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ボヌール・デ・ダム百貨店/エミール・ゾラ

創造的破壊。破壊的イノベーション。
一時期に比べると、こうした言葉が聞かれる機会は減ったものの、それはむしろ、そういう意識が浸透して当たり前になってしまったからで、古くからあるイマイチな産業を根こそぎにしてしまうような新しい何かを生み出すことを目論む活動は決して減ってはいないのだろう。
メタバース、WEB3、NFTなどが話題になるのは、そうしたことの一例といえる。

けれど、破壊する方はいいが、破壊される側の人びとはたまったものではない。破壊するなというより、破壊されても破壊された側の生活がなんとかなるような社会的しくみがないなら、安易にイノベーションを肯定するわけにはいかないのではないか。イノベーションを本当の意味で許容できる社会構造が必要だ。

新しいものが古いものを破壊する。
そんな流れが加速しはじめるのが19世紀なんだと思う。

ぽつりぽつりと客が入ってきた。1人の夫人、次に2人連れといった具合だった。店は古びた臭いが立ちこめて薄暗く、人のよさと素朴さを旨とする昔ながらの商法がうち捨てられ、泣いているようにも思われるのだった。だが通りの向こう側には、ドゥニーズを夢中にさせた、紛れもなくボヌール・デ・ダム百貨店が構えていて、ボーデュの店の開け放った入口からショーウインドーが見えた。空はどんより曇ったままだが、季節にしては暖かい雨のおかげで気候は和んできた。日の光を乱反射している埃のような、ぼわっとした白っぽい日差しの中で、百貨店は大盛況だった。

古びて客もほとんどいない昔ながらの服飾店の向かいに、大盛況な百貨店。
エミール・ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』のなかの一文だ。

百貨店という破壊的イノベーション

ここ最近、紹介しているベンヤミンの『パサージュ論』でも明らかなように、19世紀の10年代にあらわれ、20年代に最盛期を迎えるパサージュという大量生産の商品が人びとを魅力するしくみが、60-70年代になるとさらに大規模な商業流通のシステムとしての百貨店に取って代わられる。

そんな時代を描いたのが、このゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』という小説だ。

「ああ、なんてすてきなんでしょう! これがパリのお店よ!」

冒頭近く、両親を亡くして田舎から2人の弟を連れてパリに出てきた主人公の若い女性ドゥニーズがいう。

すてきと評されたのが、この作品の舞台となるボヌール・デ・ダム百貨店だ。ドゥニーズはすぐにこの店で働くようになる。
そして、先に引用した古びて客もなくさびれた服飾店はドゥニーズたちが田舎から出てきて頼ろうとした叔父叔母の経営する店だ。
田舎から出てきたドゥニーズと弟たちをみて、叔父はいう。

「まあお入り、とにかく出てきちゃったんだから……いかがわしい店の前をうろつくより中に入ったほうがずっといいぞ」

叔父は「正面のショーウインドーにもう一度怒りに満ちた仏頂面を向けてから、子供たちを招」くが、「ドゥニーズと弟たちは店の陰気さの前でためら」う。

通の明るい日の光に目が慣れていたので、しきりにまばたきしながら、わけのわからない穴蔵の入口にでも立っているかのように、足で地面を探り、何か落とし穴でもあるのではないかと言い知れぬ恐怖を感じていた。そして、こうした得体のしれない恐怖がさらに募り、3人はいっそうぴったりと身を寄せ合い、小さな弟は姉のスカートにすがりつき、上の弟はすぐ後ろに従っていた。3人は微笑みを浮かべながらも不安そうに、店の中へ入っていった。朝の澄んだ光は、喪服を着た3人の黒いシルエットをくっきり浮かび上がらせ、斜めからの日差しがブロンドの髪をきらきらと輝かせた。

ドゥニーズはそこで雇ってもらうつもり店の様子に最初からおののく。それほどまでに、叔父の店は、目の前の百貨店の影響で経営が厳しくなり、新たに人を雇うなど到底不可能な状態だった。
しかたなく、ドゥニーズは叔父叔母の生活を奪おうとする百貨店で働くことになるのだ。

百貨店というイノベーティブなシステム

いまの僕らには当たり前になりすぎて想像しづらいが、百貨店が革新的だったのは、大量生産でつくられた多彩な商品を、定価で売り、時にはセールやキャンペーンなどでお得を印象づけたり、ショーウィンドウや広告などで商品を魅力的なものにするしかけを使い、薄利多売による利益獲得のシステムを確立させたからだ。

次にムーレは正札制度を賞賛した。流行品店の大革命はこの着想に端を発したのだ。昔ながらの商店、つまり小売店が呻吟しているのは、正札制度から始まった安売り合戦に耐えられないからだ。今や価格競争は大衆の監視下で行われ、遊歩道に並ぶショーウインドーも価格を掲げるようになり、どの店もバーゲンをして、ギリギリの薄利で我慢している。長年にわたる生地を仕入れ値の2倍で売るという商慣習も暴利を貪ることも、もはやありえなかった。今の流行品店の商法は、全商品から一定の利益をとり、その利益を商売が円滑に回転するように投入するので、正々堂々と商売を行えば、それだけ資産も増えるのだ。驚くべき進歩ではないか? これが市場を変革し、パリを変貌させているのだ。いうまでもなく、この進歩は女性の衣服に対する関心と買い物をしたいという気持ちの賜であった。

ドゥニーズの叔父の店のような小規模専門店は、この百貨店が規模の経済によって可能にする薄利多売のビジネスモデルに到底太刀打ち出来なかったわけである。

百貨店のオーナーのムーレはいう。

「わかるかい、僕が好きなのは意志を持ち行動すること、つまり創造することだ……たとえば君があるアイディアを持っていたとする、そのために奮闘し、そのアイディアを大衆の頭にハンマーで打ち込んであれば、君のアイディアは広く普及し、勝利を収める……ああ、君、そうだよ、人生が楽しくて仕方がないよ!」

と。

行動の喜び、生きる楽しさがムーレの言葉の中に漲っていた。彼はこの時代が自分に適していると繰り返した。実際出来損ないが、身体に障害でもない限り、仕事を拒否することはできないはずだった。時代はこんなに大きく変化し、世紀全体が未来へ向けて飛躍しようというときであった。

スティーブ・ジョブズにせよ、ジェフ・ベゾスにせよ、イーロン・マスクにせよ、破壊的イノベーションをになう人たちに共通する思いが、ムーレという19世紀にゾラが創造した人物にはすでに見えている。

あらゆる古いものを飲み込んで

500ページにもわたる大作のなか、百貨店は2度の拡張を行う。2度目はオスマンによるパリ大改造で道幅を広げた大通りに面する形での拡張で、多くの客が遠くからも訪れられるよう、たくさんの馬車が客の乗り降りのためにつけられる形がとられる。

とうぜん店が拡張されれば、売り場は増える。売り場が増えれば扱うものも増える。あらゆる商品が百貨店で取り扱われるようになる。

結果起こるのはこうした事態だ。

「はたから見れば、滑稽そのものだろうよ、破産者がこんなに連なって行進しているんだから……それに、百貨店によって破産に追い込まれる者はまだまだ続くだろう。ならず者どもはどんどん売り場を増やしている、それ花だ、夫人帽だ、香水だ、靴だとな、他にも何かあるか? そうそう、グラモン通りの香水屋グロニェも追い出されそうだ。わしだって、ダンタン通りの靴屋ノーのとこで10フランも払って靴を買わん。百貨店という疫病はサン=タンヌ通りにまで蔓延し、羽や花を扱っている造花屋も、帽子じゃ名の売れたシャドゥイ夫人も残念だが2年ももたないうちに一掃されてしまうだろう……その後も、こうした輩はどんどん出るし、ずっと続くさ! 近所の小さな商店は一軒残らずなくなるだろう。キャラコ売りめ、石鹸やオーバーシューズを売り始めたと思ったら、よし、今度はフライドポテトも売ろうと意気込んでいやがる、まったくもって、この世は狂っている!」

10年くらい前までは現代でも、大型店舗が地方にやってきたことで元からの商店街が立ち行かなくなるということはあったが、それと同じだ。人気のいないシャッター通りが生まれ続けた。

そんな大型商業施設も、もちろん百貨店も、いまやAmazonはじめとするネット上の商業流通のしくみによって、その座を奪われた状態である。

あるいは、iPhoneの経済圏があらゆるものをそこに取り込んで、カメラや音楽再生デバイスなどのハードを不要なものとし、流通もメディアも金融も人と人との交流もすべて飲み込み、それまでそうした機能を担っていた業界を破壊していったこともまだ記憶に新しいのではないか。

破壊的イノベーションを特定の誰かの利益にしない

けれど、破壊的イノベーションがダメなのではない。破壊的イノベーションが人びとの生活を豊かにしているのは、この小説における百貨店が女性たちに喜びを与えているのと同じように明らかだと思う。もちろん、人びとに与えるものすべてがいいことではないけれど、それによって良い面まで否定してしまう必要があるだろうか?と思う。

むしろ、問題は、こうした破壊的イノベーションがある一握りの人の利益になるだけで、破壊される側の生活を奪うだけでイノベーションの利益が彼らに分配されることのない社会経済のしくみの方である。

『社会的連帯経済』という本にこんなことが書かれている。

フランスにおける連帯経済の歴史は19世紀前半まで遡る。(中略)数多くの社会実験とともに、ピエール・ルルーをはじめ初期社会主義やキリスト教社会主義の思想家たちによる「連帯」を重視した思想が生み出された。そこでは、市場経済に対するオルタナティブとして互酬的な関係性を基盤とした労働のあり方、労働者による生産のコントロールや資本の共同所有、共同生産と生活上の相互扶助の統合等、多様な考え方が生み出された。そして、以上のような労働者のアソシエーションを基盤として、投下資本の収益性に駆られ、営利動機によって暴走することのない企業のあり方やメンバー間の平等な権利を基礎とした民主主義的社交の場が生まれ、労働や生活に身近なところからの公共空間の形成といったことが構想されていたのである。

藤井敦史「社会的連帯経済とは何か」『社会的連帯経済』

まさにゾラの作品が扱う百貨店という新しい市場経済のためのシステムが生まれた19世紀のそのはじめに、すでに「市場経済に対するオルタナティブとして互酬的な関係性を基盤とした労働のあり方、労働者による生産のコントロールや資本の共同所有、共同生産と生活上の相互扶助の統合等、多様な考え方」が生み出されているというのだ。

これがいまフランス、イタリア、スペイン、ブラジルなど南米、そして韓国でも、市場経済における巨大資本による独占と金融経済による経済格差に対抗して、人びとが生きるための「もうひとつの経済」として確立されてきている社会的連帯経済の起点となるものでもある。つまり、市場経済というメインストリームの経済と同時に、「もうひとつの経済」も同時に生み出されていたわけだ。
破壊的イノベーションのメッカともいえるアメリカですら、これに似た「協同」のしくみがつくられつつあるのは、佐久間裕美子『Weの市民革命』でも紹介されているとおりだ。

連帯に向けて

このあたりの連帯、協同で成り立つ経済的なしくみがオルタナティブなものとしてあってこそ、本当の意味で破壊的なイノベーションが人びとにとって良いものになるのだと思う。それを一部の人に独占させてしまうことを許してしまう経済的なしくみこそ改善していかないといけない。

というわけで、あらためて昨年、一昨年とこんなイベントを通じてやってきたことの意味が自分でも整理できつつある。

そして、6月21日、22日には、こんなイベントもやろうと思ってます。

いま国の主導でデジタル田園都市国家構想が進められようとしていますが、この地方のスマートシティ化やDX化のキモは何かといえば、デジタルを民主的なまちづくり、市民によるボトムアップの生活圏や社会のしくみづくりの基盤として使えるようにすること。ようは目指すべきは社会的連帯経済などといっしょで、まちや社会や経済を一部の誰かのものではなく、みんな=Weのものにしていくためのものだと思ってます。

この文脈の理解として紹介しておきたいのは、こんな記事。

記事中でリスキンが言ってるこんなことが大事だと思う。

私はこの地域圏の知事に、地方政府は従来のような「最高決定者」ではなく、水平方向に分散する共同統治の「ファシリテーター〔注:中立的な立場で議論を円滑に進める進行役〕」の役割を担うべきだと提言した。この共同統治は、一次的な委員会のメンバーである数百人の個人と、二次的な非公式のネットワークでつながる数千人の個人(公共部門、企業部門、市民社会および学界から参加し、「ピア・アセンブリー〔注:平等な権限をもつ討議集合体〕」で協力して活動する)で構成される。

そう。ピア・アセンブリというボトムアップの協同活動が成り立つしくみ。そういうのが「もうひとつの経済」のためには必要。
具体的事例として有名なのが、スペインの巨大協同組合。

こういうのが必要だなと思うんです。

そんな思いを込めた「まちをつくる人を、つくる」というタイトル。興味のある方はぜひご参加またはまわりの人にシェアをお願いします。


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