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アバターとしての創作物

まったくオフィスに行かなくなって2週間。
はじめのうちは慣れずにストレスもあったけど、いまは毎日いつもより1時間半ほど仕事をはじめて、その分はやく仕事を終え、そのあと食事をつくるのが楽しみになっているので、ストレスはゼロ。

結局、どんな環境になってもその環境の特性にあわせて、自分で自分の居心地のよい暮らしのスタイルをつくれれば不満は生まれないはずだ。
もちろん、合わせられる余地がまだその人自身に残っていればの話だけど。

でも、余地があっても、誰かを頼りにしててはこうはならない。
自分の創造力こそが自分を助けてくれるものだ。
特に、こんな予想外の出来事が起これば、誰もこの事態を見据えて他人を助けるようなものを用意する余裕はないのだから、尚更だ。

だから、自分で状況に合わせた日々の過ごし方をつくるための創造力とそれを発揮できる余裕を普段からつくっておくことが大事なんだとあらためて思う。

メイドインジブンかタニンか

世界は頭のなかに」でも書いたけど、結局、誰もがヴァーチュアルな世界に住んでいる。誰も世界そのものなんて見ていなくて、見ているのはつくりもののイメージだけだ。
バイアスなんて言い方をするが、いやいや、それはバイアス以外のものの世界があるような言い方だ。
つくりものの世界でしか生きられない人間にとってバイアスかバイアスじゃないかなんて区別があるはずはない

私は私の考える世界に生きている。
現実に影響を受けつつ人が生きることのできる場所は自分の頭のなかの世界か、他人からの借り物でできた同じく自分の頭のなかの世界でしかない。
メイドインジブンか、メイドインタニンかの違いこそあれ、いずれも作り物で、現実そのものではない
ただし、どんな作り物であっても現実から切り離されてはいない。そのことを僕はベルクソンの思想を元に信じている。

だからこそ、影響を与える世界の方が壊れれば、ヴァーチュアルなイメージの世界は容易に外側の世界と齟齬が生じてたちまち機能不全に陥る
そのとき、自らの創造力で変化にあわせてイメージの世界を構築しなおすことで機能不全に対処するか、現実とイメージの世界のズレに対処できないまま、機能不全となった元のイメージの世界にしがみついて、できなくなったあれこれを思ってストレスを感じ続けるか。その差はあまりに大きすぎる。

いま、人びとの生き方はそんな感じで大きく二分しているのではないか?

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オフィスの仕事を家の中にまで引きずって

仕事においても同様だ。

いまの時期、テレワークに変わって仕事場がオフィスから自宅に移っている人は多いだろう。
けれど、せっかくオンラインに中心が移行したのに、これまでのオフラインベースの活動の代替に終始してしまっていたらもったいない。まさに、現実の条件が変わったのに過去のイメージにとらわれてしまっている典型的な例だ。

オフィスで同僚たちが一堂に揃ってうまく機能していた仕事の代替策を、自宅でそのまま行おうとする。結果生じているのは途切れのないオンラインミーティングの連続ではないか。
息抜きができないし、オフィスでやってたほど、仕事は効率的には進まない。

環境の特徴が異なるのだから、それを活かして、これまでできなかった、やりにくかったことに挑戦したほうが生産的だし、面白いではないかと思う。
バラバラの場所で別々の時間を過ごしているのだから、これまでどおり、同じ時間に集まって顔を見ながら話すなんてことに固執することはない。

同期型と非同期型」でも書いたとおり、バラバラの場所で別々の時間を過ごしている者同士、人間が無理矢理同期するかたちを採用するのではなく、バラバラ別々のままの非同期の状態で、たがいの頭のなかのイメージだけを同期するようなかたちに移行したほうがはるかに生産的だと思う。

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芸術家の人生は短いが、作品は長く残る

実際、組織の外のパプリックなインターネット空間で起こっていることはそういうことだ。バラバラ別々の時空間を生きるもの同士が勝手にさまざまなことを言い、勝手にさまざまな解釈をする。
そのままだと非生産的だが、それを同じ目的とゴールを共有した組織内で機能するかたちにデザインしなおせばいいはずである。

イメージのなかに生きているということは、情報のなかに生きているということでもある。

そのとき、芸術家たちの創造を思い浮かべてみるといい。芸術家にとっては、彼らがつくりだす作品そのものが彼らの存在そのものとなったりする。

『アルス・ロンガ−美術家たちの記憶の戦略』という本はそのことをあらためて教えてくれる。
"アルス・ロンガ、ヴィタ・ブレヴィス(Ars longa,vita brevis)" 。古代ギリシアの医師ヒポクラテスにさかのぼる格言だそうだ。
もともとは「人生は短いが、医術の習熟には時間がかかる」という意味だったという。それが、やがて「アルス」の指すものが拡張され、芸術家たちの術=アルスも対象となる。つまり「芸術家の人生は短いが、作品は長く残る」という解釈も普及することになったということを、この本は伝えている。

ようするに、芸術家が生みだした作品は芸術家自身よりもはるかに長く生き残る。
モナリザのイメージは、レオナルド自身のイメージよりも鮮明だし、レオナルド自身に取って代わってさえいる。ロダンの人物像はわからなくても、《考える人》のイメージはほとんどの人が思い浮かべることができるだろう。

僕らはもともと、そういうイメージ空間に生きることができる。相手の顔に頼らず、相手が生みだしたもののイメージで、相手と交流することはもともと僕らができることだ。
そして、それはレオナルドやロダンのような時間も空間もまるで共有していない、バラバラ別々の人たちとの交流だって可能にしてくれる。

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創作物をアバターに

自分がつくったものを自分自身の代替とする。
言うなれば、創作物、アウトプットにアバターの役割を担わせるということだ。

それにより、僕らはたがいに分断された環境における、バラバラ別々の状態でも、ほかの人と交流を行うことができる

すでに書いたとおり、どのみち、同じ時間に同じ場所で過ごしたところで、頭のなかの世界は個々人でバラバラ別々である。その差異を解消する媒介として、同じ空間、同じ時間をツールにしているに過ぎない。

そのツールがいま使えないのだとしたら、別の手段を考えた方が良い。
それがZoomなどのビデオ会議の非力な媒介では頼りなさすぎる。

それよりも芸術家たちが作品をみずからのアバターにしたように、個々人が仕事においても、創作物をみずからのアバターとして、バラバラ別々の時空間における非同期のコラボレーションのための媒介として機能させた方が有益だろう。
それが可能なことは、このnoteというメディアの存在をあらためて思い浮かべるだけで十分ではないか。
どれだけのコラボレーションがこのnoteのメディアのなかで生まれているか。それもこれも、ここでは創作物がリアルにはつながっていない人同士の非同期型コラボレーションを可能にしているからだ。

モノに仕事をさせる部分を増やさないといけない。
仕事(特にホワイトカラーの仕事)のIT化で遅れをとり、いままたAI化でも遅れをとっている、この国では創造物に仕事をさせることが苦手で、人間みずから仕事をすることに変な美徳めいたところがある。
しかし、もはや人と人がたがいに手を取り合い仕事をすることが無理な状況に追いやられたいま、さすがにモノに仕事をさせることへのシフトを猛スピードで行う必要がある。

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利他的にアウトプットする

アウトプットは苦手である。
そう思ってしまう人は、もうすこし利他的になる必要がある。

これだけ他者によって外部化されたものに左右されているというのに、自分ではほかの人たちのためになるよう自身の思考の外部化を行おうとしないのは、なんと利他にかけた姿勢だろうと思う。

そもそも、創作物をアバターにと言っているのだから、それは他人に向けての視点が含まれている。
ましてや、仕事でコラボレーションをする前提なのだから、創造物をアバターにするのは、いっしょに仕事をする他の人たちのためである。
他の人ためなのだから、苦手も何もない。
苦手というなら、やはり利他の姿勢が欠けている。

たがいにバラバラ別々の世界に分断された状況で、それでも他人と有意義な交流により、共通の仕事を成し遂げようとするなら、芸術家たちがそうしてきたように創作物をもって交流する方法を、普通のこれまでのオフィスワーカーたちが誰もが身につける必要があるのだと思う。
もちろん、その創作物は芸術作品である必要はない。あくまで、それは仕事を進める上で必要な創作物であれば。

もう、対面での仕事の仕方の亡霊に騙され続けるのはやめよう。

たぶん、それはオフィスワークだけでなく、対面で行われていた教育などにも言えることなのだけど。

僕らはもっと頭を柔軟にして、この新しい世界を生きる方法をつくりだし、自分たちの新しい居場所を確保しなくてはならない。

サバイバルのためのテリトリーを。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。