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非同期型社会と再生可能性

イノベーションはいずこへ?

あっという間に、人間が生きる環境が一変し、あらゆるものが機能不全になってしまった。
もちろん、この機能不全によって生じた、今日明日の生活がままならない人や企業に対する補償は急務であることに間違いない。
だが、一方、今日明日の生活や事業推進という意味ではそこまで壊滅的でない人たちだっている。

そうした人たちにとっては1番の課題は補償を得ることではないだろう。この環境での自分たちの生活や事業の持続性を確保するために、どのような抜本的な変革を行うかという議論や活動に参加することではないだろうか。

ようするに、今ほどイノベーションが求められている状況はないし、イノベーションこそが不要不急でないものの最たるものだと思うわけだ。

出勤とか外出などせず、一人ひとりが家でおとなしくイノベーションに取り組むべきだろう。

余裕のある人はいま

今日明日も立ち行かないほど、破壊的な影響を受けた人にはさすがに将来に備えるなんてことをする余裕はない。
そういう人たちへの優先的な補償の仕組みが一刻も早く整備され、開始されてほしい。

一方で、繰り返しになるが、今日明日の生活には壊滅的というほどまでは影響を受けていない人も一定割合いるはずだ。
テレワークでいろんなことを諦めざるをえなくても、さまざまの代替策をやりくりしながら、ある程度の割合で仕事を続けられている人たちの割合だってそれなりにあると思う。テレワークできないという人のなかにだって「既存の事業」の形や業務プロセスにこだわりすぎなければ、代替策でテレワークも可能になる場合だって、まだまだあるはずだ。

とにかく、そういった形でこれまでの日々の生活を維持できている人は、自分たちが被害者であるような意識ばかりではなく、この社会の状況に対して自分たちがやるべきことを考えて行動をはじめる必要があるのだと思う。

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3年先まで見据えて

というのは、そういう人たちにしたところで、壊滅までの時間に猶予があるだけで、この状態が100年前のスペイン風邪の流行のように3年とかいうスパンで断続的に続けば、どこかのタイミングで猶予の期限はくるのは明らかなのだから。
「この状態が終わって元に戻るまで耐える」という選択肢に賭けるというのは、あまりに危険すぎる

3年などのスパンにわたって耐え凌げる体力をもった組織など、どこにもない。
代替策の行使で「従来どおりの事業」を維持していても、事業の需要性そのものが、社会環境がこれほど変わってしまったいま、以前と同じようではないはずだから、どこかで破綻する。
自分たちが耐えていても、他が倒れればその影響はあるのだから、耐えるという選択自体がやばい

また、国などの補償によって今を凌ぐ術を得ることができたようになった人たちも、3年などのスパンで補償を続ける体力など、どんな国にだってない。短期的には補償が不可欠だが、中長期的には別の戦略がいる。
その戦略とはそうした人びとにいち早く(一時的にでも)新しい仕事についてもらえるよう用意することだろう。その「新しい仕事」のための雇用も創出しなくてはならないわけだ。

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破壊はされたのでイノベーションを

だから、いまから考えなくてはならないことの1つは、この社会状況をデフォルトと考えた場合の社会の需要に応える事業の創造だ。
この部分の議論が盛り上がってくる必要がある(いまあるのかな?)。
いまの経済を維持することを優先する政策の間違いはこんなところにもあるのではないか?と思ったりする。

破壊的イノベーションという言葉で、既存の社会環境を塗り替えるイノベーションを指すことがあるが、いまはもう破壊は望まずとも起こってしまった状況だ。そういう意味では、従来のような破壊力を持たないものでもイノベーションの可能性があるのがいまだ。

イノベーションのハードルは大きく下がっている

通常の仕事はままならず、その意味ではそこに使っていたリソースをイノベーション創造に回すことが本来可能な状態であるはずだ(需要の減った既存事業の維持に代替策で対応することに疲弊したりしていないかぎり)。

多くの企業にとって、いまほど「新規事業開発」に取り組みやすい状況はないのではないか?
そのくらい市場の需要が縮小して、既存の事業が立ちいかなくなっているケースがほとんどなのだから。

しかも、既存の需要は減っても、この状況だからこそ新たに生まれたニーズは山ほどあって、イノベーションの種は捨てるほどある
あとはその種を拾って育てるところにリソースを割く判断をするかだろう。既存の事業を維持するためにリソースを割くか、新たなイノベーションの栽培にリソースを配分するかだ。

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文字の共和国

さて、長くなったが実はここまでは前置き。
今回、書きたかったのは、ではどうしたらイノベーションのための活動を、この個々が分断された状況で行っていくか?ということである。

イノベーションの栽培にリソースを割くと決めても、ひとつ前の「同期型と非同期形」でも書いたように、そのリソースを使ったイノベーション創造の仕事をするのも、まあ困難な状況であるのも確かだ。
困難を克服するためには、同期型の幻想から抜けだすことがひとつ大きなことだと思っている。
空間的にバラバラに分断されているのだから、無理矢理、時間的に同期することを望まず、この際、バラバラに分断された状況での非同期性の利点を有効に使う戦略に切り替える必要があると思っているということを、「同期型と非同期型」でも書いた。

その論をここではもうすこし進めてみたい。

参考になるのは、『知はいかにして「再発明」されたか』(イアン・F・マクニーリー、ライザ・ウルヴァートン著)という本に紹介されている、宗教改革以降のヨーロッパに登場した、知的生産の方法である「文字の共和国」だ。

文字の共和国は、宗教と政治の混合体によってヨーロッパが引き裂かれた瞬間に生まれた比喩的な方策であって、この危機の時代に、大学に代わってヨーロッパの学問を縫い集め、古き大学と競い合いもすれば互いに補い合いもする世俗的な学問の制度となった。

著者らによれば「文字の共和国とは、手書きの郵便書簡からはじまり、やがて印刷された書籍や雑誌によって縫い合わされることとなった学問の国際共同体」である。
僕らにとって示唆的なのは、それが上の引用にあるとおり、「宗教と政治の混合体によってヨーロッパが引き裂かれた瞬間に生まれた比喩的な方策」であり、「危機の時代」に、大学という同期型(同じ場所で、同じ時間に学び、研究する)の知的インフラに取って代わった、非同期型の知的インフラであったということだ。

16世期〜17世期の宗教改革以降の戦禍にまみれたヨーロッパの状況は、外出や移動、不用意な人間同士の接触が制限されて、いまの状況と類似していた。
その状況において、手紙や書籍といった非同期的な知的ツールを用いて、さまざまな人が交流し、協働で知的創造を行なっていたということは、僕らがこれから創造行為を行う上で参考になる。

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再生可能性が場所に依存しない非同期を可能にする

もちろん、これには活版印刷とグローバルな郵便ネットワークという技術的な道具立てが前提だった。それが手書きの手紙や、印刷された書籍や文書による「文字の共和国」という知的交流・協働活動を可能にしていたのだが、僕らにはそれ以上の知的インフラとしてインターネットがある。
文章以外にも、動画などのコンテンツも非同期型の交流を可能にするコンテンツだし、Zoomなどのビデオ会議で同期型の交流もリアルでの対面とは異なる形になれど、可能だ。

ゆえに、文字の共和国同様に、場所に無縁の知的ネットワークが可能になる。

その人が暮らす特定の町における権利を保障していた中世の都市の市民権とは異なり、文字の共和国の市民権は、国境とは関係がなかった。それに、中世のウニベルシタスのようなギルドの市民権とも異なり、携行できる証明書や学位や正式の信用状は不要で、その意味でも国際的だった。規則に従って市民として振る舞う者は、だれでもこの国に所属することができた。文字の共和国は、パリやボローニャのような具体的なノードを持たない。場所とはまったく無縁のネットワークだったのである。

ここで、ポイントとして大事にしたいのは、コンテンツの再生可能性である。
非同期であることを可能にするのは、
1.各コンテンツを発信者が好きな時間に記録・記述することができることと、
2.受信者がいつでも自分が好きな時間に再生することができる
ことの2つの条件だ。

この点では、Zoomによるオンラインミーティングなどは記録はできても、それをあとで見返すのには向いていないという点で、再生可能性はないとは言わないまでも低い。

つまり、同期型のコンテンツと、非同期型のコンテンツは別物であり、それぞれの用途に合わせた企画、デザインが必要だということだ。
僕が、ワークショップやセミナーなどをそのまま非同期型が中心になる現在の環境で劣化型で再現しようとするやり方を好まないのはそういうわけでもある。

同期がむずかしい環境で、無理矢理に同期型の方法を再現しようとする必要はなく、非同期型のコンテンツを作成し、それを交換できる方法をあらためて整備し仕組み化して、その仕組みに基づく組織やコミュニティを構築しなおすことを考えたほうが良い。
すでに壊れた従来型の組織、仕組み、使いづらくなった方法に固執せずに、いまの環境に合わせた更新を図るべき段階にすでに入っている。

頭の切り替えが必要だ。

非同期型の再生可能なコンテンツとして、文章や動画コンテンツなどの作成〜アーカイブ〜再生の仕組みをつくり、その運用を行うことで、この状況において、新しい事業の開発を進める上での土台も同時につくっていけるとよい(そう。土台がないから、新事業開発が進められないわけではない)。

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ドキュメント文化とその仕組み

整理しよう。
いま切り替えが必要なのは、こういうことだ。

・同じ場所でではなく、別々の場所で
・同じこと時間にいっしょにではなく、別々の時間に
・ミーティング中心から、ドキュメント中心へ
・会話(話し言葉)ではなく、文字(書き言葉)で
・聞くことから、読むことへ
・意見も判断も、集中ではなく、分散へ
・人が一箇所に集まるのではなく、情報を一箇所に集める
・教習ではなく、学習へ
・同じ1つのプロセスに従うのではなく、同じ目的を達成するのに複数のプロセスから選択できるように

などだ。
(たぶん、このリストはもっと増えていく)

そのためには、ミーティングが中心だった組織内のオペレーションの仕組みを、ドキュメントベースやテクストでのフロー情報の見える化を進めていく必要があるだろう。
ドキュメントが一箇所に集められ、再生や利用が可能にする仕組みづくりだ。

一部の人だけが、非同期型のドキュメント中心に移行しただけでは、組織や仕組みとしては脆弱である。
ゆえに、文化もドキュメント型に移行していかなくてはならない。

ここでも理解のために、「文字の共和国」の話がイメージの参考になる。

(アダム・)スミスが登場する頃には、ヨーロッパのもっとも市場経験に富んだ知識人たちが、すでに文字の共和国から知識を収集整理したうえで流布する作業にとりかかっていた。広く検閲がされていたにもかかわらず、版元は、あらゆる社会階層を巻き込んで読み書きの能力を広げ、18世紀の「読書革命」を起こした。啓蒙運動の思想家たちは心から、書き言葉を使えば、読者にたくさんの役に立つ知識を届けられる、と信じていた。こうしてじきに学問の世界でも、ラテン語よりも土地言葉のほうがよく使われるようになった。

こうした18世期の版元のように、どのようにして書き言葉の普及を行うかが1つのポイントになるだろう。

もちろん、人びとの慣れ親しんだスタイルを変えていくのはそう簡単にはいかない。
けれど、変わらなくては崩壊が待つだけである。

なのに、いまnoteですら、全体的にアクセスなどが落ちているように感じるのは、悲しい限りだ。
いまこそ、それぞれの知や思考をテクスト化して、それを読むことの意味が問われているというのに。


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