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詩のある処

有名なエッカーマンによる『ゲーテとの対話』を読みはじめた。ゲーテの晩年における交流が記されたものだが、なかなか面白い。

例えば、ゲーテがエッカーマンに話したこんな言葉が記録されている。

世界は大きく豊かだし、人生はまことに多種多様なものだから、詩をつくるきっかけに事欠くようなことは決してない。しかし、詩はすべて機会の詩(ゲレーデンハイツゲディヒテ)でなければいけない。つまり、現実が詩作のための動機と素材をあたえるのでなければならない。ある特殊な場合が、まさに詩人の手にかかってこそ、普遍的な、詩的なものになるのだ。

エッカーマンは、この言葉を「私には何とも貴重な、一生ためになる話」で、「ドイツの若い詩人たちはみなそれを知らなければなるまい」という思いもあって残している。なるほど、残しておきたい言葉だ。

つくりものの詩を評価しないとゲーテは言う。
詩の機会は、虚構のなかにあるのではなく、あくまで現実のうちにある、と。

詩人が詩を見つける

それぞれの人に訪れる、それぞれに特殊な日常が、詩人の手によって普遍的な詩となる。ようは詩人というものは特殊のなかに普遍を見いだす目をもっているということになるだろう。それはどんな目で、どうやって普遍を見いだすのだろうか?

エッカーマンは続けて、こんな言葉も記録している。

現実には詩的な興味が欠けている、などといってはいけない。というのは、まさに詩人たるものは、平凡な対象からも興味ふかい側面をつかみだすくらいに豊富な精神の活動力を発揮してこそ詩人たるの価値があるのだから。現実は、そのためのモティーフを、表現すべきポイントを、本来の核心を、あたえるのでなくてはならないが、さてそれから一つの美しい生きた全体をつくりだすのは詩人の仕事だ。

平凡な対象から興味深い側面をつかみだし、一つの美しい生きた全体をつくるのが、詩人の仕事だとゲーテは言っている。「豊富な精神の活動力を発揮して」だ。

いずれにせよ、対象の側に詩はあるのではない。では、詩は詩人の側にあるのだろうか?
いや、そうでもないだろう。ゲーテが日常の機会に詩を見つけることを勧めるとおり、詩は日常と詩人のあいだにこそあるのだと思う。

ゲーテはこの話を詩作を志すエッカーマンへの「あまり大作は用心した方がいい」との忠告からはじめている。

「現在には現在の権利がある」とゲーテは言う。
「その日その日に詩人の内部の思想や感情につきあげてくるものは、みな表現されることを求めているし、表現されるべきもの」だと。
しかし、大作への思いがあるとそれが邪魔をして、日常的に「つきあげてくるもの」すべてが退けられてしまう。つまり、自分の中の思いが現実を自分から遠ざけてしまうのだ。だから、小さな作品を心がけよと、ゲーテはエッカーマンに助言をあたえる。詩の機会が逃してしまわないように。

10を聞いて10以上を知る

当然といえば当然なのだけれど、詩人が見るものと、それ以外の人がみる日常そのものが変わるわけではない。同じものを見ても、詩を見つけられるかは、その人次第ということになる。

僕らの日常においても、同様だ。
同じ話を聞いていても、そこから10理解する人もいれば、2、3を理解するのがやっとな人、さらには、話された内容の10以上のものを理解してしまう人がいる。
なぜ10以上をうけとることが可能なのか?と訝しく感じる人もいるかもしれない。10ならわかるが、何故10以上があるのか?と。

だが、1つ前の「境界でなく、動的な連関として」で書いた、人間の知覚は要素の総和以上のものからなるというゲシュタルト性質を思いだしてもらえれば、話の総和としての10があり得ることも想像できるのではないだろうか。そこにある10の要素以外にも、人間の心理は過去の体験やその記憶も総動員して、いま聞いた話や見たもの、体験したことを評価しているのだと想像がつくだろうから。

ようは、同じ物事を見たり聞いたり体験して、理解度が異なったり、詩的想像が広がったりするかしなかったりという違いが生じるのは、自分の内にアーカイブした記憶や知識を即座に呼びだし編集することができるかという能力的な違いによるものだろう。
いや、能力以前にどれだけ記憶の蓄積、知識や理解の蓄積があるかということも大きな要素だ。

詩は、確固としたものの圏内の背後にある

わかりやすいとか、わかりにくいとかも、対象の側にも要因はあるとはいえ、うけとる側の要因はさらに大きい。だとしたら、うけとる力を磨いておく必要がある。

オルフェウスの声』で、エリザベス・シューエルが詩人リルケの知への限りない欲望を、こんな風に書き綴るのも、この観点からよく理解できる。

自分が星について、花、動物について、生命のあらゆる仕組みについていかに無知か嘆き、「自然科学と生物学の本を読み、講義を聞きに行こう」と殊勝な決心をしているのは1903年、1904年のことである。後になると計画はもっと具体的で、「それでは夏学期には大学に行って、歴史学、自然科学、生理学、生物学、実験心理学、少しは解剖学等々も学ぼう」とある。注に付記して曰く、「グリムの辞書を忘れないこと」、と。リルケは生命に大きな関心と信頼を持ち、生命の働きとその一部としての人間に興味を持っているが、その人間は千年紀をひとつ越えさせてくれた自然宇宙と調和して軋轢のない存在なのである。

いろんな経験だとか、勉強だとか、チャレンジだとかの蓄積が、ある日常のなかに詩を見つける可能性を開くのだから。そう。その瞬間、ゲシュタルト=形成が動くのだ。詩の「機会」さえ見落とさなければ。

ランボーはかつての先生イザンバールに宛てた有名な手紙の中で〈見者〉たる詩人について語っている。この者は、リアルな現実、すなわち確固としたものの圏内の背後にある原現実の視界に達するために、それらを拒絶し突破する晴れやかな任務を帯びているのであると。詩人はその告知者でありたいと願うし、そうあらねばならない。

エルネスト・グラッシは『形象の力』で、そう書いている。みずからの、そして、社会のものでもある大きな思いこみがつくる「確固としたものの圏内」、その「背後にある」ものを見落とさないこと。日常において詩の機会を見つけるというのは、そういうことだろう。

それには自分自身の経験や思考という活動、みずからの直観を信じて、背後にあるものを感じることが必要だ。
グラッシがこんな風に書いているみたいに。

芸術家は常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人であり、人間の本質と人間の世界を形成する挫けることなき精神の自由の証人であり、あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者である。

僕らは芸術家ではないかもしれない。
けれど、挫けることなく、それぞれの世界を形成する自由は見失わないよう、いつまでも抗っていたくはないだろうか?

#詩 #発見 #思考 #コラム #芸術

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