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賢い人は働くけれど

働き方改革というけど、「働く」ってなんだろうね?

大好きなバタイユがこんなことを書いている。

人間は仕事をしなければ、飢えと寒さに委ねられるのだが、仕事をしなければならないこの昼間の世界ほど、夜の神聖さにそぐわないものはない。天の無数の星々は仕事などしない。利用に従属するようなことなど、何もしないのだ。

と。

これは『呪われた部分 有用性の限界』のなかの一節。
夜の空に輝く星々は「利用に従属する」ことはしない一方で、人間はみずからの利用の欲望を満たすために仕事をする。

バタイユは続けて、こう書いている。

しかし地球はすべての人間に労苦を求める。人間は終わることのない仕事のうちに疲れ果てる定めなのである。

これが定めだとすれば、働き方改革というのは可能なのだろうか?という気にもなる。

有用性を超えて

しかし、バタイユはこうも言っている。

何の役にも立たないものは、価値のない卑しいものとみなされる。しかしわたしたちに役立つものとは、手段にすぎないものだ。有用性は獲得にかかわる−−製品の増大か、製品を製造する手段の増大にかかわるのである。

と。

普通役に立つことは価値があるものだと考えられている。
けれど、バタイユは役に立つものは価値があったとしても手段にすぎないという。そして、有用性についても獲得にかかわるものではあるが、製品もしくはその製造の増大という、いずれも手段にすぎないものを増やすという意味での獲得であるというのだ。

けれど、人はそれほどまでに多くの手段を無制限に獲得したいだろうか? そんなにも有用なものを人は多く求めているだろうか。欲しているのは、手段だけなのだろうか?という疑問がとうぜん湧く。

シェアリング・エコノミーだとか、サーキュラー・エコノミーだと言われて、所有することなく利用が可能になり、資源の無駄をなくすためにも必要以上に作らなかったり捨てられない社会になっていくなかで、手段の際限ない獲得や、製品の製造の終わりなき増大は、もはや有用性さえ失いつつある。

先の続きには「有用性は、非生産的な浪費に対立する」と書かれている。ここでいう浪費を、資源の無駄づかいと同じような意味で理解してしまうとバタイユの意図を捉え損ねる。
バタイユのいう「浪費」は普通でいうネガティブな意味とはすこし違う。むしろ、バタイユはそこにポジティブな価値を見出している。

人間が功利主義の道徳を認める限りにおいて、天は天のうちだけで閉じていると言わざるをえない。こうした人間は詩を知らないし、栄誉を知らない。こうした人間からみると太陽は、カロリー源にすぎないのだ。

太陽がカロリー源にしか見えなくなったらさみしい。けれど、有用性や手段としてみたら、それはカロリー源という価値になるだろう。しかし、何の役にも立たない浪費の立場からみれば、それは詩を導くものにもなる。

ここに有用性の限界を超えた「働く」のポジティブな可能性を見いだすことができる。
役に立つための働き方ではなく、浪費のための働き方という可能性が。

遊びとなった労働

バタイユは別の『エロスの涙』でこう書いている。

芸術作品がおずおずと現われて来たときには、労働は、何十万年も前から、人類の事実になっていた。結局、芸術作品が完成され、真の傑作において、労働が部分的に効用性の配慮への応答とは別のものになったとき、決定したのは、労働ではなくて、遊びなのだ。たしかに、人間というものは、本質的に労働する動物である。けれども、人間はまた労働を遊びに変えることを知っているのだ。私は、そのことを芸術について強調したい。人間の遊び、真に人間的な遊びは、まず労働であった。つまり、遊びとなった労働だったのである。

労働が遊びに変化する。

賢いサル(ホモ・サピエンス)は役に立つもののために働くけれど、遊ぶサル(ホモ・ルーデンス)は無用なもののために働く。

ホモ・ルーデンスは、ドイツの歴史家ヨハン・ホイジンガが同名の著書で明らかにした、遊びこそが人間活動の本質であり、文化を生む根源であると考えた人間観だ。そこでホイジンガは、遊びは生命および生活を維持しようとする生物学的・社会的な欲求を超えて、生活に意味を与えるものであるとした。まさに、バタイユが有用性の限界を超えたところに、遊びを位置づけたことに重なる。

そして、最近、よく言われるようなAIやロボットが人間にとってかわって働くという話をここに重ねたとき、僕らにとっての労働は「遊びとなった労働」になり、僕らは賢い人であることをやめ、遊ぶ人になりえるのではないかと思う。

排除と包含

ここで違う視点を取り入れよう。
マクルーハンは、『メディア論』のなかで、熱いメディアと冷たいメディアという議論を行なっている。熱いメディアは受容者に与える情報が高精細度で豊か、ゆえに受容者が参与する余地があまり残されてないのに対して、冷たいメディアは情報量が乏しいがゆえに受容者が情報を補わなくてはならないために参与性が高いと、マクルーハンは言っている。

だから、「講義は演習より、書物は対談より、参与する余地がない」のだと。「熱い形式は排除し、冷たい形式は包含する」のだと。

与えられれば与えられるほど、人は真にその対象から距離をもった状態でも平気でいられるようになる。もしかしたらAIが本気で人が欲するものを察して与えるようになると、逆に、人は自分自身で欲しいものを探し見つけるという状況から疎外されることになる。
一方、自分でとにかく状況に入りこみ、何かを見出さなくてはいけない場合、人と対象、人と世界の距離は近づき、場合によっては同化さえする。

与えられるものが豊かな場合、人はみずから求める対象から遠く離れた場所に追いやられることになる。

工業の専門分化が始まり、家庭で果たしていた機能が外爆発を起こして、共同体の周辺に洗濯屋やパン屋や病院ができるとともに、女性の役割もまた細分化していった。強烈さあるいは高精細度は、娯楽においても生活においても専門化と細分化を生み出す。

いまや、かつて家の中にごっちゃになって存在していた仕事が、より高精細度化されて専門性を帯びはじめるにつれ、家から外部化し、その仕事はいま「働き方改革」の対象となっている仕事の多くがそうであるように、家から離れて外部化されている。

マクルーハンはこう続けている。

だからこそ、どのような強烈な経験もそれが「学習」あるいは「同化」されるためには、その前に「忘却」され「検閲」され、非常に冷たい状態にされなければならないのだ。フロイト流の「検閲」は道徳的機能をもつものというより、学習のための不可欠の条件なのである。

と。
学習という参与型の場を成立させるためには、逆に、受容者が自分自身で考えて決められる余地があるような「冷たさ」が必要になる。
当然ながら先の「遊びとなった労働」が成り立つためには、この参与の余地が残っていなければならない。参与性が低ければ、ただの子供の遊びにしかならない。ルールそのものも遊びながら自分でつくれるような参与の余地、未完成な状態がなくては、遊びとなった労働として芸術作品のような生みだす仕事の面白味は生じ得ないだろう。

役割と職務

マクルーハンは別の箇所で、こんなことも言っている。

コンピュータの時代に、われわれはふたたび全面的に流動する「役割」に巻き込まれる。電気の時代には、部族社会におけるように、固定した「職務」が献身と主体的参与に道を譲るのである。

まだ都市国家さえ生まれる前の古代ギリシャの村では「すべての人間機能を低強度の形態で制度化して」おり、その穏やかに村として形態化した状態のなかで、人々はひとつの役割に固定されることなく、「多数の役割を演ずることができた」のだという。「参加度が高く、組織度が低かった」そうだ。

しかし、文字が社会に浸透していくと同時に都市国家が成立しはじめると、これまでの穏やかな人々のつながりの中により緊張が求められるようになる。そして、「緊張と競争に対処するために不可避的に機能の分離が必要」になる。

村人たちは全員が季節の祭儀に参加していたが、それが都市国家では特殊化したギリシアの演劇となった。

多数の「役割」を演じていた村の人々が、都市国家においては一人にひとつずつ割り振られた役を演じるようになる。演劇のなかで一人にひとつずつ役を割り振られた人々が組織化されたなかで、それぞれのパートの役を演じる。システムの中で分業された状態が生じるわけだ。そして、それが「職務」として固定化される。

その古代ギリシャの都市国家から続く固定化された「職務」を担った人間というのが、「コンピュータの時代に、われわれはふたたび全面的に流動する「役割」に巻き込まれる」とマクルーハンは言ったのだった。ギリシャの村の部族の人々同様に、固定化された職務からは解放され、多数の役割を流動的に主体的に担う存在に戻る。

これは企業のなかの固定化したシステムのなかで決められた職務を遂行する働き方から、独立してフリーランスとして働くことで、それこそ、ひとりでいろんな役割を担いながら、他のフリーで働く人たちや企業内で働く人たちとその都度関係性(プロジェクト)をつくりながら働くやり方へのシフトがそれを示しているように思う。

主体的参与こそ仕事の本質だ、という考えがこの先定着してきたとき、いまのような固定的に専門分化された職種や業種というものがもはや意味を失っていくのだろう。
互いに排除しあっていた、それら専門性がふたたび包含関係におさまろうとする際、人間の新しい仕事も、あれだけやればいい、この分野だけが自分の領域だという「職務」という概念はいらなくなるのではないか?

決まった演劇のなかで決まった役割を演じるのではなく、その都度、人々が多くの役割を交換しあって担いあいながら即興でリアルな劇を生みだしていく。そういう計画やルールない、むしろ、そのときそのとき生み出されるものが計画やルールの代わりを果たすような、そんな遊びのような働き方が今後ますます増えていくのではないだろうか?

外から与えられる決まった職務から解放されて、複数の役割を主体的に担うことが求められ、なおかつ、遊びとなった創造的な労働こそが求められるようになったとき、果たして、あなたは働くことができるのか? それこそがいまの働き方改革の根元にあるものではないか?と思う。

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