるものもある」と書いているが、ルネサンス期の宮廷に道化師がつきものだったこともその一例だろう。

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道化と宮廷

「14世期にはいるやいなや、ダンテが現られる」という書き出しでブルクハルトが主張しようとするのは、「ダンテこそ、軽蔑の表現において、世界のあらゆる詩人を凌駕する者であり、たとえば詐欺師どもを描いた地獄のあの大風俗画だけをもってしても、巨大な喜劇の最高の名人と呼ばれなければならない」ということだ。

ダンテのその行為を開始の合図として、ペトラルカともども、機知の収集がはじめられ、たとえば同じ14世期のフランコ・サッケッティの短編小説には「うすばか、宮廷の道化、いたずら者、はすっぱ女の口をついて出る恐ろしく単純な言葉」が集め並べられたのだとブルクハルトは書いている。

そこに並べられた要素のひとつでもある道化は、宮廷に住み着いていたり、「婚礼や宴会に、「私が呼ばれなかったのは、私のせいではない」という理屈で割りこんでゆく」ものたちであった。彼らは基本的に「寄生生物もして扱われていたものの、彼らの寄生を許すほど、ルネサンスの文化は機知を求める精神に満ちていたともいえる。

そうした精神は、カトリック教会の最高の地位にあった教皇まで共有されていた。そのことも現代における価値観と当時のそれがまったく異なっていたことをあらためて印象づける事象のひとつだ。

ここでも例に出すべきは教皇レオ10世だろう。「教皇レオ10世がいかにもフィレンツェ人らしく、道化師にたいする特別な愛好を示したのは、まったく注目すべきことである」とブルクハルトは書いている。

「もっとも高尚な精神的享楽を求め、それにおいて倦くことを知らない」この君主でもやはり、食卓に2、3の機知に富む道化師や、大食を芸とする者がはべることを、忍ぶばかりか、これを望んだ。その中に2人の修道士と1人の不具者がいた。祭りのおりには、かれらをわざと古代風の嘲笑をもって、寄生動物としてあつかい、猿や烏をうまいあぶり肉に見せかけて、かれらの前に供した。概して教皇レオは悪ふざけを自分が使うために留保していた。

どうだろう。
こうしたことを教皇みずから楽しんだのだ。

「古代風の嘲笑」とあるが、そこではキリスト教的にみれば、異教の神といえるローマやギリシアの神話の神々の姿が浮かび上がってくる。マンテーニャがマントヴァ公妃イザベラ・デステのために1502年に描いたとされる「徳の庭から悪徳を追放する女神ミネルヴァ」を思い出す。この絵でミネルヴァに追い立てられるのは、サテュロスのような神と不具者たちである。こうして絵にも描かれるような、不具者たちが実際に宮廷にも連れてこられて、嘲笑のまとになっていたのだろう。

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古代に自分たちを重ねて

このあたり、古代に自分たちの生きる基盤となるようなものを見いだしたルネサンス文化は、良くも悪くも、すべてをキリスト教的な教えのもとに思考し行動しようとした中世までとの行動規範、価値観との切断を見ることが可能だ。

そして、その古代への眼差しは、謝肉祭という祭りにも、古代の影との重なりをみることになる。

「当時みずからローマ人と称していた」住民は、ローマ以外のイタリアがかれらにささげた熱狂を、むさぼるようにして受けとった。われわれは教皇パウルス2世、シクトゥス4世およびアレクサンドル6世の治下に、きらびやかな謝肉祭の行列が行われるのを見るであろう。それは、当時もっとも人気のあった空想上の情景、古代ローマ皇帝たちの凱旋を表わすものであった。何らかの激情がおもてに現われる時は、その形をとらずにはいなかった。

謝肉祭とローマ皇帝たちの凱旋を重ねること。上と下が逆転し、いつもは禁じられ隠されている肉に対する食欲、性欲が思う存分満たされる場である謝肉祭が、古代のローマの皇帝たちの栄えある凱旋と重ねられる。

当時は、古代ローマの客観的な知識が古代の遺跡の発掘によって増大しはじめていた時代でもある。洞窟(グロッタ)のようにして発見された地下に埋れていた古代ローマの遺跡を彩る紋様を、ルネサンス人たちはグロテスクと呼んだ。
教皇レオ10世のために、ラファエロは古代ローマの都市全体の理想的な復興を企てたりもした。

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しかし、そうした古代に対するルネサンス人たちの熱狂も16世紀にもなると下火になりはじめる。古代の書物に自分たちの規範を読み解き、そのことによって評価されていた人文主義者たちも、その頃には徐々に信頼を失いはじめる。

古代はかれらの倫理をみだすだけで、古代自体の倫理をかれらに伝えるわけではない。そして宗教的な事柄においても、既成の神々の信仰をとりいれることはさすがに問題にならなかったので、古代は主として懐疑的否定的な側面から、かれらに影響した。かれらが古代を絶対なものとして、つまり一切の思考と行動の模範として把握したので、この点かえって不利なことになった。

その後、14世紀、15世期とルネサンスの文化を彩った人文主義者たちの古代崇拝は影を潜めることになる。

「しかし、古代の世界とその産物を完全な偏狭さをもって神格化した一時代が存在したということは、もはや個々の人間の罪ではなくて、より高い歴史的な摂理であった」とブルクハルトはいう。確かに古代への崇拝は失われたが、それで元どおりの中世までのようなところに回帰したわけではまったくないことは、僕らは知っている。

それ以後の時代および将来の時代のすべての文化は、それが起こったという事実、そしてそれが、当時あんなにもまったく一面的に、他のあらゆる生活目標を閑却して行われたという事実にもとづいている。

そう。古代に目を向けたルネサンスの人文主義者たちの活動があって、近代は幕をあけ、僕らのこの世界があることは疑いようはない。
だからこそ、よけいにルネサンスの文化と僕らの文化のあいだの大きな違いに驚かれたりもする。

特に、ルネサンス精神と道化や謝肉祭的なものとの関係への興味がわいたので、この本を読み終えたあと、15世期の後半から16世紀の半ばまでを生きたフランス・ルネサンスの作家フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュア』を読んだ。ブルクハルトの描くイタリアの文化との違いも感じつつ、機知という面での共通点は感じられ、面白かった。その話はまた次の機会に書いてみたい。


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