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僕らを動かすエージェンシー

僕らは自分たち自身が行っている行為がなぜ行われているのかをほとんどの場合、理解していない。

意識していない、という意味ではない。
たぶん、自分が行った行為をなぜ、そうしたのかと問うたところで、答えがはっきりしているケースはほとんどないだろう。
僕らは自分でもなぜだかわからないまま、日々、いろんな選択をし、いろんな活動をしている。

なんとなく……。
そう、なんとなくなのだ。僕らがその行為を行った理由は。

でも、僕らの行為の背後にある、その「なんとなく」というヤツの正体はいったい何ものなんだろうか。

知らんけど

僕らはそんなにいい加減な存在だということなのだろうか。
みずからの行為の理由を「なんとなく」なんていう得体のしれないヤツに預けてしまっている。
「たぶん、なんとなくやないかな、知らんけど」
自分が行為に対して、僕らがとりうるのは、そういう態度でしかない。
箱のなかで死んでいると同時に生きているシュレディンガーの猫のように、僕らの行為は自分自身にとってもある種の不確定性に貫かれている。

この話でも、昨日紹介した、ブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 』が参考になる。

「行為は自明なものではない」とラトゥールはいう。「行為は、意識の完全な制御下でなされるものではない」のだ、と。
そう、すくなくとも意識でコントロール可能な行為ばかりではないし、コントロールしているつもりであってもなぜそのようにコントロールしようとしたかの理由まではそんなに定かにはならないだろう。

自分の行為。それは決して自分ひとりのものではないのだ

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エージェンシー

行為を誘発するものはエージェンシーだとラトゥールはいう。
「数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看取されるべきもの」なのだという。そして、そのことがラトゥールの提唱するアクターネットワーク理論に関わってくる。

このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある。この由緒ある不確定性の発生源こそが、アクター―ネットワークという奇異な表現で蘇らせたいものである。

なんとも素敵な考え方だ。
読みながら、ワクワクしてしまうのは、こういう考え方がすごく自分に合っていると思うからなのだろう、知らんけど。

行為を促すエージェンシーを、既存の社会的なものに回収してしまわないことが、アクターネットワーク理論の肝だ。

生来の圧力を回復しようとする社会科学にとって決定的に重要なのは、アクターを超えたあらゆるエージェンシーを、それ自体が社会的であろう何らかのエージェンシー―― 「社会」、「文化」、「構造」、「界」、「個人」など、名前は何でもよい―― に合成してしまわないことだ。行為を、驚くべきこと、媒介、出来事のままにしておくべきだ。

エージェンシーが行為を誘発するといっても、そのエージェンシーは僕らがよく知っている「ルール」ではないし、「行動指針」でも「マニュアル」でも「システム」でもなければ、「先生」でも「コーチ」でも、「儀式」でも「風習」でもない。

エージェンシー、それはきっとそんな単純なものではない。

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アクター

アクター。そう、自分で自分の行為の理由がわからない、僕らは、アクター=役者なのだ。

ジャン・ポール・サルトルが、「ほんとうの自分」と「社会的な役割」との違いがわからなくなったカフェのギャルソンを描くなかで、同じことを示している。「アクター」という語を用いることで表されるのは、私たちが行為しているときに、誰が行為し何が作用しているかは決して明らかでないことだ。舞台上の役者は決して独りで演じていないからだ。演技することからして、複雑な局面に身を置くことになり、そこでは、誰がその演技を実行に移しているのかという問いは解決し得ないものになっている。

舞台上の演技を実行に移しているのは誰か。
演者自身か、舞台監督か。シナリオなのか、シナリオを書いたライターか、あるいは熱い視線をおくる観客なのか、大事なスポンサーか。

そして、舞台で演じるアクターは、いま行っている行為を演技とみるか、自分自身の行動とみるのか。

こうした不確定性は、しかし、何も舞台における演技者だけのものではない。最初に書いているように僕ら自身だって同じなのではないか。

しかし、それら本来不確定性がつよい行動の理由を、これまでの社会学は、無理やり何かの要素に結びつけてきた。貧困ゆえだとか、性差によるものだとか、教育の度合いだとか、地域性だとか民族性だとか、時代だとか世代だとか。

私なるものは他者である

しかし、僕らの演じる役割はそれほどシンプルではない

行為は他者になされる。だから、行為は他の人びとに取り込まれており、人びとのあいだで広く共有されているのだ。行為は、不可思議な形で行われると同時に、他の人びとに分散されている。私たちは世界で独りきりなのではない。「私たち」なるものは、「私」なるものと同じく、蜂の巣である。つまり、詩人ランボーが記しているように、「私なるものは他者である」。

私なるものは他者であり、私たちは蜂の巣だ。
私や、私たちは、「人びとのあいだで広く共有されている」。

そう。私たちは、アクターネットワークなのだ。


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