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思いがけない出会いを呼びこむ

ひそかに取り組んでいたこと、別々に手がけていたことが何かのきっかけにつながって、より面白い展開が新たに見えてくることがたまにある。
そういうときは「おおっ」と思って、本当に興奮する。

念じれば通じるというのを信じているわけではないが、何か仕掛けておくと、そこに何かが引っかかってきて、新たな展開が生まれるチャンスが得られやすいということは信じている。

僕自身の経験からいうと、特に、あまり人が手をつけてない領域で、たぶんこれから見込みがありそうなと予感がしたら手をつけておいた方がいい。そこに手を付けておくと、予期せぬチャンスが得られる確率は高くなる。
それ、単品では何も起こらなくて、それこそ何かの拍子に他の何かとつながって物事が動きはじめたりする。
そんなことが時に起こるので、まだまわりのみんなが手をつけてないことでも自分で気になることは手をつけておくと良い。

知的テリトリーを広げるのに読書は最適なツールの1つ

その手のことで一番手っ取り早く手をつけられ、日常的なレベルでそうした予期せぬ嬉しい出会いが頻繁に起こるのが、読書を起点にしたものだ。
読んでいた本同士の共鳴も起これば、読んでいる本と日常の行動や思考との共振も生まれたりする。
とにかく、予期せぬ出会いがほしければ、それがありそうな場所にこちらから足を伸ばす必要がある。それを比較的簡単に可能にするのが本だと思う。

本というのは、そもそも未知の領域に手を出して出す手段としては比較的容易でコストも少なく済む。だから、自分の知的テリトリーを広げるのにはこれほど手軽で有益なツールはなかなかない

で、知的テリトリーを広げるのが目的であれば、できるだけ、いろんな種類の本を読んでみたほうがいい。
もちろん、手当り次第、雑多なものにするために、まったく自分の興味のない領域にまで広げる必要はない。
だが、逆に、本当に自分が興味があると確信している領域だけに留まっていても、知的テリトリーを広げる冒険にはならないから、適度に自分の領域の外にでられるよう、いろんな本に対するアンテナをはっておくことが大事だ。

そういうことを普段から心がけておくと、本を起点にいろんな発見が訪れる。本を読んでいるときに予期せぬ出会いの場面が訪れることもあれば、仕事をしていたり誰かと話していて、本で読んで感銘を受けていた箇所と偶然のつながりができて新しい発想がそこに生まれたりもする。

共生とホメオスタシスと

最近もそれが起こった。
著名な神経科学者であるアントニオ・ダマシオが書いた『進化の意外な順序』を読んでいて。

「おおっ」となったのは、こんな箇所を読んでいたときのことだ。
読みながら、つながった!と思った。

その日暮らしを続ける生物は、ほとんど知識を蓄積することができない。つまり、記憶能力が限られている。知覚も単純なら、神経網の構造も簡素であり、形状や材質などの刺激の特徴や、それ自身への刺激の影響をマッピングできるだけの能力は備えていない。また、神経網の構造では、触れた物体の構成パターンを内的に表象することができない。マッピング能力の欠如は、イメージを生成する能力の欠如をも意味する。

ダマシオのこの本はまた別の機会にちゃんと紹介するつもりだが、生物も進化というもののキーとして、ホメオスタシスに着目している。

生物が体内の異常事態を自動的に調整する機能などを指すホメオスタシスに関しては、今年の最初に読んだ本で生態系のなかで「生命はいかに調整されるか」をテーマとして扱ったショーン・B.キャロルの『セレンゲティ・ルール』でも、紹介されていて興味をもった概念で、基本的にはさまざまなレベルでの異なる種同士の「共生」がその調整機能の働くための条件であるということが面白く興味をもった。

キャロルの本で面白かった例としては、アメリカ、イエローストーン国立公園におけるエルクの大量発生による草木類の大打撃の話で、1920年代以降、ポプラやケヤキなどの植物が減少するという自体が起きていたが、絶滅していたエルクの捕食者であるオオカミを別の環境から連れてきて公園に放ったところ、ポプラやケヤキなどの植物だけでなく、ほかの動植物の生態系も回復したという例だ。

でも、つながった!と思ったのは、実はこのホメオスタシスの話ではない。

その日暮らしを続ける生物は、ほとんど知識を蓄積することができない

共生による生態系において良い状態の自動調整機能として働くのがホメオスタシスなのだが、ダマシオによるその定義がまた興味深い。こういうものだ。

何があっても生存し未来に向かおうとする、思考や意思を欠いた欲求を実現するために必要な、連携しながら作用するもろもろのプロセスの集合を、ホメオスタシスと呼ぶ。

ホメオスタシスの機能により、あらゆる生物は「主観や熟慮なしに自動的に作用する非意識的な形態での生理コントロール」が可能になる。そこには意思を働かせるための心も必要ない。「ほとんどの生物は、エネルギー源が枯渇したとき、意思の介入なしに食物や水を探すことができる」し、周囲に食物や水が見つからなくても「蓄えられていた糖分がホルモンによって自動的に分解され、当面のエネルギー源の欠乏を埋め合わせるために血流を通じて分配される」ようになっている。

これは自動的に起こる
でも、自動的に起こるがゆえに、先の引用中にあったように「その日暮らしを続ける生物は、ほとんど知識を蓄積することができない」。
つながったと思ったのは、ここなのだ。

そうした生物は、知識を蓄積できない、つまり記憶をもたないから、得た情報をマッピングして整理して理解につなげることができない
ダマシオが言っているのはそういうことだ。
そして、その「マッピング能力の欠如」というのは「イメージを生成する能力の欠如をも意味する」のだという。

イメージする能力をもつ生物

そう、ここだ。
つながったと思ったのは!

つながった先というのは、1つにはすこし前に絶賛しておいたアンリ・ベルクソンの『記憶と物質』だし、また、もう1つにはこれまたすこし前に読み終えたハンス・ベルティンクの『イメージ人類学』と、だ。

先のダマシオの引用のあとには、こんな言葉が続く。

ちなみにイメージ形成能力は、やがて複雑な神経系が発達させる心の構成要素となるものだ。そしてマッピング能力とイメージ形成能力の欠如は、他にも致命的な結果をもたらす。つまり、心が存在しなければ意識も生じ得る感情という、非常に特殊なタイプのプロセスの差も生じ得ない。言い換えると、私の見るところ、意識と感情は、専門的な意味において心が存在するか否かにかかっている。感覚刺激の持つさまざまな特徴をマッピングすることで、脳が緻密な多感覚性の知覚を構築できるようになるには、より高度な神経装置が進化するのを待たねばならなかった。イメージの生成と心の構築に至る道は、そこで初めて開けたというのが私の見方である。

ホメオスタシスが自動的に体内を良い状態に調整する。
しかし、生物には体内環境とともに、自分を取り巻く外部環境もある。その環境との関係をうまく調整し続けないと、生命は維持できない。
それにはイメージを記憶したり、感覚のマッピングを行なったりする能力を開発する必要がある。

まさに、こうしたダマシオの見方が、200年も前にベルクソンが、記憶とイメージ、そして、それらが物理的世界に生きる生物との動的な関係、つまりは外的世界との共生関係を説いた視点に重なってくることに気づいて、おおっ!となった。
また、イメージを手に入れてそれを自在に操ることで自分たちの文化を築いたことを示したベルティンクの視点にも重なって興奮した。

そして、知識を蓄えられない生物がその日暮らしを行うという指摘は、より日常的な感覚とも重なった。それは、得た情報をマッピングして整理して理解につなげることができないということでもある。

僕らはなんて生物的なんだと感じた瞬間だった。

生きるためのイメージ

ベルクソンは「知覚するということは、対象の総体から、それらに対する私の身体の可能的行為を浮かび上がらせるということなのだ」と書いている。
つまり、知覚とは外部環境に対する調整のための機構なのだ。

ゆえに、知覚または知覚のイメージは、本来、常に変化し続ける生物自身と外部環境との動的な変容の様子を知らせるものであり、言葉やデータとして記録されるような静的なものではあり得ない

しかし、「われわれの想像力は、何よりもまず言葉にする際の便利さと物質的生の諸要求に心を奪われている」こともあり、まずは動的な絶え間ない変化があって、それを便宜上、静的な言葉などに抽象化して翻訳して用いていることを忘れて、動的なものが先にありきで静的な表現はあとという「本来の順序を逆転させるほうを好む」のだとベルクソンは指摘する。

そして、このような誤解が生じてしまうことをベルクソンは指摘する。

この想像力は、すっかり校正済みでもう動かないイマージュ、我々の利益のご要求の変わらなさを何よりも反応しながら外見上固定されたイマージュからこの想像力は、すっかり構成済みでもう動かないイマージュ、われわれの低次の諸欲求の変わらなさを何よりも反映しながら外見上固定されたイマージュから成る世界の中に自分の支点を求めることを習慣としているので、どうしても休止の方が動きに役立つと考え、休止を基準点扱いして、そこに身を落ち着けてしまい、最後には、運動とは距離の変化にすぎず、空間は運動に先立って存在する、ということにせざるをえないのである。

こうした誤解が行われたときから、つねに変化する自然の時間に彩られた動的な世界は、人間がみずから手なづけやすい形に校正され、すっかり動きのない語られ記録されうる空間に堕してしまう。

生物が生きるために開発されたイメージする機能は、こうして世界を殺すものとして用いられるようになった。
それをする者である人間が実際にも自然環境を破壊しまくっていることはただの偶然ではないだろう。

動かないイメージ、心的コーラス

動かないイメージ。
このイメージは、自然環境を破壊しなかった先史時代の人類が考えていたイメージとは異なるはずだ。

ハンス・ベルティンクの言葉を引こう。

メディアには、死者崇拝という太古の範型が存在する。死者は失った身体を像と交換し、生者たちのあいだにとどまる。このような交換によって実現される死者の現前はただ像においてのみ可能であり、イメージ・メディアは死とイメージとの象徴的交換を遂行する生者たちの身体に対して存在していたばかりでなく、同時に死者たちの身体の代理も務めていたのである。

イメージを具現化した像は、先史時代から人々にとっては死者の代理として用いられた。
メディアとしての像に、死者のイメージがのりうつる。死者としての像に残された人々は語りかけたように、増そのものはスタティックで動かなくても、像が代理する死者のイメージは生きているもの同様、止まることなく蠢いていると捉えられていたはずだ。

そういう点からみても、イメージというものが生物にとって意味するものをちゃんと理解していたのは、僕らよりもそうした先史時代の人々だという気がする。

そのことをダマシオのこんな言葉が教えてくれるように思えた。

生命活動の自然な心的経験、つまり存在しているという感覚がなければ、真の意味での生(ビーイング)はありえない。生の起源は、連続的で無限であるかのように思える感情状態、すなわち他の心の的なものすべての底流をなす、さまざまな激しさの心的コーラスに存する。

こうした心的コーラスが進化した先に、今回書こうとした「予期せぬ出会い」もあるのだと思う。

知らないことを知ろうとすることは、だから、本来、きわめて生物的で生命的な活動なんだと思う。
だから、僕らは知らないことが知れたときに、ワクワクするし、興奮して楽しくなったりするのではないだろうか。

もし、そういうことができないのだとしたら、その生物は、ほとんど知識を蓄積することができずに、ただひたすらその日暮らしを続けていくのだろう。


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