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宇宙のあらゆる構成要素が強度的かつ潜在的に人間である

北野圭介さんの『マテリアル・セオリーズ: 新たなる唯物論にむけて』を読んで「新しい唯物論」や「思弁的実在論」といった、人新世だとか、AIやセンシング技術、バイオなどのテクノロジー分野の高度化によるヒトとモノ、人工と自然の垣根が曖昧になりはじめた、ここ最近の社会の変化をとらえる上で有効だと感じる現代の哲学の潮流に興味をもったのをきっかけに、すでにこのnoteでも紹介したように(マガジン「ビブリオテーク」を参照)マヌエル・デランダ『社会の新たな哲学: 集合体、潜在性、創発』、ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」』と読み進めてきた。
もともとはあんまり得意じゃない哲学書を集中して読む期間も、4冊、5冊目に突入して、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道』、スティーヴン・シャヴィロ『モノたちの宇宙:思弁的実在論とは何か』を2冊同時に読み進める段になってくると、最初は何のことが書かれているかわからなかったのが、だんだんとわかる部分も増えて面白さが増してくる。
ひとつの領域の本を集中して読む楽しさはそこにある
本同士が共鳴しあうことで、本を単体で読んだのではわからないことが、複数冊を集中して読むことでどの本にも明示して書かれていないことが、本同士の関係性から浮かび上がってきて、さらなる発見があるからだ。

例えば、いま読んでいる『食人の形而上学』で、デ・カストロがいう「あらゆる動物や、その他の宇宙の構成要素は、強度的に人間なのであり、潜在的に人間なのである」という考えは、ラトゥールのいう「主体は、自らが所有していない自立性を、その主体のおかげで生じる諸存在に与えることで、自立性を受け取るのである。主体は媒介から学ぶ。主体は諸々の物神事実から生じる。物神事実なしでは主体は死ぬだろう」とつなげて考えることができると思う。

この2つを並べることで、AIを代表として人間以外にも感じ考える存在が日常的に顕在化する今後の社会環境において、デザインをする際に必要不可欠になってくるはずの「非人間中心」の態度について考える上で重要なヒントが得られるからだ。

それは北野圭介さんが『マテリアル・セオリーズ』で語る次のような「アニメスティックなセンシビリティ」の必要性という話にリンクする話でもある。

(マイケル・)タウシグはニューヨーク大学で隣の教室で教えていたし、その講義にも出ていました。彼が主張しているのは、近代あるいは資本主義下においては、通常考えられてきたのとは逆に、アニミスティックなセンシビリティが、資本主義と補い合うように、社会のなかに発生しているということですね。わたしがロンドンに滞在したときには、キャピタリスト・アニミズムは映画研究のなかでかねてよりもさらに積極的に論じられていました。わかりやすくいえば、90年代半ば頃から「ガジェット」といういいかたがされるようになりましたが、スマートフォンを顕著な例として私たちがスマホを用いているのか、ガジェットデバイスが私たちを呼び出しているのか、容易にはわからなくなっていると。これは、アニミスティックな感性をめぐってです。

ちなみに、この引用中に名前のあがっているマイケル・タウシグの著書『模倣と他者性: 感覚における特有の歴史』も購入済。

ここで語られる新しい唯物論におけるアニミズムは、デ・カストロのいう「アマゾンの人びとは、およそありそうもない形式によって隠れた人間をみるのだし、より正確にいえば、同様にありえそうもない存在が人間としてみられ」るという事象と瓜二つだ。その意味でも現在は、西洋近代の人間中心主義的な考え方のアップデートが進んでおり、そのベクトルはこれまでマイナーな領域に封じ込められていた非西洋的な見方に回帰していっている。

そして、人間中心主義の見直しの必要性は次のようなスティーヴン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』のなかの言葉にも見出せる。

科学の実験や発見の光に照らしてみても、人間中心主義はますます支持できないものになっている。今やぼくらはこの地球上の他のありとあらゆる生きものとどれほどぼくたちが似ていて緊密に関係しているかを知っているので、自らを他に例のない独自の存在と考えることはできなくなっている。だから、ぼくらは、その境界をとうてい把握しえない宇宙において、コスミックな尺度で生起している様々な過程と、自分たちの利害や経済を切りはなすことはできなくなっている。

宇宙を構成するあらゆるモノや動物が、人間と同様に、人間としてある新しい社会
この新しい社会を考える上では、デランダがドゥルーズから受け継いで『社会の新たな哲学』で考察している集合体の理論が重要だと思う。

歴史的な固有性を創出し安定させる過程としての集合体(assemblage)にかんする理論は、20世紀の終わり間際の数10年の時期に、哲学者ジル・ドゥルーズがつくりだしたものである。この理論は、異種混淆的な部分から構成される多種多様な全体へと適用されるべく意図されている。原子や分子から、生物学的な組織、種、生態的なシステムにまでおよぶ実体は、集合体とみなされることになるだろうし、結果として、歴史的な過程の産物である実体とみなされることになるかもしれない。このことはもちろん、「歴史的なもの」という用語が、ただ人間の歴史だけでなく、宇宙や進化の歴史をも含むものとして使われるということを意味している。集合体の理論はまた、社会的な実体にも適用されるかもしれないが、社会が自然と文化の境界にまたがるという事実こそが、この理論が実在論的なものであることを証明する。

集合体の理論は、自然と文化をつなぎ、その垣根をなくした思考を可能にするし、垣根そのものを無効化する。そのことはデ・カストロの本を参照すると、よりよくわかる。

デ・カストロの本でも、このドゥルーズの理論が「多様体の理論」という別の訳語で議論されている。
多様体の理論の効果は、「解放することである」と、デ・カストロは言う。「ある種の認識論的な牢獄の壁を形成する2つの二元論のあいだに逃走線をひく」ことで、自然と文化、個人と社会という二元論の枠組みがもたらす知の牢獄から思考を解放するのが、ドゥルーズの多様体の理論であるとデ・カストロは考える。

この思考の解放がもたらすのは、具体的には次のような思考の方法の変換である。

かくして多様体は、特定のタイプの存在者を定義するメタ概念なのであり、『千のプラトー』の序章「リゾーム」こそは、その具体的なイメージである。マニュエル・デランダが指摘するように、多様体の理念は、反-本質主義者、反-分類学者であらんとする決断の産物である。ドゥルーズは、この理念を創造することで、本質と範型という古典的形而上学の観念を退位させる。それは、思考を、同定(認識)、分類(カテゴリー化)、判断とは異なる1つの活動として思考し、思考すべきものを実体や主体としてではなく、強度的な特異性として思考しようとするような、「並外れた努力」の主要な手段なのである。

デランダが「有機体論的な全体性にとってかわりうる理論的な手立ての主要なものは、哲学者ジル・ドゥルーズが集合体と呼んでいるもの、つまりは、外在性の諸関係を特徴とする全体性である」と評する、集合体=多様体の理論においては、全体的な統一性やひとつの意味や方向性の共有による連携のようなものが必要とされない。むしろ、集合体=多様体においては「諸関係の外在性は、諸関係そのものが関係することになる項がある程度自律している」のだ。
具体的なイメージとすれば、会社組織のような組織よりも、地縁や血縁的なものではないコミュニティのような集まりに近い。

デ・カストロが集合体=多様体を結びつけるものの特徴として、同定や分類などではなく、強度的なものと言っているが、ここがポイントだ。
思考の転回を求められるのもこの地点である。同定すること、分類すること、それによって何かを分かること。そうした分かり方、認識とは、別のことが求められている。

強度的領域が人格や性の区別を知らないのなら、それは種のいかなる区別をも、とりわけ人間と非人間との区別をも知らないのだ、と。神話においては、すべての行為者は単一の相互作用の領域に配置されており、同時に、存在論的、異質的、社会学的に連続している(そこではあらゆるものが「人間」である。そして、人間はまったく他のものである)。

この人間的なものと非人間的なものの連続性に代表されるように、ドゥルーズ 由来の多様体の理論においては、二元論は両極のいずれかを単純に排他的に選択しなくてはいけないようなものではなくなり、両極がどちらも可能なような状態で開かれている。「シュレーディンガーの猫」を想像させる。

例えば、デ・カストロの提示する、次のような例は典型的だ。

この女は、なるほど私の姉妹であるか妻であるかのどちらかであるが、しかし彼女は、「まさにそのどちら側にも属している」のであって、姉妹たち(兄弟たち)の側では姉妹であり、妻たち(夫たち)の側では妻である--私にとっては同時に両側ということはないが、「しかし、その2つの側のそれぞれは、彼女あるいは彼が滑走しつつ俯瞰する距離の端点である分解不可能な空間における杖の両端と同じように、一方は他方の果てにある」。

杖の両端。
その両極に同時にいることはできないが、どちらの端も杖の上に存在するもの、そして、杖はどちらの側にも属している。
この考え方は従来の二元論とは異なる。人間であることと、動物であることは同時にはできないが、どちらもともに人間であるとアマゾンの人々は考える。シャーマンが、ジャガーになりえるのは、それが杖の両端のようなものだからだ。

この杖の両端のような状態になることを、ドゥルーズとガタリは縁組と呼んだ。そして、その縁組にも2種類あることを示している。

文化的で社会政治的な外延的な縁組があり、そして、反-自然的でコスモポリティックで強度的な縁組がある。外延的縁組が出自を区別するのに対して、強度的縁組は種を撹乱する、あるいはむしろ、非連続的な種別化という制限的な総合によって別の方向=意味に(同じ軌道をえがかない…)現実化された連続的な差異を、内含的な総合によって反-実現する。シャーマンがジャガーに生成するとき、彼はジャガーを「生産する」のでもなければ、ジャガーの子孫に「加わる」のでもない。彼はジャガーをうけいれるのであり、ジャガーになることを認めるのである。つまり、彼はジャガーとの縁組を結ぶのである。

ある意味、ドゥルーズ 以降と呼べるここで紹介した現代の哲学者たちの思考は、みな、近代以降の「人間」というものの定義をアップデートしている。そして、人間のためだけにデザインされた世界というもののあり方をどう見直せばよいかを示してくれている。

「われわれは近代であることをやめつつある」とデ・カストロはいう。

言語から離れていくようにみえるのは、記号そのものである。記号と項、言語と世界が存在論的に不連続性であるという感覚は、言語のリアリティと世界の知覚可能性を保証し、実に多くの他の不連続性や排除--神話と哲学、魔術と科学、未開と文明--の根拠や口実となるものであったが、こうした感覚は、少なくとも伝統的に提起されてきた意味において、形而上学の衰退という苦境に立たされているようにおもわれる。われわれが近代であることをやめつつある--あるいはこういってよければ、けっして近代であったことなどなかった--というのは、もっぱらこの意味においてである。

線形的な因果的機械観で世界を見つめ、機械によって、すべてを覆い尽くそうとしていた僕らだが、実際の世界はそんな機械というより、不連続な生成を行い多様体=集合体が蠢く場所であることがわかってきた。その世界を織りなすものは、結局、どれもが人間だ。そのような見方に立ったとき、世界はどうデザインしなおせるのか? そんなことを考えるヒントが新しい哲学には示されていそうだ。

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