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三体Ⅱ 黒暗森林/劉慈欣

「あの時代は、みんなが死ぬほど怯えてて、莫迦なことが山ほど起きたから」

読み終えた、劉慈欣(リウ・ツーシン)の『三体Ⅱ 黒暗森林』を。
みんなが怯えてて莫迦なことが山ほど起きている状況で。

読みながら、人間は、怯えて混乱して莫迦になってる状況と、怯えにとらわれることなく呆けている状況のいずれかしかないのかもしれないと思った。
ようは、どちらにしても賢い選択などできないのかもしれないのかと。

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予測できないことが起こった世界で

この『三体Ⅱ』は、前作『三体』が2006年に連載され、2008年1月に単行本化されたあと、早くも同年5月には出版されている。
次作の『三体Ⅲ』は中国では2010年に出版されているのだから、すでにそこから10年が経っているわけだ。
2014年に英訳され、2015年に世界最大のSF賞といわれるヒューゴ賞長編部門をアジア人作家としてはじめて受賞。その世界的名作がはじめて日本語訳され出版されたのが、昨年の7月である。

僕がその1作目である『三体』を読んだのも、昨年の7月の後半だ。
だいたい11ヶ月前のことだ。
その時から世界は大きく変わった。
現実の世界も、『三体』のなかの世界も。
だからこそ、1作目以上にひかれた。ひきつけられた。

その当時の書評noteで、僕は「予測できないということと実現が不可能なこととは違う」と書いている。そして、こう続けている。

数学的に予測できなくとも、物理的に可能なことなら起こりうる。どんなにそれが驚くべき現象だったとしても。
ミクロのレベルで次元が11に折りたたまれていることに関しても知るのはそれのみ、それ以上の知識は得ていない人類は、まだまだ他にも知らないことばかりで、物理学的に完璧な知見をもっていない。だから、起こりうることが数学的に予測できないだけでなく、何が物理的に可能かも十分知らないために、不可能だと思っていたことも実は起こりうる。僕らは無知ゆえに予想外の自体に驚くが、どんなに驚くべき現象もあくまで物理法則に従ったもので物理学的には驚くべきものではない。

そう、あのとき、「どんなに驚くべき現象もあくまで物理法則に従ったもので物理学的には驚くべきものではない」と書いたが、それでも僕らは予想だにしない変化に驚く。
驚いて右往左往しているのが、いまの状況だ。

それは予想する努力を怠って平和にのほほんと暮らしているからでもあるし、予想していたのにまったく予想外のことが僕らの知識の狭さによって起こりうるからであろう。

すくなくとも、そんな予想だにしなかったことが起こってしまった世界を、僕らはこの『三体』のなかの世界の人々と共有している。

危機は人間を極限まで利己的にする

もちろん、『三体』のなかの世界のほうが危機の度合いが比較にならないくらい高いのだけど、それでも、その危機をいったん脱すれば、自粛がとけた僕たちのように、こんな風に感じられるのだろう。

「さあ、わたしも知りません」看護師もかぶりを振って、「あの時代は、みんなが死ぬほど怯えてて、莫迦なことが山ほど起きたから」と言った。

死ぬほど怯えてる僕らはいまだに、自分とは異なる考えをもつ人々の言動を安易に批判したり、自分の思いに反する出来事が起こるとヒステリックに非難したり、無茶な自粛もすれば、無謀すぎる無計画無警戒な行動をとったりと莫迦なことを山ほどしている。

「社会がぴりぴりして、なにかうっかりしたことを口にしようものなら、ETOだとか反人類主義者だとかレッテルを貼られるから、みんなびくびくしていた。それから、黄金時代の映画やテレビ番組が規制されはじめて、やがて全世界で禁止になった。もちろん、数が多すぎて完全に禁止なんかできなかったがな」

危機的状況において、怯えた人間がとりうる思考や行動は、平時の感覚からすると、愚かしく凶暴で残酷だ。
そして、何より利己的で、自分を救うためには他人を蹴落とそうとするようなところがある。

その現在でもみられるものの、何倍もものすごい狂騒がこの人類の危機の物語には描かれる。

だからこそ、この僕らのこの現在の危機について考える機会とするためのヒントがいろいろあるように感じながら読んだ。

ヒーローはいつも損な役回り

もちろん、そんな説教くさい内容ではなく、第1作以上に、どんどん引き込まれて読み進めたくなる優れたエンターテイメントだ。

本来むずかしくなってもおかしくなさそうな宇宙の知識や科学の知識に触れるのに、わかりやすくてすんなりと入ってきて、ストーリーを邪魔しない。
このあたり、中国本国のみならず、世界各国でベストセラーとなっているSF作品である。

だが、この面白さを伝えようにも、例によって、この手の本を紹介するのはむずかしい。
ネタバレを避けようとすれば、どうしても抽象的にならざるを得ないからだ。

だが、それもいいだろう。
僕の本の紹介は多かれ少なかれいつもそんな感じなところはあるのだから。

さて、上下巻からなる『三体Ⅱ』は、プロローグと3つの章(面壁者・呪文・黒暗森林)より構成されている。
多くのSF作品同様、この作品でも、人類絶滅の危機的状況に対して、人々はこの危機から救ってくれそうなヒーローに希望を託す。1章のタイトルともなっている「面壁者」がそのヒーローたちのこの世界での呼名だ。
「たち」と書いたように、アベンジャーズよろしく、この世界も複数のヒーローたちに危機からの生還が託される。

スピルバーグが「スターウォーズ」叙事詩を描く際の参考にもした、ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で明らかにしたように、英雄はいきなり日常の空間からまったく未知の空間に飛び込む羽目になりながらも、その冒険の旅のなかで知恵と勇気を振り絞って、危機をもたらす敵に打ち勝つことが期待される
それが古今東西、どんな物語においてもヒーローを取り囲む物語の基本構成だ。

しかし、人類そのものを滅亡させようと遠い宇宙から迫りくる圧倒的な力をもった侵略者に立ち向かわなくてはならない運命を背負ったヒーローというのは、なんとも不憫である。
無茶苦茶な運命を担わされているにも関わらず、すこしでも失敗したり、いや、失敗するかもと思われる振る舞いを見せるだけでも、自分ではなにもしていない一般の人々に叩かれる。しかも、滅茶苦茶に。

それはコロナ対策のためにいろんな取り組みをしてくれている人に対する世の中の反応をみれば容易に想像がつくだろう。
この物語でもまたヒーローは、そんな損な役回りを引き受けながら、危機を脱するための方策を探るのだ。

SF世界の王と道化

多くの豊穣の神(と女神)が、冬の不毛から春の新生という自然の変化に対応するような形で死に、また蘇るのと同様、中心の力の体現者たる王も同じ過程を演じてきた。そして不毛性は王の力に対する愚弄であるが故に、王は非常に早くから、自然の大災害の脅威を体現し、あまつさえ計算ずくで人々の愚弄の対象となる分身を持つようになったのである。

『道化と笏杖』で、ウィリアム・ウィルフォードがこう明らかにしているように、古代世界において、王とは自然=運命を司るものであり、成功したヒーローのその後の姿である。

危機を見事に脱したヒーローは、自然の猛威に打ち勝つ力をもったことで王となり、逆に、自分の表裏一体の存在として「自然の大災害の脅威を体現し、あまつさえ計算ずくで人々の愚弄の対象となる分身を持つ」ようになるわけである。それが道化=フールであり、王が自然=脅威のコントロールに失敗したときに代わりに民衆の怒りを一身に受ける贖罪山羊である。

短い期間のあいだ王の権威の幾ばくかを与えられた後、贖罪山羊として虐待され、殺されさえする身分低き者、すなわち偽王の制度こそが、1人の王が、重荷の下に滅び、超自然的に蘇るという、もっと古代の複合体内部の役割が分化したものである。

この表裏一体の王と道化の役回りを、この『三体Ⅱ』という物語のヒーローである面壁者たちは一手に引き受ける。
さんざん期待されて敬われてきたあげく、宇宙より迫りくる危機に打ち勝てなさそうだと判断されると、民衆に石を投げられたりする損な役回りのスケープゴートだ。まったく掌を返すとはこのことだ。

もちろん、そうした民衆の身勝手な掌返しはいまも変わらない。何度となく繰り返される本書の掌返しの様子に、民衆ほど無責任かつ残酷な存在はないとさえ感じた。
それはある意味、宇宙から迫りくるどんな危機よりも無慈悲で卑劣だ。

だからこそ、面壁者のひとりがこう言うのだ。

「どうしてこんなことになったんだ?」(中略)「それについては、なんの不思議もない」レイ・ディアスは窓際の席にすわって、外から射し込む太陽の光を楽しんでいた。「いま現在、人類の生存にとって最大の障害が、人類自身だからな」

この障害によってことごとく邪魔をされながらも、その邪魔をする者たちを救うために、面壁者は、わかりあえない同士である敵と知恵比べをするのだ。

遠く遠く、光の速度ですら4年以上離れた、コミュニケーションなど成り立ちようのない敵との知恵比べ。距離だけでなく、文化や思考の違いが両者を分ける。
しかも、そんな敵を相手にしているあいだも、身近なものが喝采と誹謗中傷を交互に浴びせる。
そんな境遇にあるヒーローとは、ある意味、道化そのものだ。

あるいは、単なる虫けらなのかもしれない。カフカがずっと昔に見抜いていたように。そして、この物語が虫けらである一匹のアリの視点ではじまるように。

宇宙から迫りくる敵がいようといまいと

ところで、この物語のキーとなるのが宇宙物理学の世界で昔から議論される「フェルミのパラドックス」である。
簡単にいえば、宇宙年齢の長さと膨大な数の恒星の数から考えれば、地球外生命体が存在して、中には地球人同様またはそれ以上の知的生命体が存在してよいはずなのに、何故僕らは彼らといまだ出会えていないのか?という問いである。

実際、この物語には、フェルミのパラドックスを破って、地球外知的生命体が登場し、地球人を絶滅の危機に陥れる。
この物語は、何光年も離れた星からやってくる絶滅の危機を、400数年のリミットで待つ地球人たちの狂騒の物語である。
そのリミットまでのあいだにどうその危機を乗り越えるため、知力や科学力では圧倒的に上回る相手を乗り越える方策を考えつけるか? それが、この物語の世界の地球人、そして、その難題を地球上の人類全員から押し付けられたヒーロー、面壁者に与えられた難題である。

ところが、ガイア理論の提唱者ジェームズ・ラヴロックは先日紹介した最新著作『ノヴァセン』で、そもそも、この広い宇宙に知的生命体は僕ら人類だけだと断言している。

「コスモスについて知る能力をもつ生物を育むことができたのは、地球だけだとわたしは確信している」とラヴロックは言い、その人類が「同時に、その存在が危機に瀕していることも確かだ」とも言っていた。
地球外知的生命体が存在するという『三体Ⅱ』での滅亡の危機とは理由は異なっていたとしても、ラヴロックにとっても「人間はほかに類を見ない特徴的な存在」であるにもかかわらず、宇宙から消えようとしていることに変わりはない

その意味で、この『三体Ⅱ』は、気候変動による危機を迎えている人類がみずからの姿勢を問い直す機会にもなってよい。

ラヴロックはこの滅亡の危機に際して「だからこそ、自らがコスモスを意識するあらゆる瞬間を大事にすべき」で、「コスモスの最大の理解者という至高の立場でいられる時間が急速に終わりに近づくいま、なおさらこの時間を大事にしなければならない」と書いていた。
大事にしなれけば、『三体』の世界のように地球に侵略してくる異星人が存在しなくても、この危機へと向かう道筋を方向転換もせず突き進めば、僕らはそのうち滅亡する

その危機から逃れるため、僕らは、地球外への逃亡を図るのか、そのために、この物語同様、太陽系内の惑星にさまざまな居住可能な宇宙ステーションをつくり、宇宙エレベータでそこに移動できるようにするのだろうか?

滅亡を免れようとするのもタダじゃない

しかし、危機を逃れようとするのもタダじゃないのだ。宇宙ステーションを作るにも、宇宙エレベーターを作るにしても、コストがかかるのだ。

お金だけの話ではない。
エネルギーも、その他の資源もべらぼうに必要なのだ。

議長はおだやかな口調で言った。「まず最初に、みなさんが目の前の状況を直視することを望みます。地球防衛のシステムの構築は、予算が増える一方です。世界経済は同時に急激な衰退に転換しました。人類社会の生活レベルが1世紀後退するという予言は、そう遠くない将来、現実のものとなるでしょう」

滅亡への道を歩みはじめたその足取りを止めるためには、莫大なコストが必要になるのだ。危機への対応の代償が高いことをいまの僕らは知っている。

そして、食い止めるべき危機が、常軌を逸したものであり、僕らの想像も理解もはるかに超えたものであるときには、僕らはそのコストを払えず絶望するしかない。その絶望感がどんなものかもこの物語は教えてくれる。

地球に住めなくなるという絶望。
居住地から遠く離れて、いつ生きるための資源がそこにつくかという不安。

本当に、本当に、よくできた物語だと思った。


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