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脱成長/セルジュ・ラトゥーシュ

最近、仕事で「非財務価値」という言葉をよく使っている。

一般的な用語かというとあやしい。
通常は、企業が従来、自社の価値を示すのに用いていた財務情報がそれだけでは機能しなくなった現在において、あらたに企業価値を示すものとして開示の重視性が高まった「非財務情報」という言い方だったり、そうした情報によってあらわされる財務化しづらい資本を指す「非財務資本」という使われ方をするほうが多いだろう。

そこをあえて非財務価値という言い方をしているのは、お金とは別のかたちで価値について意識し考えることがいまとても重要なことだと思うからだ。
それは企業の価値を示すという狭く閉じられた目的に限ってではなく、むしろ僕らの暮らしや生そのものにおいて、すべてを金額換算された価値評価にのみ落としこまれてそれ以外の価値評価が流通していないこと、お金を払わないとなんの価値も手に入らないような、あたかもそれ以外の価値が存在しないかのように社会がまわってしまっていること、そんな状態から脱けだす必要があると考えているからである。
人間同士の交流において、たがいを評価する――ほめる、感謝する、恩にきる、よろこぶ――といったことがお金の価値評価に頼りすぎてしまっていることでできにくくなっていることをちゃんと問題視しなくてはならない。

そんな思いをもっていた僕にとって、このフランス人経済学者セルジュ・ラトゥーシュによる『脱成長』は、とても共感できる内容がつまった一冊だった。

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プライスレスなものが非財務価値ではない

ただ、非財務価値という言い方をすると、プライスレスな価値だけが対象であるかのような誤解を生んでしまうかもしれない。

だが、そうではない。
財務価値があるものと、非財務価値しかないものがあるのではなく、同じものにも財務的に評価される価値と、非財務的な観点で評価される価値があるという理解が正しい。
交換価値と使用価値などという言い方もあるが、非財務価値は必ずしも使用価値のみではないだろう。

あるモノを測るのに、大きさを幅、高さ、奥行きというそれぞれの長さで測るのと同時に、重さで測ることが可能なように、あるモノの価値を測るのは金額で測るのと同時に、効果という価値で測ることはすこしもおかしくない。

医薬品業界の価値は、その業界の経済的規模で測るだけでなく、その業界がどれだけの人の命を救い健康に貢献してきたかで測るほうが正しいのではないだろうか?
仮に、その医療業界と同じ規模の価値を広告業界が出していたとしたら、それは同じ社会的価値があると見なしていいのだろうか?と疑問をもつことが大事ではないだろうかと思う。

経済成長を重視することから生じる問題

本書の著者セルジュ・ラトゥーシュも経済的価値で評価することの矛盾を、こんな風な例を示して教えてくれる。

2005年3月に刊行されたミレニアム・エコシステム評価報告書(国連)によると、「プラスの経済成長を経験した国の多くは、自然資源破壊を計算に入れた場合、富は低下するだろう」。テキサス大学の報告書によると、2003年の米国では、交通渋滞だけで630億ドルに相当する時間のロスと過剰消費が発生した。世界銀行によると、ダカールの大気汚染と自動車渋滞は、セネガルの国内総生産を5ポイント上昇させた。産業医は、労働のストレスのコストがフランスの国内総生産の3%に相当すると推計している。ワールド・リソース研究所は、自然資本に対する天引きを考慮した場合の経済成長率の減少を査定しようとした。インドネシアに関しては、1971年から1984年の間の平均経済成長率は年率7%から4%に下がった。森林破壊、石油・天然ガスの埋蔵地の開発、土壌の脆弱化という3つの要素を加味しただけでこの結果となったのだ。

経済的成長を社会的な価値判断として重視しすぎることの矛盾がここにある。

GDPが上がることのみを社会が豊かになることの判断基準と考えていたら、上の例のように、増え続ける環境・社会課題への対応のために致し方なくかけているコストまで、プラスの経済的価値であるかのような間違った評価が生まれてしまう。場合によってはもっと環境・社会問題が増えたほうが経済を成長させられるという馬鹿げた発想を生んでしまいかねない。

いまが地質年代的にも「人新世」と呼ばれるように、僕らはいまや人間のさまざまな活動が地球規模の問題を引き起こすことを理解している(はずだ)。

化石燃料の利用が大量の温暖化ガスを発生させたり、マイクロプラスチックの問題を生じさせ、その代替として行われているはずのメガソーラーの設置は多くの木々を伐採することで土地の水分保持能力を低下させたり景観を破壊したりするし、同じく代替エネルギーと期待される水素も実はその生成過程で結局は大量の化石燃料を用いていることを隠している。

ラトゥーシュが次のようにいうとおり、そこでは自然資本に与える減価償却分がまったく計算されずに、すべてがプラスの経済価値であるかのように計算され、間違った評価を僕らに植え付けようとしているのだ。

生産された富を最も厳密に評価するためには、生産物から資本の減価償却分(評価することが難しいので、統計学者は無視する)を差し引いて、国内純生産を推計しなければならないからである。また、経済成長の生態学的コスト――経済学者の言語を援用するならば、「自然資本」の減価償却分――が忘却されてもいるからだ。

経済的な数値からはプラスが生じているような錯覚を見せられているが、その実、その経済的成長は、増え続ける環境、社会課題の処理を用いられるコストをプラスに換算しているだけのものだし、環境的にも社会的にもどんどん負債=問題は増えるのだから、経済成長しても僕らが幸せになどならないのは当然のことである。

ブルシット・ジョブが生まれる理由

こうしたことを考えると、なぜ、この社会にデヴィッド・グレーバーが指摘したようなブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)が生まれ続けているかもわかってくるだろう。

グレーバーは『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で経済成長重視の姿勢がもたらす馬鹿げた政策判断を示すものとして、こんな事例を紹介していた。

イギリスにおいては「緊縮政策」の8年間に、看護師、バスの運転手、消防士、鉄道案内員、救急医療スタッフなど、社会に対し直接にはっきりと便益をもたらしているほとんどすべての公務員の賃金が、実質的に削減された。その結果、チャリティーの食料配給サービスで生計を立てるフルタイムの看護師があらわれるにまでいたったのである。ところが、政権与党はこの状況をつくりだしたことを誇りに感じるようになっていた。看護師や警察官の昇給を盛り込んだ法案が否決されたとき、歓声をあげた議員たちがいたくらいである。この政党はまた、その数年前には、世界経済をほとんど壊滅に追い込んだシティの銀行家たちへの補償金を大幅に増額すべきという大甘の見解をふりまわしたことで悪名高い。にもかかわらず、その政府の人気は依然として衰えを知らなかったのである。

経済成長、GDPを増やすことだけを重視しようとしたら、シティの金融機関を優遇する政策は効率の面では間違ってはいない。

しかし、それが真に社会的な豊かさをもたらすかというと全くそうではないだろう。

金融サービス(特に富裕層向け)の重視は確かにアメリカやイギリスの国の経済を成長させたかもしれないが、その結果生じたのはグレーバーもアクティビストとして参加した、2011年のウォール街を占拠せよ運動におけるスローガンともなった「 私たちは99%だ(We are the 99%)」が示す救いようのない経済格差だ。

さらに、それによって、「看護師、バスの運転手、消防士、鉄道案内員、救急医療スタッフなど」のどうみても大事な社会的価値を担ってくれている人たちの仕事が評価されなくなっているのだとしたら、いったい経済成長にどんなメリットがあるのだろうか?

経済成長は社会的に意味のある労働価値を奪っていく。

自然の資源をゴミにするリニアエコノミー

しかし、経済成長の犠牲になって失われているのは、そうしたエッセンシャルワーカーの貴重な労働の価値だけではない。

犠牲になっているものには、なによりこの地球そのものがもつ価値も含まれる。
あたかも経済人たちはみな、ごくごく簡単なエントロピーの理論も理解しているかのように、馬鹿げたリニア・エコノミーがいつまでも続くと思っているらしい。

ジョージェスク=レーゲンは、経済学がニュートンの古典力学モデルを採用することで時間の不可逆性を排除したと指摘する。したがって経済学はエントロピー、つまりエネルギー転換/物質転換の不可逆性を無視している。そのため経済活動によって生産されるゴミや汚染は、経済学の標準的な生産関数のなかに加味されない。1880年頃に生産関数から土地が取り除かれ――新古典派経済学者は自然資源を自律的な生産要素とみなさず、資本の中に組み込む――、自然との最後のつながりが絶たれた。生物物理学的基層への準拠が消え去り、大多数の経済理論家によって概念化される経済的生産活動は、あらゆる生態学的限界に向き合わなくなったように思われる。その結果、利用可能な希少資源を無意識のうちに浪費し、豊富に流れる太陽エネルギーをあまり使用しないようになった。

もともと自然が有していた価値のすべてが最終的には、ゴミや廃棄物による汚染というマイナス価値になってしまうことを考慮もしない、これまでのリニアな経済システムを許してしまうのは、こうした経済的なコストのみで価値の算出を行なってしまっていたからなのだろう。
そうした観点では、なぜサーキュラー(循環型)の経済システムが必要かを説明できず、そのシステムへの移行を単なるコストとしか考えられない。ゆえに循環型経済への移行が進まないのだ。

また、経済成長の観点では、金銭的なコストはマイナス計上することはできても、非財務的な価値のマイナスは計算されないがゆえに、場合によってはそのマイナスの処理から生まれる経済的なプラスの数値がよいものとして評価されてしまうことすらある。先の引用で大気汚染や交通渋滞、労働によるストレスへの対処のためのコストが、それらの業務を担う組織の売上としてプラス計上されて、生産性をあらわすことになってしまうように。

そして、それがいま持続可能性という名の下、いつわりの対策=グリーンウォッシングによって、本当は課題解決にならないような方法――電気自動車に変えることや、水素エネルギーに変えることで、脱炭素が進むというが実際はその生産に関わる分も含めるとco2排出量は大して変わらない――の提示で世間を偽り、相変わらず問題を垂れ流すような開発を進めることがまかり通ってしまうような事態を生じさせてしまってもいるのだ。

経済成長という物差しだけで見ていると、いろんなことを見誤ってしまう。

持続可能な開発は忘れよう

そもそもSDGsという目標設定自体がやはりあやしい。

ラトゥーシュはこんなふうに書いているが、実際、そのとおりで目標への歩みは遅々として進んでいない。

持続可能な開発の公式の定義によれば、「経済的に効率がよく、生態学的に持続可能で、社会的に公平で、民主主義に立脚し、地政学的に容認されうる、文化的に多様な」開発である。端的に言えば、シロツグミのように発見不可能な代物だ!

国際連合広報センターが出しているSDGsの進捗報告のレポートをみたことがあるだろうか?

2020年に関してみても、以下のリンク先のとおりで、あと10年でゴールの達成が可能と思える状況とは思えない。

https://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/sustainable_development/2030agenda/sdgs_report/

そもそもそんなにもまだ開発が必要なのか、経済成長が必要なのかという話である。

脱成長とは

こうした経済成長偏重な現在の社会システムに対して、ラトゥーシュが提案する代替案が「脱成長」の社会システムの構築である。

「脱成長」というワードによって誤解されがちだが、ラトゥーシュの提示するのは、あらゆる経済成長を拒もうというメッセージではまったくない。経済成長のみを優先することをやめようということであり、「脱成長派の立場を戯画化する人々が意図するのとは反対に、何でもよいのですべてを際限なく減らすべきだと主張する」ことではなくて、脱成長が目指しいるのはあくまで「生態系の再生産に見合う物質的生活水準に戻る」ことを重視することだ。

ゆえに、

脱成長は、別の形の経済成長を企図するものでも、(持続可能な開発、社会開発、連帯的な開発など)別の形の開発を企図するものでもない。それは、これまでとは異なる社会――節度ある豊かな社会、(ドイツの経済学者ニコ・ペーチの言葉では)「ポスト成長社会」、もしくは(英国の経済学者ティム・ジャクソンの言葉では)「経済成長なき繁栄」――を構築する企てである。

ということになるし、また、

言い換えると、脱成長は経済学的な企てでも別の経済を構築する企てでもなく、現実としての経済および帝国主義的言説としての経済から抜け出すことを意味する社会的企てである。

ともなる。

そして、大事なのは、脱成長がひとつの解を持つようなものではなく、多様なオルタナティブな社会的富のありようを可能にするような基盤となるよう、社会のありようを変革する試みであるのだ。

「脱成長」という言葉は、複合的なオルタナティブ社会を構築する企てを意図している。

僕が今回この本を読んで、ラトゥーシュの脱成長の方向性に共感するのはまさにこの点である。

ひとりひとりの自律性、地域の自律性

ラトゥーシュは脱成長に向かう社会での、市民の自律性を重視している。

経済成長偏重のこれまでの社会システムにおいて問題だったことのひとつは、すべての価値を商品化してしまうことで、人間が従来もっていたさまざまな機能を剥奪してしまったことである。

かつては個々人もしくは地域のコミュニティが自律的に行っていた事柄がすべてできないようになって、お金を払って得なくてはいけない商品、サービスになってしまったことだ。

経済成長偏重の社会はあらゆるものの商品化やそのグローバリゼーションを進めたあげく、地域内での子育てや介護の援助が成り立たない状況を生み出したり、小規模農家や小規模店舗、その他自営業が立ち行かなくさせたり、料理や掃除、洗濯などの家事、文章の読み書きや読書、DIYを含む工作や修理などを個人から奪ってしまった。

地球規模での殺戮ゲームであるグローバリゼーションは、財政的・社会的・環境的ダンピングを推進するためにはあらゆる地域を経済競争状態に置き、小農民、職人、小規模産業、自営業などローカルな自律性の経済的・社会的基盤を破壊している。グローバリゼーションは、文化を民俗芸能に還元し、政治を空洞化し、市場法則ただ一つに奉仕する地球の画一化を生み出している。

ゆえに脱成長の社会システムの移行に際しては、失われた個々人の自律性、地域の自律性を再獲得することが必要になる。

脱成長運動によると、市民社会の果たすべき役割は、権力を制御し、民衆の要求が満たされるように権力に対して必要な圧力をかけることにある。したがって、政治機構を再考し、社会自身の手によって政治機構を構築することが重要だ。これはまさに、サパティスタ運動が実践を試みていることである。脱成長は、具体的でローカルな特殊性と一にして多なる世界のビジョンとを接合する問題関心を、サパティスタと共有している。そう、「多くの世界がその居場所を見つけられる世界をつくる」という問題関心だ。

そう。ここで以前に紹介したサパティスタへの言及もある。
デヴィッド・グレーバーや斎藤幸平さんもサパティスタへの言及を行っていたとおり、新自由主義経済に対抗したサパティスタの活動はこれからの民主的な自律した地域コミュニティを軸にした新しい社会システムを考える上では大いに参考にすべきことがあらためてわかる。

再ローカリゼーションには否定的側面もあり、何よりそれは「脱グローバリゼーション」を意味する。しかし、再ローカリゼーションはこの防御的側面のみに還元されるものではない。問題は、歴史的状況に適応した地域の自律性を再発明することだ。

地域と個々人の自律性こそが、経済成長偏重の社会システムを脱却して、あらためて本当の豊かさのための社会システムを構築しなおす際の軸になるものだと思う。

そして、そのときにはお金の役割すら変わるのだ。

地域通貨の使用――「融解する通貨」、すなわち時価の経過と共に/定期的に「リチャージ」される前に価値を失う通貨、ないし非兌換通貨(レストラン券、ホリデーバウチャーなど)――は、貨幣の再領有化の第一歩だ。お金は良き使用人ではあるけれども、いつでも悪い主人となりうるので、地域通貨の取り組みは再ローカリゼーション戦略の重要な要素を構成する。

「節度ある豊かな社会の構想は、政治権力の掌握によってではなく、精神の革命によって実現される」とラトゥーシュは書いている。

そう。僕らの精神そのものを革命的に更新する必要があるのだ。

何よりもまず、我々の想念を脱植民地化することが重要だ。

とあるように、僕らは経済成長偏重の思想によって植民地化されていた状態を脱し、みずからの力で生きられるよう自律性を再獲得しなくてはならない(そんな観点で、同様に政治における生の解放を問うアガンベンの著作――『身体の使用』『例外状態』――なども僕は読み進めている)。

というわけで、いろんな人に読んでほしい一冊。

ちなみに、いま売ってるものは、こんな風にカバーが変わったみたいです。



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