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他人の言葉はあなたのものではない

他人の言葉はあなたのものではない。

これ、本来は当たり前のことだと思うんだけど、現実には、結構多くの人が他人が書いたものを読んで、そう思ってた的な発言を自然にしてしまう。

「共感する」と言えば聞こえはいい。
でも、本当に最初にそう思ってたのだとしたら、何故自分が先に同じことを書かないのかという話でもある。
それに本当に最初からそう思ってたら「私もそう思ってた」なんてことをうれしそうには言わないだろう。あっ、先に言われた!くらいのちょっとした悔しさが起こる方が自然な反応ではないか。

だから、それはやっぱり自分も最初から思ってたことを他人が代弁してくれているのではなく、他人がちゃんと文章にしてくれたことを通じてはじめて「わかった」ということなのではないかと思う。
つまり、あなたは他人の書いたものを読むまでわかってなかったし、読んで「私もそう思ってた」くらいには何かを確かに感じていたのだろうけど、にもかかわらず、それを自分でわかりきるまで考える努力をしていなかったのだ。
その消極性を置いておいて、共感云々はちょっと違う。

思考の自給自足

他人に自分の考えを代弁してもらえている気でいるが、実際は代弁というより教えてもらっているのに近い。
なのに、自分も「そう思ってた」と本当に信じているのだとしたら、あまりに他人に対する敬意が足りなさすぎるだろう。

自分で考えて答えを出してる人に対する敬意をもつさえなく、自分で考えをまとめる努力もせずに他人がまとめてくれた答えだけみて「そう思ってた」といってしまうことに、これでいいのか?という疑問はもたないのだろうか。
他人が自分で考えて答えを出しているのに、自分がそうしないことに疑問を感じないのは何故かと考えたことがあるだろうか

自分で考える努力をはじめから放棄して、とにかく他人の考えを「欲しがる」。
これはいったいなんなのだろうか。
全部とは言わないまでも、自分が大事にしてることくらい、他人に考えをまとめてもらうのを待つのではなく、自分で自給自足で考えを形づくることをやらないのはどうしてなのだろう

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餌を待つ雛鳥のように

もちろん、僕らはすべてをゼロらつくりだすことはできないのだから、どのような場合であれ、他人の意見を参考にする。
しかし、いろんな他人の意見を参考にしながら自分の考えを組み立てる、まとめるという編集的な視点が加わった多かれ少なかれ創造的な思考と、ただ、たったひとりの他人の書いた文章を読んで「そう思ってた」と丸ごと受け入れるのとはまったく違うことだ。
後者にはすこしも創造性がないし、受け入れるかどうかの判断以外に自分の考えがない。

編集的な視点で自分の考えを創造的に組み立てるのにも、それなりの訓練が必要で、繰り返しやってみることでしか、上達はない。
だから、まずはトライアルでうまくいかないことが繰り返されようとも、やってみることでしか、できるようにはならない。
けれど、最初からそのつもりもなく、他人からもらうことに慣れすぎてしまっていると、トレーニングをはじめるスタート地点にすらたどり着かない。

それでは、いつまで経っても、巣で親鳥が餌をもってくるのを待つ雛鳥のようなもので、自分の羽で空に飛び立ち、自分で餌を得て自分の生を生きていくことはできないだろう。
いつまで巣の中で餌を待つ雛鳥でいるつもりで、何故親鳥の方の立場に変わらずにいることを自分に許してしまうのだろう。

もらう側から与える側にシフトしようという努力しない自分を認めてしまうのか?

もらうことに慣れすぎて

もらうことに慣れすぎた大人の雛鳥たちは、もらう餌の味ばかりにうるさくなって、もらってる立場のくせに餌の味に文句ばかり言うようになってしまう。

与えるばかりの親鳥のような立場は人間社会にはほぼなく、誰もが多かれ少なかれ、他人から考えをもらうし、他人に自分の考えを与えるという両方の立場を体験する。親の立場も子供の立場も受け持つし、上司の立場も部下の立場も、専門家の立場も素人の立場にもなることがあるだろう。
そういう経験をちゃんとしてれば、自分がどちらの立場にあっても相手のことを想像することができるから、相手に対して敬意も払えるし、気遣いもできる。
けれど、親でいるとき、上司でいるとき、専門家でいるときに、自分で考えることをせずに、さらに上の人や先人の言ったことを鵜呑みにして、子供や部下や素人の人に伝えることをしてたら、それは結局、大人のフリした雛鳥だ

自分をあまやかして、もらうことにばかりに慣れてしまい、餌がまずいのを、それをもってくる親鳥のせいだと本気で考え、本当の問題がいつまで経っても自分で餌をとりに飛び立っていない自分自身の問題だと気づけなくなってしまう。
そんな残念な状態になっていないだろうか。

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ぼくらが旅にでる理由

ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で、こんなことを書いている。

人生の状況にことごとくうまく対応できないのは、結局、意識を抑制しているからに違いない。争いや癇癪は、無知が為す当座しのぎの手段であり、後悔は遅すぎた啓蒙である。英雄の通過というどこにでもある神話には概して、男にも女にも、成長段階のどの位置にいるとしても、誰にでも通用するパターンとして役に立つ、という意義がある。(中略)自分にとって人食い鬼はどこにいるのか。それは、その人のまだ解決していない人間性の謎を映し出すものである。自分の理念は何だろう。それは、生の把握を示す兆候である。

キャンベルの本を紹介したnoteでも書いたように、神話に共通する構造として、後に英雄になるものは最初、慣れ親しんだ日常的な世界から外に踏み出して不思議の領域でイニシエーション的な試練を体験した後、倒すべき敵――龍や怪物、あるいは、未来をつくる障害となる過去の権威など――を倒して、英雄として帰還するという流れがある。
ここで英雄候補が旅に出て、英雄として帰還する理由こそが「人生の状況にことごとくうまく対応できないのは、結局、意識を抑制しているから」で、その自分自身の意識抑制に端を発する無知ゆえに開かれずにいる希望への道の障害になっていたものが、結局、自分自身につながっているのだと自覚するためなのだ。
それをせず、日常に留まろうとするから、なんの解決にもならない争いや癇癪で当座しのぎをすることになるし、事後的に後悔によってそれに支払いをすることの繰り返しになる。

僕らには明らかに旅が必要だ。リスクをとる必要がある。

自分の羽で飛ぶ

自分本位で、自分の見えている範囲だけで考え、その自分の王国――大空から隔離された小さな巣――のなかの理屈でしか物事を見ることができず、親鳥が運んでくる餌がどこでどうやって得られ、それを得るのにどんな苦労があり、その苦労やらいろんな条件ゆえに、運ばれてくる餌が、いま自分の口に入る餌になってるはずなのに、何故それをうまいだの、まずいだの、自分もそう思ってただの、それは全然違うと思うだのと無邪気に言うことができるのだろう?

やはり、あまりに他人に対する敬意、周囲の環境を理解しようという姿勢が欠けている。
巣から自分の羽で飛び立ち、自分で餌を得ようとしない限り、他者への敬意、周囲の環境を理解しようとする姿勢は身につかないだろう。
多様性に対する許容度が欠けていれば、本当の意味で自分の暮らす環境を自分の要求にあったものにすること、そして、自分の餌を美味しくすることは出来はしない。

だって、他人の言葉はあなたのものではなく、その相手が自分自身のために見つけた言葉なんだから。

自分自身の羽で飛んで世の中を見聞きし、そこでちゃんと自分自身の言葉で自分の考え――単なる感想や感情的反応ではなく、さまざまな人の視点、世の中の環境を鑑みた上の思考の結果組み立てられた考え――を発せられるようになること。
そういうことをひとりひとりが程度の差はあれ、できるようになってこそ、その人たちが生きる系はうまくまわりはじめるのだろう。

もらうことに慣れすぎた自分を見直してみるといい。


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人間の思考はどんなふうに作られているか?を問うことがライフワーク。とりわけヨーロッパ文化史に興味あり。中世後期から19世紀あたりまでを広く守備範囲に。渋谷のロフトワークという会社で働いてます。