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境界でなく、動的な連関として

超音速気流の研究で知られる物理学者のエルンスト・マッハは1886年の『感覚の分析』という著書で、こんな自画像を提示している。

なるほど、自分で自分を見て描いたら、こうなるだろうと思う一方、鼻はなんとか見えるが、目の上のまつ毛らしきものは見えるんだろうか? 日本人とヨーロッパ人の彫りの深さの問題? とか思ったりする。
実際、鼻と身体の距離の関係上、両方が同時にこんなに明確に見えることはないだろう。

外界と自分、身体と心の曖昧な境界

パウル・クレー 造形の宇宙』で、著者の前田富士男さんは、このマッハの自画像に関連して、クレーが『日記』という作品で1905年の7月に書いた、こんな一文を紹介している。

ふざけた課題をだしてみよう。自分自身を描いてみたまえ。ただし、鏡を使わないこと、また鏡のような方式で推論もしないこと。君が自分自身をみるとおりに正確に、である。となると、君自身に見えない頭は無しにして、ということだ。

と。
クレーがこの「ふざけた課題」のひとつの回答として、マッハの自画像を念頭においていたのは明白である。

「マッハは自我の確固とした境界を盲信する無意味さを告発している」と前田さんは書いている。「マッハは『感覚の分析』で、自画像をあげつつ、知覚の因果論的理解に対して批判を加える」と。

すこし長いが引用してみよう。

われわれの経験世界に現れる恒常的な事物は構成分、つまり要素からなっているが、この要素を文字で示すことにして、われわれの外にある物体と呼ばれる複合体の色、音などの要素をABC…とし、われわれの身体の諸要素をKLM…とし、また、われわれの意識における記憶、意志、表象などの要素をαβγ…とする。通常、われわれはαβγとKLMの複合体を自我とし、ABCを外の物体として区別している。だが、活発な表象が行動となる場合や、逆に環境が著しい変化を惹起する場合、また私の視野をかろやかに横切る蝶の動きに「相即的」にこころを重ねている場合に生じるように、αβγの変化がKLMを介してABCに移行したり、あるいは逆のこと変化が生じる。とすれば、「『物体』や『自我』という仮想的単位が暫定的な概観とか、ある特定の実際的目的のための方便にすぎないことを知る」必要があり、そうした仮想的単位をしりぞけてしまえば「自我と世界、感覚ないしは現象と物との対立は脱落して、問題なのは、要素αβγ、ABC、KLMの連関だけになる」。

ちょっとわかりにくところがあるが、先の自画像がABCとしての外の世界(室内のさまざまな物)とKLMとしてのマッハ自身の胴体や手足、そして、鼻の先などが一緒くたになりつつ、それでも、本来はあるであろう頭というKLMの要素を見失いつつ、αβγとしての自分の記憶、意志、表象は何を「自己」として捉えれば良いか混乱した状態になるであろうことを踏まえると、引用中の「『物体』や『自我』という仮想的単位が暫定的な概観とか、ある特定の実際的目的のための方便にすぎない」という話も、まあ、そうだろうと思う。
実際、はっきりときれいな境界がある形で、物体も自我も存在していない。しかも、自身の行動や環境側の変化など、それなりに運動があるなかで、その境界は常に入れ替わって、要素αβγ、ABC、KLMの関係の仕方は常に更新され続けているはずだ。

『人工知能と社会』という本で、長井隆之さんが人工知能という知能とロボットの体についての関係として書いていることもこれと関係していて、つまり、知能としての自我的な部分とそれに従って動く身体の部分をそれぞれ独立したものとして境界を引いてしまうと間違うのだ。いかに知能と身体の距離を曖昧で一体のものとして考えるかで、本来の人間にとって自然な認識や行動をロボットを通して再現可能になるということだ。

だから、マッハの話はこう続く。

連関とは機能(関数)的依存関係なのであり、この関係のなかで、ある要素が動けば全体に変化を波及させ、その変化がときに物理学的客体として、ときに感覚として現れるにすぎない。それゆえ「物体と感覚、外界と内界、物質界と精神界との溝は、実は存在しないとマッハは主張する。

マッハの一元論と言われるのは、まさにこうした文脈において、外/内とか、客観/主観とか、デカルト以来の近代哲学が基本的座標系として捉えたものを否定する。マッハの一元論では精神/物理の境界がより曖昧に一体化している。いや、境界的な思考を捨て、要素間の動的なコンストラクションとして思考することの重要性を説いたということなのだろう。

動的なメタモルフォーゼとしての造形

マッハの一元論は、その後、ゲシュタルト心理学にも受け継がれたという。
「ゲシュタルト性質という概念は、それが感覚要素の加算的総和とは異なり、総和以上の全体であり、諸要素に加えて新たな要因が付加されている事態を示している」というように、境界で明確に仕切られた要素それぞれを扱うのではなく、マッハが機能的依存関係と捉えたように全体でみたときの総和以上のものとしてのゲシュタルトを対象としている。

ゲシュタルトというのは、もともとドイツ語で形態を表す語で、この語に関しては、ゲーテがまさに「形態」というものに着目した『植物形態論』という著書で、こんな風に書いていたりする。

ドイツ人は、実在する物の複雑な在り方に対して形態(ゲシュタルト)という言葉をもっている。この表現は動的なものを捨象し、ある関連しているものが確認され、完結し、その性格において固定されていると見なす。しかし、すべての形態、とくに有機物の形態をよく眺めると、どこにも持続するもの、静止するもの、完結したものが生じてこないことに気がつく。むしろ、すべてのものは絶えず揺れ動いているのである。それゆえドイツ語は、形成という言葉を適切にも、すでに生み出されたものについても、また現に生み出されつつあるものについても使うことにしているのである。

マッハやゲシュタルト心理学は認識論的な側面から形態のもつ動的な機能的依存関係を言ったわけだが、ゲーテはそもそも形態が動的に構成される部分でも、要素それぞれを確固とした境界を持ったものとして分類してしまうリンネ的な分類学を批判し「すべてのものは絶えず揺れ動いている」という曖昧さと不確実性をもった状態を研究テーマにしたわけだ。

このゲーテの形態論的な考え方を受け継いだのがクレーの造形論だと、前田さんは見ている。

クレーが再三要求する運動フォルムとは、「すべての形態、とくに有機体の形態をみるとき、そこに見出せるのは、とどまるもの、静止したままのもの、閉ざされたものでなく、むしろすべてがたえず運動してやまない」(ゲーテ)、そうした有機体の形態としての作品にほかならないのである。有機的形態の場合、部分と全体の関係を論証的に定義することは困難である。有機的形態をとらえるには分析的論証的態度ではなく目的論的態度にたつ高度な観照、ゲーテが直感的判断力と呼んだ独自な思惟が必要である。

クレーは「芸術とは眼にみえるものを再現することではなく、眼にみえるようにすることだ」という芸術観を持っていたことも、静止した形態ではなく、形成の過程としての造形とは何か?を追求したのだろう。

コンストラクションと芸術的直観

クレーは1928年の「芸術の領域における精確な実験」というエッセイで制作論の視点から、構成と直観という意識のあり方を対比しているという。
構成は事物の生成する状態を機能的なものとして捉え、数学や物理学の方法で分析してゆく方法だが、有効でありつつも「構成的なものは全体とはみなされない」としている。直観は何物をもってしても代用できず、これを欠いては芸術作品という「全体をつくりだせない」という形で、クレーは直観を構成に対比している。

実際には芸術だから直観が必要であるというより、ゲシュタルト心理学的な意味で、人間が何かを認識する際にはすべて構成的な思考だけでなく、直観的な思考を必要としており、それゆえ、意味=価値のあるものの造形には直観が必要だということなのだろうと思う。
だからこそ、人間が価値を感じるものの設計には、物の実装としてのエンジニアリングに加えて、デザインというもうひとつの設計の考え方が必要になるのだとも言える。

クレーの時代の芸術は、科学の分野でのゲシュタルト心理学の流れと並行するように、造形におけるコンストラクションが問われていた時代でもあった。

コンポジションとは結局のところ、造形的諸部分単位をその意味価、位置価、明暗価、色彩価などにもとづいて選択・結合し、直観に即してひとつの全体へと自由に配置、統合してゆく過程を意味するが、それは同時に、画家と世界との安定した位置関係を意味していた。コンポジション概念の拡大は当然、新しい造形概念へのシフトをともない、抽象、無媒介的表出、コラージュなどの手法を共約する構成の概念、すなわちコンストラクションを出現させることになる。だが、これはたんなる手法の拡大ではない。コラージュにおける引用部分の制作者の隠蔽性・多数性が端的に物語るように、コンストラクションとは、たんなる構成ではなく、作者の立つ位置の再測定・再構成にほかならないのだ。

造形行為が単なる構成ではなく、直観を要するものである限りにおいて、芸術におけるコンストラクションにも作者がどのような視点で彼の直観を動かし造形に利用するかという観点が同時に問われることになる。

一方、「顔料や布、石、材木、金属など実際物、「モノ」を表現媒体とする造形芸術にとって、制作とは、部分と全体との「関係」をひとつのコンテクストとして形成し、提示することにほかならない」という考えに基づいて、造形における要素を如何にコンストラクトしていくかが検討された。
だが、むずかしいのは要素そのものが文学における言葉や音楽における音に比べて、要素そのものが複合体としてあったからだ。

造形芸術にとって新しいモジュール定立の要請は、記号的な言語や音楽音を媒体とする文学や音楽に比して、より切迫していた。言語的要素や音楽音がモジュールを形成するにふさわしい分節性を与えられているのに対し、造形芸術の表現媒体はそうした分節性さえゼロに定位されたからである。

こうした造形芸術だからこその課題があったからこそ、クレーはマッハの自画像との関係において、要素というもの自体を疑問に付すことから始めたのだと言える。

先にふれたマッハの自画像は、画家クレーにとって「ふざけた課題」ではなく、伝統的な絵画のモジュールの解体を目指す明示する挑発的な課題にほかならなかった。コンストラクションの持つ二つの側面、つまり自己の位置の再構成と、「法則」を「みる」ことは、新しいモジュールの要素を意味した。とすれば、その要請は、ゲシュタルト心理学のそれとおよそ異ならない。

クレーがマッハの自画像に着目したのは、マッハ自身が外と内という仮想的単位を解体して連関や関係性の課題として捉え直したのと同様に、要素のコンストラクションの問題を単なる組み立ての問題ではなく、作家の直観に対する問いと、構成というものをどういう観点から見るかという二重の意味を持ったものとして捉え直そうとしていたからだろう。
そのクレーの造形の考え方は、相互に切り離せないマッハ的な一元論的なものである限りにおいて、ゲシュタルト性質を持っている。

人間にとって、造形はどう見えるのか?

画家クレーにとって、「芸術とは眼にみえるものを再現することではなく、眼にみえるようにすること」であり、眼前の可視的な「典型的イメージ」を導きの糸にして、生成し運動してやまない生命形態の「原型イメージ」を描きとることにほかならない--クレーの眼と手が描きだした植物の素描をみればよい。

と前田さんが書く、クレーの素描は、例えば、こうしたものだ。

ゲーテの「原植物」を視覚化したら、こうかもしれないと思わせるものがある。

ゲーテは収縮と拡張という生命的リズムを具現すると「原植物」の直観に到達したが、とくにそれを図解として描こうとはしなかった。ゲーテの知人で植物学者・画家のピエール=J=F・テュルパンの作図をはじめ、ユークリウス・ザクスやルドルフ・シュタイナー、ヴィルヘルム・トロルの模式図も知られているけれども、われわれは、クレーのこうした線描画以上に、よりゲーテ的な眼差しで「原植物」、「原型イメージ」をとらえた作品をほかに知らない。

ゲーテが植物の形態学で目指したことと、クレーが造形理論として目指したものは厳密にいえば異なる。
ゲーテは、あくまで実際の生物の造形を解き明かそうとしたが、クレーはそれを参考にしつつもそうした自然の造形を人間がどのように認識することで造形というもの自体がどうありうるべきかを問うたのだと思う。

クレーが芸術の役割として考えた「目にみえるようにする」ということは、結局、人間がどういう風にゲシュタルトとしてものを見ているかを理解し直すことだったはずだ。そのことでコンストラクションの問題を再構成しようとしたのが、クレーの造形論であったのだろう。

1つ前で書いたような、人間が情報というものに触れるあり方を「曖昧さと不確実性」をもったものとして捉え直すという場合、まさに、このクレーのような観点が必要なるのだろうと思っている。境界的な思考で考えるのではなく、連関や関係を通じてゲシュタルトが生成される様をどう捉え、それをさまざまなデザインとして落とし込むか? そのあたりを考えていくことは、今後面白そうだなと感じている。

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